今回は、戦国時代を終わらせた織田信長と、信長の事業を引き継いで天下統一を完成させた豊臣秀吉の話。
最初にまとめておきましょう。
【織田信長】
- 1560年…桶狭間の戦い→今川義元
- 1568年…足利義昭とともに入京
- 堺支配、姉川の戦い(→浅井朝倉)、延暦寺焼き討ち
- 1573年…義昭追放→安土桃山時代スタート
- 1575年…長篠の戦い→武田勝頼
- 安土城、楽市楽座、関所廃止
- 1580年…石山本願寺屈服
- 1582年…本能寺の変←明智光秀
- キリシタン大名→天正遣欧少年使節
【豊臣秀吉】
- 山崎の戦いで明智光秀を討つ
- 検地スタート→年貢を確実に取る、京枡、石高制
- 清州会議で主導権、賤ヶ岳の戦い(→柴田勝家)
- 大阪城
- 1585年…関白、翌年太政大臣
- バテレン追放令
- 惣無事令→違反した島津氏、北条氏を討つ
- 1588年…刀狩り→兵農分離
- 1590年…小田原攻め、全国統一完成
- 五大老、五奉行制
- 1592年文禄の役、1597年慶長の役→失敗
- 1598年…秀吉病死
他の織田氏や斯波氏を倒す
織田氏はそもそも地位的に高かったというわけではないので、下剋上によって戦国大名となったパターンです。
守護大名の斯波氏の守護代が清洲織田氏でしたが、信長の一族はその清洲織田氏に仕える織田氏です。
つまり、信長の織田氏は、守護大名の家来のそのまた家来というわけ。
しかし斯波氏の力が弱まると、織田氏の力は強まっていき、信長の父の織田信秀の頃には、織田氏の中でも「信秀・信長一家」が最有力となってきます。
そして信長が家督を継ぐと、他の織田氏を滅ぼし、弟まで殺して尾張支配を確立します。
ラッキーパンチ? 桶狭間の戦い
ここまできてもまだ織田信長は尾張の小大名なのですが、このあとの桶狭間の戦いに勝利して、快進撃スタートとなります。
駿河と遠江(とおとうみ)を治め、三河の徳川家康も支配下に組み入れ、武田氏や北条氏とは同盟関係にある強大な戦国大名、今川義元がとうとう尾張国への侵攻を開始します。
今川義元さんと言うと、マロみたいな顔に描かれることもあって弱そうに見えますが、決してそんな事はありません。
武田氏、北条氏と三国同盟を結んでいるくらいですので、彼らに認められるほどの強さを持っていたことになります。
その今川義元が、織田軍の10倍以上とも言われる兵力で進撃してきます。これに対して信長は今川義元本体に奇襲を仕掛け、ピンポイント攻撃で大将義元を倒してしまいました。
これについては、綿密な計画と情報収集の結果であるという説と、仕掛けてみたら偶然義元本体で、そこに地形だの天候だの信長にとって好条件が重なったとする説があります。
まあどちらにしても最終的に勝てばよかろうなのだ!
1560年 桶狭間の戦い
「岐阜」の由来となった織田信長
その後、稲葉山城の戦いで斎藤氏を倒します。そうして信長は稲葉山城を居城とし、岐阜城と改名します。
信長のおかげで「岐阜県岐阜市」はそういう名前になったということ。
また「天下布武」の朱印を使うようになります。
実は「古き権威」も最大限利用
その翌年の1568年には、足利義昭を奉じて京都に入ります。将軍家の足利氏である義昭を前面に立てていれば、京都に入るための大義名分が成り立つからです。
わざわざ京都に行くのは、朝廷も利用できるし、京都の商人の経済力も利用できるからです。
こういう経緯を見ると、信長は何でも力ずくというわけでなく、「大義名分」を重んじていることがわかります。足利義昭を利用し、次は朝廷を利用するというわけ。
武力の利用と権威の利用、それを組み合わせることが抜群にうまかったのでしょう。
信長は室町幕府再興に尽力し、足利義昭は15代将軍となります。「15代」が敗北フラグに見えてしまうのは、後の時代の人の偏見です。^^;
堺の支配
その後、自治都市だった堺を屈服させ、堺の商人今井宗久(いまいそうきゅう)を利用して支配下に置きます。
堺は当然ながら経済力が大きいですし、また鉄砲の生産も盛んだったので、信長としてはメリットの大きい都市だったんです。
浅井、朝倉、比叡山
1570年には朝倉義景(よしかげ)と浅井長政を姉川の戦いで倒し、その翌年には、浅井・朝倉に味方した延暦寺と戦い、比叡山の焼き討ちを行います。
これは単に腹が立ってやったと言うより、比叡山は琵琶湖と京都の間にあり、戦略的に重要な地点だったので、
「あんな場所から常に睨まれてちゃ困るな…」
ということで破壊することにした、と考えられます。
さて。
室町幕府滅亡
