今回は江戸時代の中でも18世紀を取り上げます。
悪化していく幕府財政をなんとか持ち直そうと試行錯誤が繰り返された時代です。主人公は、新井白石、徳川吉宗、田沼意次、松平定信の4人です。
ということで最初に18世紀をまとめておきましょう。
- 【新井白石&間部詮房】…正徳の治
- 生類憐れみの令廃止
- 貨幣の質をもとに戻す
- 正徳新令…長崎貿易の制限
- 朝鮮通信使接待の簡略化
- 閑院宮家創設
- 【18世紀までの産業】
- 備中鍬、千歯扱き、干鰯、油粕
- 商品作物…四木三草
- 問屋制家内工業
- 三都…江戸、大坂、京都
- 五街道、関所、西廻り・東廻り航路、南海路
- 【徳川吉宗】…享保の改革
- 上げ米
- 元文金銀
- 倹約令
- 五公五民&定免法
- 新田開発
- 漢訳洋書の輸入→青木昆陽、蘭学
- 相対済し令
- 足高の制
- 公事方御定書
- 目安箱
- 【田沼意次】
- 株仲間公認…運上金、冥加金
- 蝦夷地調査、印旛沼・手賀沼干拓、銅や真鍮の専売、俵物輸出
- 浅間山噴火、天明の飢饉
- 【松平定信】…寛政の改革
- 棄捐令
- 囲米、七分金積立
- 人足寄場、旧里帰農令
- 山東京伝、林子平処罰
- 寛政異学の禁
新井白石の正徳の治
18世紀のはじめは、新井白石(あらいはくせき)と間部詮房(まなべあきふさ)という2人の側用人が中心となって政治をしました。
将軍は、6代7代の徳川家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)の時代。
新井白石と間部詮房の政治を「正徳の治(しょうとくのち)」と呼びます。
聖徳太子と漢字は違うので注意。
正徳の治の特徴は、新井白石が儒学者だったこともあって、文治政治を引き継いでいます。ただ綱吉時代の政策をいくつか否定しています。
ということでまずは生類憐れみの令を廃止しました。といっても病人や親のない子供の保護など、必要と思われたものは残します。
それから、綱吉時代、荻原重秀によって金の割合が減らされていた貨幣を元に戻します。
そのために、金銀が海外へ流出しては困るので、正徳新令を出して長崎貿易を制限します。
また、将軍がかわるごとに朝鮮通信使が来ていまして、そのたびにものすごいお金を使って接待していたのですが、これを簡略化してお金を節約します。
当時、宮家は伏見・京極・有栖川の3つしかなく、この3つの宮家から外れた皇族はみんな出家していました。でも天皇の血統が途絶えては一大事ということで閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設しました。
それから、シドッチというイタリア人宣教師が命知らずにも布教のため日本に潜入して捕まっていましたが、白石はシドッチを尋問して、西洋に関する知識を「西洋紀聞」にまとめました。
以上のように、新井白石はいろいろな政策を実行しようとしましたが、8代将軍徳川吉宗が就任すると解任され、その政策の多くは吉宗によって否定されます。
産業の発展
ようやく訪れた平和な時代ということで、江戸時代は産業が発展します。
農業
まず農業。
江戸時代初期から盛んに開墾が進められ、耕地面積は18世紀に入ると江戸時代初期の2倍程度まで増えます。町人請負新田と言って、大商人が新田開発を行ったことも大きいです。
農具や肥料も新しいものが発明されます。
- 備中鍬(びっちゅうぐわ)…鍬先が3つまたは4つに分かれていて深く耕せる
- 千歯扱き(せんばこき)…効率よく脱穀できる
- 干鰯(ほしか)…イワシを干して肥料としたもの
- 油粕…菜種などを搾ったあと肥料としたもの
干鰯や油粕は、お金で買ったので金肥(きんぴ)と呼ばれました。だからお金にかえるための商品作物の栽培によく用いられました。
イワシを肥料にするなんてもったいなく感じますが、当時は大量に取れたんですね。九十九里浜の地引網漁が有名です。砂浜で網を引っ張っるやつ。
商品作物は四木三草(しぼくさんそう)が有名です。
- 四木…楮(こうぞ)、茶、桑、漆
- 三草…藍、麻、紅花
商品作物が栽培されるということは、農民も貨幣を必要としているということです。
貨幣を得るために、18世紀の農村では問屋制家内工業(といやせいかないこうぎょう)も増えてきます。
これは商人から原材料を受け取って、それを自宅で加工して、商人に納める、という手順で行われます。まあ内職ですね。
19世紀に入ると工場に集めて生産する工場制手工業(マニュファクチュア)も増えてきます。
こうして生産力も上がりましたので日本の人口も増えてきて、江戸時代には3000万人に達します。
三都
三都と呼ばれる都市には人口が集中し、江戸は早くも100万都市となります。これは当時の世界最大都市だと考えられています。
- 江戸…政治の中心「将軍のお膝元」
- 大坂…商業の中心「天下の台所」
