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江戸時代は17世紀、18世紀、19世紀と3つに分けて見ていきます。
今回は17世紀です。ただ、綱吉はちょっとだけ18世紀に入ります。
ということで最初にまとめ。
- 【徳川家康】
- 1600年 関ヶ原の戦い vs石田三成
- 1603年 征夷大将軍→江戸幕府スタート
- 1605年 秀忠に将軍位を譲る→大御所政治
- ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問に→スペイン外交に積極的
- 朱印船貿易→東南アジアに日本町※山田長政
- 1615年 大坂の陣→豊臣氏滅亡
- 元和の武家諸法度、禁中並公家諸法度※崇伝
- 【3代将軍徳川家光】
- 幕府のしくみ完成
- 幕藩体制…幕府と藩による日本支配
- 幕府直轄地と旗本領を合わせると全国の4分の1
- 親藩(御三家など)、譜代、外様
- 老中を中心に合議による政治
- 1635年 参勤交代スタート
- 村請制→村方三役、五人組→連帯責任
- 1639年 ポルトガル船来航禁止→鎖国完成※キリスト教禁止、貿易統制
- 貿易港は長崎のみ、相手はオランダと清のみ
- 【5代将軍徳川綱吉】
- 文治政治、湯島聖堂、聖堂学問所
- 生類憐れみの令
- 寛永文化…俵屋宗達、狩野探幽、林羅山
秀吉の死後、影響力を広げる家康
豊臣秀吉は、2回めの朝鮮出兵、つまり慶長の役の間に病死し、それで朝鮮出兵は終了となります。
その後、徳川家康は、他の有力者を頻繁に訪問したり、他の有力者の同意も得ずに縁組を結んだりと、豊臣家の法令に違反して勢力を広げようとする動きが目立つようになります。
それで他の四大老五奉行との関係が怪しくなってくるわけですが、前田利家が生きている間は、なんとか対立を抑えてくれていました。
しかし利家が病死すると、対立は先鋭化していきます。徳川家康と特に対立したのは石田三成でした。
そこに石田三成と加藤清正・福島正則ら武断派の対立が重なり、一触即発の状況となってきます。
関ヶ原の戦い
そんなタイミングで、徳川家康は上杉景勝討伐の兵を起こしますので、これはもう誘っているとしか思えません。
石田三成はこの機を捉えて、家康を弾劾する文書を各大名に送り、反家康勢力の結集を図ります。
そして東西両軍に分かれ、1600年、琵琶湖の東の関ケ原で激突することになりました。
1600年 関ヶ原の戦い「ひろおおい! 関ヶ原」
家康の事前の根回しもあり、いざ始まってみると石田三成を裏切る者(小早川秀秋が有名)、裏切るまでは行かなくても積極的に戦わない者が続出し、石田三成は敗れることになります。
これによって家康は、反徳川氏だけでなく豊臣氏の領地の多くも奪い、それを徳川氏や、親徳川氏大名のものとして、圧倒的な力を持つようになります。
逆に、豊臣秀頼は、大きく力を削り取られることとなりました。
その後、1603年、家康は征夷大将軍に任命されます。ここから江戸幕府スタート。
1603年 家康、征夷大将軍に「ヒーロォさんは、家康さん」
徳川家康の政策
江戸幕府と言うと「鎖国」というイメージがありますが、徳川家康は外交に積極的でした。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)
関ヶ原の戦いが起こった1600年に、豊後国(大分県)にオランダ船リーフデ号が漂着します。家康は、リーフデ号の船員だったイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針、みうらあんじん)を外交顧問とします。
このアダムスさん、ただの航海士ではありません。イギリスがスペインの「無敵艦隊」を破ったアルマダの海戦で、補給船の船長を務めています。
それくらいの人ですので、家康さんも「む、こいつ、できるな!」と思ったのでしょう。