15代将軍の足利義昭ですが、やはり「お飾り」ではなく実際に権力を振るいたいと考えました。
それに対して信長は、義昭の権力を奪い、信長だけが利用できる「権威」であってほしいと考えました。
それで信長は、義昭と対立するようになっても辛抱強く仲直りしようとしますが、結局義昭のほうが妥協を許さなかったので、信長は義昭を京都から追放することになります。
これが1573年の出来事で、これによって室町幕府滅亡、同時に戦国時代終了、ここから安土桃山時代スタートとされます。
1573年 室町幕府滅亡「以後なさけない足利義昭」
室町幕府を滅ぼし、これで信長の天下かと言うとまだそうではありません。
家康が「漏らす」ほど怖い武田軍
義昭追放の少し前、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、同盟者の徳川家康が武田信玄にコテンパンにやられています。あの、家康が逃げる途中恐怖のあまり漏らしてしまったというアレです。
この絵は、家康が三方ヶ原からほうほうの体で逃げ帰ったあと、絵師に描かせたものだそうです。随分情けない顔をしていますが、惨めな敗北を忘れず、二度とこんな失敗はしないために描かせたのだとか。
まあとにかく、あの家康が漏らすくらいなので、武田信玄は信長にとっても強敵なのです。最強の敵かもしれません。
長篠の戦い
しかし、信長にとっては幸運というべきか、義昭追放と同じ年、武田信玄は病死してしまいます。
信玄のあとを継いだ武田勝頼も、上杉謙信に認められるほどの強敵ではありますが、信玄に比べればまだマシです。
その勝頼の武田軍を、信長は徳川家康と組んで長篠の戦いで破ります。
1575年 長篠の戦い「鉄砲でコナゴナの武田軍」
有名な「長篠合戦図屏風」ですが、鉄砲隊を1000人×3列に並べて、間断なく射撃することを可能にしたという話が有名ですね。まあ実際はどうなのかという話もありますが、それはここでは置いておきましょう。
石山本願寺との戦い
長篠で勝利で信長は「都に近いところで危険な奴らというと…あとは本願寺だよね」と考えるようになります。
本願寺はこのころ大坂に本拠を持ち、石山本願寺と呼ばれていました。浄土真宗=一向宗ですので、一向一揆の勢力です。
一揆といっても、お百姓さんが集まって暴れるイメージではなく、信長が警戒するほどなので戦国大名と同じなのです。
石山本願寺は大坂、豊臣秀吉がわざわざここを選んで大坂城を造るほどの場所ですので、戦略的にも超重要な場所なんです。
その上、石山本願寺には上杉謙信や毛利輝元などの強力な戦国大名が味方しているので、信長と言えど、簡単には勝つことはできません。
1580年になってやっと石山本願寺を屈服させることに成功します。このときは正親町(おおぎまち)天皇の勅命による和睦勧告にも助けられて、ようやく決着がつきました。
このあと武田氏も滅ぼし、「後は西日本だな」というところだったのですが・・・
明智光秀の裏切り
1582年、明智光秀に裏切られ、京都の本能寺で死ぬことになります。
1582年 本能寺の変「こうはんに裏切る明智光秀」
さて、後半に移る前に、信長のその他の政策について触れておきましょう。
織田信長の政策
信長と言えば、1576年に琵琶湖のほとりに造った安土城が有名です。
そして信長は、この安土城の城下町その他で、楽市楽座という政策を実行しました。座の特権をなくし、税も免除して自由に取引してもらおうというものです。これによって商工業の発展を狙いました。
関所の廃止も目的は同じですね。この時代、交通の要所には関所があって通行料をとっていたのですが、これも商工業の発展にとって邪魔なので廃止。
キリスト教は保護
あと、キリスト教ですが、信長はキリスト教を保護しました。宣教師のルイス・フロイスにも好意的に接しています。
その目的としては、
- 旧来の仏教勢力に対抗させたかった
- イエズス会の軍事援助をあてにしていた
などが言われています。どちらにしてもキリスト教弾圧などはしなかったということです。
それで、信長がではなく、九州のキリシタン大名が送ったものですが、1582年には天正遣欧少年使節がローマに向けて旅立っています。ローマ教皇に会うためです。
伊東マンショ、中浦ジュリアン、千々石ミゲル、原マルチノという4人の少年が使節として選ばれました。
でも帰国する頃には信長はすでになく、キリスト教への弾圧も次第に強まっていきますので、苦難の後半生となります。
では信長の死後に話を戻しましょう。
疾風のように羽柴秀吉
信長を倒したことで、明智光秀は天下を取ったと思ったのですが・・・