- 京都…文化・宗教の中心「天子様のお膝元」
大阪には蔵屋敷が立ち並び、ここで諸藩の年貢米がお金に換えられます。
江戸では主に金貨が使われ、大阪や京都では銀貨が使われたので、江戸と上方(かみがた)を行き来して商売をするには両替が必要になります。
それで、大商人は両替商(りょうがえしょう)という銀行のようなこともはじめました。大きな両替商ともなると、大名にお金を貸したりもしました。
両替商としては越後屋呉服店の三井高利(みついたかとし)が有名です。今でも三井住友銀行として続いています。^^
交通
産業の発展のためには、交通手段は非常に重要です。ということで江戸時代には多くの交通路が整えられました。
まず有名なのが五街道。江戸の日本橋をスタート地点として東北から近畿までをつなぎます。
- 東海道…江戸~浜松~京都
- 中山道…江戸~高崎~下諏訪~草津(滋賀県)
- 甲州街道…江戸~甲府~下諏訪
- 日光街道…江戸~宇都宮~日光
- 奥州街道…江戸~宇都宮~白河(福島県)
中山道の終点の草津は、群馬県の草津温泉ではなく、滋賀県の草津市です。琵琶湖の南端あたり。
街道には一里塚が作られて距離の目安にされました。
また要所に関所が置かれ、旅人をチェックしました。
特に「入り鉄砲に出女」と言われますが、「入り鉄砲」は江戸に武器を持ち込むことを厳しく取りしまる、「出女」は江戸に人質代わりに住まわされている大名の妻が江戸を抜け出すことを厳しく取り締まる、ということ。
室町時代以前の関所は通行料を取るためのものでしたが、江戸時代の関所は治安を守るためのものだったのです。
そのおかげか、江戸時代の日本の街道は世界に類を見ない安全な街道となります。
次に海路ですが、南海路と西廻り航路・東廻り航路で本州をぐるっと囲んで船が行き来できるようになりました。
- 南海路…江戸~大坂
- 西廻り航路…日本海側~瀬戸内海~大坂
- 東廻り航路…日本海側~津軽海峡~江戸
もちろん大きな川も重要な交通路として利用されました。
さてそれでは、幕府の話に戻りましょう。
徳川吉宗の享保の改革
新井白石が正徳の治を行ったけど、8代将軍徳川吉宗が就任すると白石はクビにされた、というところまでお話しました。
で。
吉宗ですが。
上記の通り商業が発達して、貨幣経済となりましたのでみんなお金が必要なわけです。
で、みんなで競争してお金を集めたら、いちばんたくさん集めるのはお金の専門家である商人に決まっています。
となると、商人以外の人達は、お金が足りなくなる人が多くなります。武士なんかがそうです。
幕府も例外ではなく、財政が苦しくなってきます。
それをどうにかしようとしたのが8代将軍徳川吉宗です。
徳川吉宗の一連の改革を享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。
1716年 吉宗、将軍に「なないろの改革」
吉宗は、米価の調節に気を使ったということで「米将軍(米公方)」「八十八将軍」というあだ名が付いています。「暴れん坊将軍」とかテストで書いちゃダメです。いくらマツケンさんが好きでもダメです。
最初、新井白石と同じように、貨幣の質を良くしました。そうしたら当然のことですが、米の価格は下がります。デフレです。
幕府は米で年貢をとっているわけだから、米の値段が下がっちゃ困る。ということで方針転換して、貨幣の質を落としました。これを元文金銀(げんぶんきんぎん)または文字金銀(ぶんじきんぎん)といいます。
それから倹約令を出して贅沢を禁止しました。
また、幕府の収入を増やすために、上げ米(あげまい)制度を作りました。
大名の領地1万石につき100石の米を幕府に納めれば、参勤交代で江戸に滞在する期間を半年に縮めてあげますよ。という制度です。
1%で半年減らしてもらえるなら、そりゃ払うでしょう。
これで幕府の収入は増えましたが、将軍の権威は下がってしまうので後に取りやめとなりました。
幕府の収入を増やすため、年貢の取り立ても厳しくなります。
以前は四公六民だったものを五公五民とします。つまり収穫の半分を税としたわけです。
また、年貢は収穫量を見て調節していた検見法(けみほう)から、年貢率固定の定免法(じょうめんほう)に変えました。
これは農民にとっては苦しい変革となりました。享保の改革途中に、享保の飢饉が起こってしまったことも重なり、百姓一揆や打ち壊しが増えてしまいました。
一方、新田開発を進めて生産力自体を上げようとします。
また、飢饉に備えた作物の栽培も推奨します。さつまいもの研究をした青木昆陽は非常に有名ですね。
さつまいもって、もともと関東では栽培できなかったんです。気温が低くて。それを品種改良して栽培できるようにしたのが青木昆陽さんです。
そのために吉宗は、キリスト教に関係ない漢訳洋書の輸入制限を緩和して、青木昆陽に蘭学を学ばせています。青木昆陽さんはオランダ語の教科書まで作っています。