ただ家康は、リーフデ号のオランダでもなく、アダムズの故郷イギリスでもなく、スペインとの外交に積極的だったようです。これはスペインの最新の金銀精錬法を知りたかったからだとか。
オランダやイギリスとの交易はもっと後になります。
朱印船貿易
また、貿易船に朱印状をもたせて、東南アジア貿易を推進しています。これを朱印船貿易といいます。
朱印状というのは「幕府公認の貿易船ですよ~、怪しくないですよ~」と証明するための文書です。
朱印船貿易の影響で、東南アジア各地に日本町ができました。タイのアユタヤで活躍した山田長政(やまだながまさ)は有名です。
一方で1612年には禁教令を出してキリスト教を禁じますが、貿易は奨励しているのでなかなか徹底できませんでした。
大御所政治
1603年に征夷大将軍となった徳川家康ですが、1605年には息子の秀忠に将軍の座を譲っています。これは、徳川家で征夷大将軍は世襲していくことを示すためだと言われています。
その後は駿府(すんぷ、静岡市)に移って実権を握り続けました。これを大御所政治といいます。
豊臣氏を滅ぼす
ここまで順調に政権掌握を進めてきた家康ですが、まだどうしても見過ごすことのできない存在が残っています。
大坂城で頑張っている豊臣秀頼です。これをなんとかしておかないと、死んでも死にきれません。
秀頼と言うと、母の淀殿に何でも決めてもらっていたマザコン軟弱無能イメージがあった人ですが、近年の研究では「実は有能」とも言われるようになりました。
だからこそ家康も
「こいつ生かしておくと、幕府潰されかねんな・・・」
と思ったのかもしれません。それで少しくらい強引でもいいから、口実を探したのかもしれません。
ということで1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏に戦いを仕掛けることになります。大坂の陣です。
方広寺鐘銘事件というのは・・・
豊臣秀頼が方広寺を再建しました。その時作った寺の鐘に
「国家安康 君臣豊楽」
と彫ってありました。これを家康は問題にします。
「ちょっとこれ・・・僕の名前が切り離されてるよね、呪ってるね、完全に」
「それから、豊臣が君主になって楽しむって書いてあるよね」
「それに豊臣さん最近浪人集めてるよね」
「僕を倒そうっていうんだね、わかったよ」
ということで、徳川家康は豊臣氏に宣戦布告。
1614年 大坂冬の陣
しかし、真田丸の戦いで真田幸村に苦杯を喫したりしたので、家康さんは
「秀吉さんが工夫をこらして造った大坂城を無理やり攻めるのは危険だな…」
と考え、遠くから大砲で散々脅した挙げ句に和睦を提案します。その条件は
「大坂城の外堀を埋めること」
豊臣方もこの条件を飲んだので停戦。外堀を埋めることになりますが、現場作業員の手違いのふりをして内堀まで埋めてしまいます。
豊臣方が
「ちょっとそこ! 内堀だよ、なんで埋めてるの!」
なんて言っても、現場作業員は
「え? あ、私らではよくわからんので、上の人に確認してみます」
などとはぐらかしつつ手は休めません。どんどん埋めていきます。
そうして内堀が埋まり、大坂城が裸同然となったところで
家康「はい、試合再開」
ということにします。
1615年 大坂夏の陣
これによって豊臣氏は滅亡。
大名、朝廷の統制
大坂夏の陣と同じ年、家康は重要な法令を2つ制定しています。
- 武家諸法度
- 禁中並公家諸法度
です。
武家諸法度は大名が守るべき決まりで、
- 新しい城を造ってはいけない
- 勝手に結婚してはいけない
という内容。
禁中並公家諸法度は天皇や公家が守るべき決まりで、全17条です。また17条。これによって、天皇にさえ規則を押し付けることができることを示しました。
武家諸法度、禁中並公家諸法度とも、崇伝(すうでん)という「黒衣の宰相」と呼ばれた僧侶が関わっています。
幕府にとっての最大の邪魔者を処分、基本となる決まりも作って安心したのか、翌年の1616年に徳川家康は亡くなりました。
徳川家光の政策
江戸幕府の仕組みは、3代将軍徳川家光の頃までに整います。自ら「生まれながらの将軍」と言った人です。