毛利攻めを任されていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、備中高松城がある今の岡山市から京都まで、恐ろしいスピードで帰ってきます。
光秀「ちょ、なんでこんなはやいの? 岡山から新幹線乗ったの?」
という感じだったことでしょう。(嘘)
本能寺の変が起こった時、羽柴秀吉は何をしていたのかと言うと・・・
毛利氏の武将、清水宗治(しみずむねはる)が守る備中高松城を、秀吉はなかなか落とせなかったので、水攻めでじっくり苦しめることにしました。
そんなとき、「信長死す!」という情報を持った光秀の使者が・・・毛利氏に届く前に秀吉の軍に捕らえられます。
そこで秀吉は「こうしちゃいられない」ということで、とっとと戦を切り上げて京都に帰ることにします。
まだ毛利氏は信長が死んだことを知りません。そこで秀吉は・・・
秀吉「そろそろ水攻めやめてあげてもいいよ」
清水「それは助かる!」
秀吉「でも一つ条件があるんだ。清水君、君が切腹すること」
清水「それで他の皆が助かるなら腹を切ろう」
ということで、清水宗治が自刃して決着、秀吉は急いで京都へ帰ります。中国大返しです。
予想をはるかに上回るスピードで帰ってきましたので、明智光秀は準備が整っていません。山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れることになります。
光秀は逃げる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて死んだという話が有名ですが、生き延びたという説もあります。徳川幕府を支えた天海という僧侶は光秀なんじゃないかという説ですね。
それはさておき。
ここから主役は秀吉さんにチェンジ。
秀吉、清州会議で主導権を握る
本能寺の変の後「誰を信長様の後継者にする?」ということになるのですが、嫡男の織田信忠は戦死してすでにいません。それで、信長次男の信雄(のぶかつ)と三男の信孝が主張しあって決着がつきませんでした。
そこで羽柴秀吉が主導して「嫡孫の三法師(さんぽうし、織田信忠の子)でいいでしょ」ということになり、それを清州会議で正式決定することにします。
でもそこでうまいのは・・・秀吉は三法師をすっかりなつかせていて、清州会議には三法師を抱いて登場します。
柴田勝家を始めとする他の有力者たちは、三法師に平伏せざるを得ませんので、同時に秀吉に平伏する形になってしまいます。ここで秀吉一歩リード。
その後ライバルの柴田勝家などを倒し(1583年賤ヶ岳の戦い、しずがたけのたたかい)、信長の後継者としての地位を確立します。
同じ年に、石山本願寺の跡に大坂城を築き、本拠地とします。
関白太政大臣
その後は、織田信雄・徳川家康連合や四国の長宗我部元親を屈服させ、1585年には近衛家の養子となって関白に任命されます。
征夷大将軍は、「なれなかった」のではなく、秀吉は自分で断っています。まあ朝廷内では関白のほうが断然地位が上ですし、なれるもんなら関白のほうがいいですよね。
翌年には天皇から「豊臣」の姓を賜り、太政大臣となります。
惣無事令による全国支配宣言
同じ頃、惣無事令(そうぶじれい)を発し、大名同士の争いを禁じます。
「もう私が日本を支配することになったんだから、なにか揉め事があったら私、秀吉に言いなさい」
というわけです。惣無事令は秀吉の「支配者宣言」のようなものです。
このあと、京都に聚楽第(じゅらくてい)と呼ばれる屋敷を造って、天皇をお迎えして、多くの人々に「支配者アピール」をしていますし。
全国統一完成
惣無事令に従わなかったとして九州の島津氏、関東の北条氏は攻められ、小田原の北条氏が1590年に敗北したのをもって、「天下統一完成」とされます。
1590年 秀吉、全国統一「いっこくおさめた秀吉」
さて。
豊臣秀吉の政策
秀吉の政策といってすぐに思い浮かぶのが太閤検地と刀狩。
太閤検地
太閤検地は「年貢を確実に取るため」に行います。
これで一地一作人の原則が確立します。それ以前は、貴族だの武士だの有力者だのいろいろな人が権利を持っていて混乱しがちだったんですね。
それをやめて、「土地の所有者はその土地に住んで工作している人」と決めてしまい、そこから年貢を取れるのは、秀吉に認められた人だけで、以前のようにいろんな人が権利を主張することはできなくなりました。
年貢を確実に取るためには単位も統一しなければなりません。それで長さや面積の単位も決め、米を計るのも京枡に決めます。