困窮する旗本・御家人に対しては相対済し令(あいたいすましれい)という法令を作ることで救済しようとします。
これは、「借金返済関係の訴訟は幕府では受け付けないから、当事者同士で話し合って解決しなさい」というもの。
つまり借金に苦しむ旗本が、武士の権威に物を言わせて借金を踏み倒しても、お金を貸した方は泣き寝入りするしかないというわけです。
ただそれをやると、武士は次からお金を貸してもらえなくなるので、さらに困ることになりました。
足高の制(たしだかのせい)という人材登用システムも作りました。下級武士でも才能があるものは取り立てようというものです。
ただ、上級の役職につくにはその武士が多くの石高を領有していなければならないというルールがありました。たとえば老中になれるのは2万5千石以上の譜代大名のみです。
いくら才能があっても石高が足りなければなれないので、才能がある武士を登用するためには石高を上げてやる必要があります。でもそうすると、幕府の出費が増えます。^^; なぜなら、一度石高アップすると、それは子孫にも受け継がれるのが普通だったからです。
なので足高の制では「在任中のみ石高を上げる」という仕組みにしました。例えば石高1万石しかない武士を老中に任命する場合は、老中として働く期間だけ石高を2万5千石に上げる、ということ。
その後は在任中の功績に応じて元に戻すとか上げるとかするわけです。
公事方御定書(くじかたおさだめがき)も重要ですね。これは裁判の基準です。武家諸法度とゴッチャになりますので注意。
公事方御定書は、今でいうと刑法なのですが、それ以前の「懲罰」「排除」のみの刑法から、「更生」の観点を入れた刑法に変えたというところが画期的です。
吉宗さん、少年時代から法律の本を読みふけっていたという・・・変わった子供だったのですが、それが活かされたわけですね。
その他、徳川吉宗が実現したこととしては目安箱がありますね。
当時の常識としては、身分の違いを越えて将軍に直訴するなんてできなかったわけですが、それを可能にしました。
この目安箱での提案によって、貧しい人のための病院として小石川養生所ができ、また「いろは47火消し」で有名な町火消も整備されることになりました。
徳川吉宗は享保の改革でいろいろな成果を上げたので「幕府中興の祖」と呼ばれます。
しかし年貢は増えましたし、緊縮財政で景気も悪くなりましたので、苦しむ人も増えました。
百姓一揆も増えましたが、増えただけでなく規模が大きくなります。
江戸初期は「代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)」が多かったと言われています。佐倉惣五郎(さくらそうごろう)が有名ですが、代表者のみで訴えを起こすというものです。
それが「惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)」へと変わっていきます。「みんなでやろうぜ!」というわけです。
「この景気の悪いのなんとかしないと、一般庶民は救われないよね」
と考えたのが、吉宗の後、権力を握る田沼意次(たぬまおきつぐ)です。
田沼意次
田沼意次は9代将軍家重、10代家治に重用されます。それで、18世紀後半50年のうち、約30年程度は「田沼時代」と呼ばれます。中でも側用人になった1767年からの20年間は大きな権力を持ちました。
田沼意次の政治は、その前の徳川吉宗とは対照的です。
吉宗は農業中心に考えましたが、田沼は商業中心です。
吉宗は緊縮財政でしたが、田沼は積極財政です。
今の時代、財政建て直しのためとは言え、農民の負担を増やすのでは貧しい人を増やしてしまうことになり、長い目で見れば幕府の力を削いでいくことになる。
それよりも今、財力を蓄えているのは商人なのだから、商人の経済力を利用し、積極財政を展開すれば、景気は良くなり、その結果幕府の収入も増えるだろう・・・
と田沼さんは考えたわけです。近代的な経済政策を思い描いていたわけです。
それで、株仲間と呼ばれる商人の同業組合を公認し、市場の独占を許し、その代わり彼らから上納金(運上金、冥加金、みょうがきん)を徴収しました。
ただこの上納金、株仲間のビジネス規模に比較するとあまりにも少額なので、幕府の収入が目的ではなく、株仲間を通しての物価安定や流通の効率化が目的だったのではないかと言われています。
蝦夷地開発のための調査(最上徳内を派遣)や銅・真鍮の専売、印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)干拓(洪水で失敗)、俵物(海産物)輸出なども行い、積極財政を進めます。
ただ、このような経済政策は、当時の農業中心&緊縮財政が常識だった幕閣には理解されず、反感を覚える人も多かったようです。