幕藩体制
江戸時代の日本支配のしくみは「幕藩体制」と呼ばれます。まあその名の通り幕府と藩で日本を支配するということです。藩というのは大名の領地とその支配システムを指します。
まあ当時はそんな言葉はなかったという話ですが、それはさておき。
江戸の将軍の下に大名がいて、大名は将軍から藩の支配を任されているということです。失敗すればいつでもクビにされる可能性があるということ。
それぞれ領地を持っているわけですが、幕府の領地は圧倒的でした。幕府直轄領(天領)と旗本領を合わせると700万石で、これは全国の石高の4分の1です。
さらに幕府は、江戸・大坂・京都などの重要都市や佐渡や石見(いわみ)、生野(いくの)など大きな鉱山も直轄とし、その経済力で大名たちを圧倒していました。
ちなみに旗本、御家人というのは将軍直属の家来ですが、旗本は将軍と直接面会できる分、御家人より地位が上です。
親藩・譜代・外様
軍事的、経済的に大名を圧倒するだけでなく、幕府は大名の配置にも気を配りました。
まず大名を三種類に分けます。
- 親藩…徳川一門
- 譜代大名…三河以来の家臣である大名
- 外様大名…関ヶ原以後従うようになった大名
そうして、要地には親藩や譜代大名を配置、外様大名は江戸からなるべく離れた土地へ。
また、親藩の中でも最高位の紀伊、水戸、尾張は御三家と呼ばれます。特に将軍家で後継ぎがいなくなった場合は、紀伊または尾張から養子を出すことになっています。
以上が幕藩体制の説明。
幕府が政治をするための仕組み
次に幕府内の職制を見ます。
江戸幕府では、将軍につぐ役職は老中です。「ろうじゅう」と読みます。「ふけちゅう」ではありません。
鎌倉幕府は執権、室町は管領でしたが江戸幕府は老中。ただし、臨時職として大老が置かれる場合は大老のほうが老中より上です。
これを見てわかるのは、昔は「老」って良い意味で使われていたんですねぇ、今と違って。
町奉行(江戸の行政、司法)、勘定奉行(財政)、寺社奉行(寺社の管理)をあわせて三奉行と呼びますが、町奉行と勘定奉行は老中の下に置かれます。なので三奉行の中では寺社奉行が一番上。
重要なことについては老中と三奉行が合議して決めます。
寺社奉行は寺院を管理するわけですが、寺院は
本末制度=全国の寺院を本山・末寺に指定して、本山に末寺を管理させる制度
によって統率されました。寺院は今で言えば市役所みたいなものですから重要だったのです。
老中の下には大目付も置かれます。こでは大名に目を付けている、つまり大名監視役。
老中の補佐として若年寄がありますが、若年寄の下に目付が置かれています。大がつかない目付は旗本・御家人監視。
鎌倉幕府のころ、京都に六波羅探題が置かれましたが、似たようなものとして江戸幕府では京都所司代、大坂城代が置かれました。
紫衣事件
京都所司代は朝廷を監視し、また禁中並公家諸法度によって、天皇や公家を縛るわけですが、家光の時代にはこれが原因で事件が起きています。
それが紫衣事件(しえじけん)で、天皇が高徳と認めた僧侶に勅許で紫衣を与えたわけですが、「幕府への相談がなかった」ということで勅許を取り消させます。
それに抗議した大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)などの僧侶は流罪となり、天皇は怒って譲位しました。
これは「幕府によって天皇の勅許すら取り消すことができる」と示す事件となりました。その後、僧侶は許されます。沢庵さんは家光が帰依するほどの僧侶でしたので。
幕府の役職まとめ
幕府の役職をもういちどまとめておきましょう。
- 大老(臨時職)
- 老中–大目付、町奉行、勘定奉行
- 若年寄–目付
- 寺社奉行
- 京都所司代・大坂城代
以上、江戸幕府の仕組みでした・
こういう仕組みが、3代将軍徳川家光の頃までに整いました。
参勤交代
また家光は、寛永の武家諸法度で、参勤交代を付け加えました。
1635年 参勤交代「さんきんこうたい」