これによって、昔の指出検地と違い、検地奉行が現地で実際に調査して、収穫高=石高をはっきりさせます。これ以降、土地は「〇〇万石」のように石高で評価されるようになります。だから太閤検地は「天正の石直し」とも呼ばれます。
刀狩
1588年に発した刀狩令は、兵農分離を目的として行われました。「武士になるか、百姓として生きるか、どっちかえらんでね」というわけ。
五大老五奉行制
政治については、支配が固まってくるともう独裁はやめて、五大老五奉行制にします。
五大老を最高合議機関とし、五奉行がそれを実行していくという形です。
- 五大老…徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝
- 五奉行…石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家
五大老は「ウマの上のトモ」とでも覚えておきます。五奉行は「ママのアイ、長っ!」とでも。
うきた、まえだ、上杉、とくがわ、もうり
まえだ、ました、あさの、いしだ、長束
浅井長政じゃなくて浅野長政なので注意。浅井長政は信長に倒された人です。
キリシタン弾圧
秀吉はキリスト教に関しては当初は信長の方針を引き継いでいましたが、長崎がいつの間にかイエズス会領になっていたり、日本人が奴隷として連れ去られているのを見て方針を変えます。
それで1587年にバテレン追放令を出します。バテレンというのは漢字で伴天連と書きますが宣教師のことです。
バテレン=宣教師
ただ南蛮貿易には積極的だったのでキリスト教はかなり黙認されていました。
でも1596年には京都の「日本二十六聖人」と呼ばれる人々が長崎まで連行されて処刑されています。
これはイエズス会ではなくフランシスコ会関係の人が処罰されているのですが、秀吉がサン・フェリペ号事件をきっかけに態度を硬化させたのだと考えられています。
サン・フェリペ号事件というのは、サン・フェリペ号というスペイン戦が土佐に漂着したんですね。で、その乗組員に色々質問したところ、
「スペイン王はまず宣教師を送り込んで現地の人間を洗脳、その後軍隊を送り込んで征服する」
みたいなことを言ったそうです。
それを知った秀吉は、見せしめとして、イエズス会に比べて活動が派手だったフランシスコ会の関係者を処刑したというわけです。
文禄・慶長の役
あと、秀吉の対外政策としては、最後を飾る(?)ことになった朝鮮出兵。
明の征服を目的とし、その案内を求めて断られたということで李氏朝鮮を攻めます。1592年の文禄の役と1597年の慶長の役です。
海を越えて行くわけですから補給もままならず、結局得るところなく秀吉の病死によって撤退ということになります。
多くの兵力を失い、多くの戦費を費やすことで、豊臣氏の滅亡を早めたとも言われます。
一方、秀吉の命で関東に移動させられた徳川家康は、朝鮮出兵には付き合わず、力を蓄えているのでした。
桃山文化
安土桃山時代の文化は桃山文化と呼ばれます。豪華、壮大という特徴を持ちます。要するに派手。
その豪壮なものの代表が、天守閣を持った城です。安土城や大坂城ですね。
天守閣というのは、お城の真ん中に立つ立派な建物のことですが、こういう立派な建物は従来のお城にはなかったんです。
城壁とか堀とかあって、守れればOKというのがお城でしたから。
それがこの時代は、支配の象徴として天守閣が造られるようになりました。
それから、こういうお城を飾る障壁画も豪華ですね。濃絵(だみえ)と呼ばれる、岩絵具を厚手に用いた、極彩色の絵画です。狩野永徳、狩野山楽(さんらく)が有名。
一方、それとは対象的に、長谷川等伯(はせがわとうはく)は派手な障壁画だけでなく、落ち着いた水墨画も書いています。
また、千利休は、茶の湯を大成しましたが、侘び寂びを重要視しています。
派手なものばかりではないということです。
宣教師によって活字印刷ももたらされましたので、キリスト教関係の書物を中心に、活字印刷による書物が刊行されました。キリスト教だけでなく平家物語や日葡辞書なども印刷されています。こういう印刷物はキリシタン版とか天草版と呼ばれます。
出雲阿国(いずものおくに)が阿国歌舞伎を始め、歌舞伎の元を作ったのもこの時代です。
出雲阿国さんは女性なのですが、江戸時代にはだんだん過激になってきたので「女性がやるのは禁止」となって少年がやるようになり、それでも少年に女装させてやったりしていたので「少年も禁止」となって現在のように男性だけの「野郎歌舞伎」になったようです。
野郎歌舞伎っていうネーミングもすごいですね。