また、実力主義による人材登用も行おうとしたので、身分を重んずる保守的な人はなおさら反発しました。
そして、幕府と商人が接近したことにより、中には賄賂を受け取る役人も出てきます。これも当然ながら反感を呼びます。
そんな中、タイミングの悪いことに浅間山の噴火、そして天明の大飢饉がおきます。この近世最大の飢饉では多くの人が餓死します。
やはり当時は天災が起こると「為政者の不徳が原因」と考える人が多いですから「田沼のせいだ!」なんて言う人も増えてしまいます。
追い打ちをかけるように、息子の田沼意知が、佐野政言(さのまさこと)に殺されてしまいます。世の中は佐野政言の方を「世直し大明神」などともてはやします。
そして田沼意次は失意のうちに失脚することになります。
松平定信の寛政の改革
田沼意次を追い落とし、18世紀の終わりに老中となったのが松平定信です。
1787年 松平定信、老中に「はなやか禁止、寛政の改革」
松平定信はもともと白河(福島県白河市)の藩主で、天明の飢饉の際も、冷害がひどい東北にあって餓死者をまったく出さなかったということで幕政でも期待されました。
松平氏ですので親藩ですが、松平定信は徳川吉宗の孫にあたります。ということで松平定信の寛政の改革も、徳川吉宗の享保の改革を手本としたものになります。
ということで基本的に緊縮財政です。
また、吉宗が借金苦の旗本・御家人を救済しようと相対済し令を発したように、松平定信も棄捐令(きえんれい)を発します。
これは吉宗よりもさらに過激で、天明4年(1784年)以前の借金は帳消し、天明5年(1785年)以後のものは利息を大幅に減らした上で長期返済にするという内容。
もちろんこういうのはうまく行ったためしがありません。
次に、天明の飢饉で苦しむ人が多かったので、囲米(かこいまい)を命じました。藩は1万石につき50石の籾米を蓄えておきなさい、という内容です。
町人に対しては七分金積立(しちぶきんつみたて、七分積金)を命じました。
江戸の町の予算である町入用(まちにゅうよう、まちいりよう)を節約させ、節約分の7割は積み立て、積み立てた分を運用して貧民救済などに役立てる、という仕組みです。
貧民救済としては、隅田川の石川島に設置した人足寄場もあります。ここに無宿者を集め、訓練して手に職をつけさせ、生活できるようにしてあげよう、というものです。
これは鬼平犯科帳でおなじみ火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)の長谷川平蔵の提案だと言われています。
また、農村で生活できなくなった人が、仕事を求めて江戸にたくさん出てきていましたが、それでは江戸の治安は悪化し、耕地は荒れ放題となってしまいます。
それで旧里帰農令を出し、旅費を援助して自分の村に帰ることを奨励しました。奨励ですので強制ではありません。
田沼意次を追い落としたと聞くと、松平定信はひどいやつなんじゃないかと思ってしまいますが、その政策を見ると、貧しくて苦しんでいる人を必死に助けようとしていることが伝わってきますね。
一方で厳しい面もたくさんありました。特に言論統制。
山東京伝(さんとうきょうでん)は、遊女を扱った洒落本で人気でしたが、風紀を乱すということで処罰されました。
一方、「ロシアなどが攻めてくるかもしれないから海防を固めよ」という内容の「海国兵談」という真面目な本を書いた林子平(はやししへい)も処罰されました。こちらは「人心を乱す」ことが理由です。
学問も統制します。
聖堂学問所を昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)とし、幕府直轄の学問所としますが、ここで教授するのは朱子学のみとしました。寛政異学の禁といいます。ただしあくまで統制は昌平坂学問所だけです。
面白いところとしては、湯屋に対して「混浴禁止令」を出しています。定信さん、ホント真面目人間だったのですね。
世の多くの男性は「余計なことしやがって」と思った子でしょう。
というか、江戸ではそれまで混浴が普通だったのですね。(笑)
寛政の改革の結果としては、緊縮財政だったので景気浮揚にはつながらず、また厳しすぎたこともありあまりうまく生きませんでした。松平定信は6年で老中をやめることになります。
こんな狂歌も作られてしまいました。
「白河の清きに魚の住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」
一方地方で、財政再建を成功させる藩も出てきます。米沢藩では上杉鷹山(ようざん)が殖産興業政策を進めました。今も残る米沢織は彼が開発させたものです。
「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」
というのも上杉鷹山の言葉として有名です。