これは諸国の大名を自分の国と江戸に1年ずつ、繰り返し住まわせるという決まりです。1年自分の国に住んだら次の1年は江戸暮らし・・・というのをずっと続けないといけない。
大名行列を組んで移動します。行列が通るときは一般庶民はひれ伏します。
こうすることによって大名に経済的負担を強いて、大名が強くなることを防ごうという作戦です。外様大名は江戸から遠いわけだから、自然と負担も大きくなりますね。
農民の統制
幕府にとって農民の統制も非常に大事です。収入源は基本的に年貢ですから。
年貢納入は村に請け負わせます。これを村請制と言います。
それで、責任を持って自分の村の年貢を集めるために村方三役が置かれます。名主(庄屋、肝煎)、組頭、百姓代をあわせて村方三役です。「なぬし、しょうや、きもいり、くみがしら、ひゃくしょうだい」と読みます。
- 名主(庄屋、肝煎)=村長
- 組頭=副村長
- 百姓代=百姓代表の名主・組頭監視役
という感じです。
村長さんの呼び名が三種類あるのは地方によって違ったからです。東北では肝煎、関東では名主、西日本では庄屋が多かったようです。
一般の百姓は、土地を持つ本百姓と、土地を持たない水呑み百姓にわかれます。村の政治に参加できるのは本百姓の方です。
村請制は、村全体で年貢納入の連帯責任を負うものですが、もっと小さい単位での連帯責任もあります。
それが五人組です。5人というわけではなく、農家5軒で一組です。五人組は年貢納入だけでなく犯罪防止にも役立てられました。
石高に応じて主に米で納める年貢を本途物成(ほんとものなり)といいます。この年貢こそホントのものなり!です。たとえば収穫の4割を納める場合は四公六民と言います。
その他細かい税を小物成(こものなり)、また宿場町周辺の村では、人馬を援助する負担である助郷役(すけごうやく)もありました。
年貢を納める農民は重要ですので決まりも多く、田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)で田畑の売買は禁じられましたし、分地制限令で分割相続に制限をかけて、土地が狭くなりすぎないようにされました。
田んぼが売られたり、狭くなりすぎたりして年貢が払われなくなったら困るというわけです。
1649年には農民の心得を示した「慶安の御触書(けいあんのおふれがき)」が発令された・・・と昔は言われていましたが、最近はこれは偽書だと言われていますね。^^; ただ、百姓はかくあるべし、という考え方ではあったのでしょう。
それから、江戸時代の身分制度として士農工商というのがよく言われますが、これも身分の違いがはっきりしているのは、士と農工商の間で、それ以外は比較的自由だったようです。
そうでなければ分地制限令なんて出せないでしょう。土地を相続できなかった次男三男はどうすりゃいいのよ!という話になっちゃいますから。
商人と手工業者は、村ではなく町に住んでいるので町人と呼ばれます。農民に比べて税負担は軽かったようです。
17世紀江戸幕府の外交
徳川家光のころ、鎖国も完成したとされています。
「鎖国なんてなかった」なんて言うこともありますが、強力な貿易統制はあったわけなので、それを鎖国と呼んでも特に問題はないでしょう。
初期は積極的
江戸時代初期は家康が積極的だったこともあり、貿易は盛んでした。
京都の角倉了以(すみのくらりょうい)、茶屋四郎次郎、長崎の末次平蔵、堺の納谷助左衛門(ルソン助左衛門)などが朱印船貿易で巨富をなした商人として有名。
また江戸時代初期には、従来の南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)に加えて紅毛人(オランダ人、イギリス人)とも交易が始まります。
家康だけでなく、伊達政宗も慶長遣欧使節として、支倉常長(はせくらつねなが)をメキシコとヨーロッパに送っています。支倉さんはローマ教皇にも謁見しています。
ただ、江戸初期でも、生糸の輸入についてはポルトガル人にぼったくられていたということで(笑)規制をかけます。
それが糸割賦制度。糸割賦仲間(いとわっぷなかま)と呼ばれる商人にのみ、生糸輸入を許可します。糸割賦仲間は、長崎・堺・京都・江戸・大坂に限られましたので五箇所商人とも呼ばれました。
その後幕府は次第に鎖国へ傾いていきます。
鎖国の目的
- 貿易統制=幕府以外の大名が利益を得ることを防ぐ
- キリスト教禁止の徹底
この2つが目的です。
家康が亡くなった1616年にはさっそく貿易港を長崎と平戸に限定しています。
規制が強まってきたのを見てイギリスは自ら退去、スペインは1624年に来航禁止となります。24年にスペイン来航禁止は覚えやすいですね。スペインは漢字で「西」って略すので。西班牙でスペインと読みます。読めませんが。^^;
続いて1631年には奉書船(ほうしょせん)制度をスタートさせます。
「え? 朱印船じゃないの?」
と思うかもしれません。
貿易船には朱印状に加えて、老中が発行する奉書も必要だということにしました。貿易の制限を強めたんです。
そして1633年には奉書船以外の海外渡航と帰国を禁止します。これが35年には全面禁止となります。
そして1639年にポルトガル船来航禁止。これによって鎖国完成とされます。
1639年 ポルトガル船来航禁止「無策? 鎖国」
1641年にはオランダ商館を長崎の出島っていう埋立地に移します。貿易港は長崎だけとなります。貿易相手は清とオランダに限ります。
オランダはキリスト教禁止と貿易を切り離していますので認めました。
ちなみに、長崎以外でも、薩摩は琉球を通して清や東南アジアと、対馬は朝鮮と、北海道の松前藩はアイヌと交易しましたので、長崎以外完全クローズドというわけではありません。
キリスト教禁止の徹底
鎖国の目的でもあるキリスト教禁止はどんどん強まっていきます。
1629年には絵踏も行われるようになります。踏み絵を踏ませるアレ。
また、寺請制度と言って、民衆は全員各々地元のお寺に所属させ、キリシタンでないことを証明してもらいます。
こうしてキリスト教禁止が強まる中、起こったのが1637年の島原の乱です。
1637年 島原の乱「むざんな島原」
天草四郎時貞を中心としたキリシタンの反乱に百姓一揆があわさって大規模になったもので、一揆勢3万~4万に対し、幕府側は13万近い兵力を動員してやっとのこと鎮圧します。
3万~4万の一揆勢を皆殺しにしたとも言われていますので、凄惨な戦いでした。責任者の島原藩主は大名であるにも関わらず、切腹もさせてもらえず斬首となっています。
その後すぐにポルトガル船来航禁止なので、幕府はよほどショックだったのかもしれません。
武断政治から文治政治へ
江戸時代初期は武断政治が基本でした。つまり幕府は大名に対して厳しく接していました。ちょっとしたミスを口実に転封(てんぽう、国替え)悪くすると改易(かいえき)=御家断絶です。
でもこれによって浪人が増えて反幕府的なムードも高まり、犯罪も増えます。由比正雪の乱なども起こりました。
それで4代徳川家綱の頃から、
「幕府の支配もしっかりしてきたことだし、そろそろいいんじゃない?」
ということで文治政治に転換していきます。
文治政治というのは、儒学、中でも特に朱子学の教えを浸透させることで、武士にも一般民衆にも忠孝を尽くしてもらおうというものです。
武力で外側から強制するのではなく、心の内側から変えてやろうという作戦です。
徳川綱吉の政策
それを思いっきり押し進めたのが5代将軍徳川綱吉です。
天和の武家諸法度では「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と定め、従来の「弓馬の道」から路線変更しています。
また湯島聖堂を作って孔子を祀り、聖堂学問所を作って林家を大学頭(だいがくのかみ)としました。
朱子学の影響か、尊皇心も篤く、天皇や公家の領地を増やしたりしています。
悪法? 生類憐れみの令
しかし「悪法」とされる生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)も頻発しています。
これは「生類憐れみの令」という一つの法令があるのではなく、綱吉時代に何度も発せられた「生き物を愛護しなさい」という内容の法令を、まとめて「生類憐れみの令」と呼んでいます。
特に犬を保護したということで綱吉は「犬公方」というあだ名が付いています。ワンワン将軍ですね。
広大な犬屋敷を作って、犬を何万匹も飼って、エサ代だけでものすごい負担になったという話もあります。
ただ近年の調査では、生類憐れみの令に基づいて極刑になった人は24年間で13人と、思われていたほどひどくはないという説もあります。
また、単なる動物愛護令ではなく、捨て子や病人の保護なども定められていて、「文治政治の一環」であるとする説もあります。
つまり、江戸初期はまだ戦国の気風が続き、命を大事にしない傾向があったので、
「いのち、大事にしましょうよ」
「動物ですら命は大事なんですよ、人間はなおさらですよ」
と綱吉さんは変えたかったというのです。
また、貨幣の改悪によるインフレを指摘されることが多いですが、綱吉の時代は元禄文化の時代であり、文化が発達するということは人々の生活に余裕があった=景気が良かったということで、経済政策がうまく行っていたのではないかという説もあります。
しかし運の悪いことに、綱吉の時代には江戸でも京都でも大火事があり、東北では飢饉が起こり、元禄地震、宝永地震といずれもマグニチュード8を超えるような大地震が起こり、浅間山や、富士山までも噴火し・・・
ろくなことがなかったのです。^^;
そしてこの時代は「天災が起こるのは為政者に徳がないせいだ」という考え方もありました。
そりゃ綱吉さんじゃなくてもお寺をたくさん建てて仏様にすがりたくもなるでしょう。
ということで幕府の財政は悪化していき、綱吉さんの評価も下がることとなります。
寛永文化
江戸時代で寛永文化というのはあまり印象がないかもしれませんが、江戸時代初期の文化です。
江戸に政治の中心が移ったということで、「このままじゃ京都がさびれるかも!」ということで京都の公家さんや町人さんががんばって、まず京都中心に発展した文化です。その影響を受けて江戸でも盛り上がってきます。
有名なのは絵画で、狩野探幽(かのうたんゆう)と俵屋宗達(たわらやそうたつ)です。
特に俵屋宗達の風神雷神図屏風は一度は見たことのある絵だと思います。
桃山文化の続きのように見えますが、平和になってきたということで学問がだんだん盛んになってきます。
藤原惺窩(ふじわらせいか)という朱子学の学者さんが有名で、徳川家康に仕官を求められましたけど、面倒だったのか自分は行かず、弟子の林羅山(はやしらざん)を派遣しています。
で、これ以後、林羅山の林家(りんけ)が幕府の朱子学の先生ということになります。
建築物で、家康が祀られた日光東照宮も有名ですね。権現造(ごんげんづくり)という建築様式です。現在は世界文化遺産。
よく写真で見るこれは陽明門です。
元禄文化
元禄文化は徳川綱吉の頃の文化で、地域的には上方つまり京・大阪中心です。
何と言ってもこの3人。
- 松尾芭蕉…俳諧「おくのほそ道」
- 井原西鶴…浮世草子「好色一代男」など
- 近松門左衛門…人形浄瑠璃の台本「曽根崎心中」など
俳諧というのは俳句のことです。浮世草子は小説。
絵画では「浮世絵の祖」とも言われる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)。「見返り美人図」が有名ですね。切手のデザインになってプレミアが付いたやつ。
幕府の保護もあり、学問の中でも特に朱子学が発展します。
朱子学というのは儒学の一派です。
儒学というのは紀元前に孔子(こうし)が始めた儒教を研究する学問です。
その儒学の一つが朱子学で、南宋の朱熹(しゅき)がはじめました。日本でいうと鎌倉時代はじめ頃の人です。
それが江戸時代に日本で大人気となります。
忠孝を重んじたので幕府にとっては理想的な学問で、朱子学の専門家である林羅山の一家、林家は3代目以降代々幕府の大学頭(だいがくのかみ)となります。