平安時代のまとめ(後半)~院政、白河上皇、後白河法皇、平清盛

スポンサーリンク

今回は都だけでなく地方の様子も見ます。

地方で武士が成長、やがて都に進出して権力を握ってしまうまで。

都では前回の藤原道長・頼通の後の話。

ということで最初にまとめておきましょう。

  • 10世紀…受領増加→地方政治乱れる
  • 荘園増加→自衛の必要性→武士の誕生
  • 武士団の棟梁=元貴族、元皇族→平氏、源氏
  • 10世紀…承平天慶の乱(平将門、藤原純友)
  • 11世紀…前九年、後三年の役
  • 1069年…後三条天皇→大江匡房、延久の荘園整理令
  • 1086年…白河上皇→院政、受領と武士を活用
  • 1156年保元の乱、1159年平治の乱→平氏強大化
  • 1167年…平清盛、武士初の太政大臣→娘を天皇の后に
  • 鹿ヶ谷の陰謀→治承三年の政変→後白河法皇の院政を停止

10世紀、11世紀、12世紀それぞれに大きな戦があると思っておけば、整理しやすいです。

では先に地方の話。

役得のみを重視する国司の増加

奈良時代に墾田永年私財法(743年)ってできて、公地公民が崩れていきますが、平安時代になると私有地がどんどん増えていきます。

この私有地のことを荘園(しょうえん)といいます。

荘園にはもちろん税がかかります。

朝廷も最初は、直接税を集めていたのですが、そのうち国司に「丸投げ」になります。

班田収授も902年を最後にやらなくなったくらいですので、荘園からの徴税も、「大変だから国司の皆さんお願いね」というわけです。

ということで、10世紀頃から、地方での国司の力は非常に大きくなります。

税の額も国司が決められますし、荘園を強制的に没収してしまうこともできます。

だから、藤原氏以外で、都での出世の望みが薄い貴族は、だんぜん国司になりたがったわけです。儲かりますので。

それで、朝廷の費用を私財で肩代わりすることで、代わりに国司にしてもらう貴族が増えました。こうして国司になることを成功(じょうごう)といいます。まあ成功は国司には限らないんですが、国司が特に「美味し」かったので希望者が多かったのです。

今では「せいこう」と読みますが、これはこの成功(じょうごう)が語源となっています。「国司になれた! 大成功だぜ!」というわけ。ちなみに連続で国司になることを重任(ちょうにん)と言います。

私財を使ってでもなりたかったわけだから、それでも十分黒字になるほど国司は利益が大きかったというわけですね。

で、そうやって、利益目的で国司になった貴族は、まじめに国司の仕事なんかしません、普通。

自分は都にいて、家来を目代(もくだい=代理人)として現地へ行かせます。これを遙任(ようにん)といいます。で、目代も目代で自分で働くのは嫌だから、現地の有力者を在庁官人(ざいちょうかんじん)として雇って、役所の仕事をさせます。

遙任国司(都)→目代(現地)→在庁官人…実際の仕事

そして国司は働かずに利益のみ得られるという仕組みです。

「いやいや、それじゃあ生ぬるい! 自ら現地へ出向いて搾り取れるだけ取る!」
「どうせ都にいても藤原氏が威張ってるけど、現地に行けば俺様の天下だしな!」

と考える貴族は、遙任なんてせずに自ら出向きます。こういう国司を受領(ずりょう)といいます。

そういう次第ですので、受領には強欲な貴族が多く、受領に苦しめられた人も多かったわけです。

これが、地方での戦の一因となったりします。

今昔物語にも出演していることで有名な受領、藤原陳忠(のぶただ)は

「受領は倒るるところに土をもつかめ」

という名言(迷言?)を残しています。

他には、尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげぶみ)が有名で、これは尾張国の国司である藤原元命(ふじわらのもとなが)を現地の人が朝廷に訴えた文書です。

これによって、藤原元命は解任されますので、朝廷はちゃんと民衆のために働いてくれたというわけです。

さて。

寄進地系荘園が増える

地方の有力者(開発領主、かいほつりょうしゅ)としては、せっかく土地を開墾しても、国司に何をされるのかわかったもんじゃないので安心できません。

そこで、都の貴族や寺院など中央の有力者に土地を寄進して、代わりに守ってもらうという作戦に出ます。こういう荘園を寄進地系荘園といいます。

名目上、中央の貴族の持ち物にして、地方の有力者は荘官(しょうかん=荘園管理者)に任命してもらって、実質的に支配は続けられるという仕組みです。

中央の貴族はさらに、最上級の貴族、つまり藤原氏に寄進し、荘園を守ってもらいます。

開発領主→都の有力者(=領家)→最上級の有力者(=本家)

こうして荘園は不輸の権(納税しなくてよい権利)、不入の権(国司からの検田使の立ち入りを拒む権利)まで手に入れます。藤原氏は強力ですから。

そして藤原氏などの超有力者のところには、黙っていても荘園が集まってくるという仕組みです。

その経済力を背景に、藤原氏はさらに力を強めることができます。超絶プラススパイラルです。

武士の誕生

でも、10世紀頃はまだまだ、そういう仕組は出来上がっていません。一方で、強欲な受領が増えてくる時期です。

だから、地方の有力者は土地を守るために武装することになります。こうして武士が生まれます。これがすべてではないでしょうが、こうして武士になった人は多いでしょう。

そういう人が集まって武士団を形成。でもただ集まっただけでは、「そのへんのならず者集団」と見分けがつきません。

そこで「かっこいいリーダー」が欲しくなります。そういうリーダーに、都からやってきて、そのまま地方に住み着いた「元貴族」「元皇族」がなったりします。都に戻っても藤原氏が威張ってて面白くないですからね。

で、そういうリーダーの中でも「最高のブランド」となったのが平氏源氏です。なにせ「桓武平氏」「清和源氏」つまり天皇の血を引くわけですから、そういう人の家来になれれば、地方の武士としては鼻高々です。

ということで地方では、平氏と源氏が徐々に勢力を伸ばしていきます。

そういう武士団が、初めてその実力を見せつけたのが、横暴な国司が増え始めた10世紀です。これは偶然ではないでしょう。

承平天慶の乱(10世紀)

中心人物は、東の平将門、西の藤原純友(すみとも)です。「住友」って書いちゃダメです。純な友と書きます。素敵な名前。

平将門の乱

935年、平将門は対立していた源氏を倒し、勢いに乗って伯父の平国香も倒します。なぜおじさんを倒したかと言うと、父の領地を横取りしていたからです。

その後も源氏と平氏が入り乱れて戦が続きます。

将門は敵方に訴えられて、朝廷の調査を受けますが、結果は「将門の方が正しい」というものでした。つまり当初は将門は朝廷に認められていたわけです。

ところが、受領と対立していた有力者に頼られて、匿ったことがきっかけとなり、受領と戦うことになってしまいました。

朝廷が派遣した受領=国司と戦ってしまったわけだから、ここではっきりと「反乱」ということになってしまいました。939年平将門の乱です。

ここまで来ると後には退けませんので、将門は関東の国府を次々と占領し、関東を「独立国」にしようと考えます。そうして新皇(しんのう)と名乗ります。新しい天皇というわけです。

その後、休養を取らせるため兵士の大半を故郷に帰した隙に、平国香の子の平貞盛と、そのおじの藤原秀郷(ひでさと)に攻められます。

将門は10倍以上の敵をたった400騎で蹴散らすのですが、突如風向きが変わり、敵方から飛んできた矢が額に命中して亡くなりました。

朝廷から追討軍が出発していたのですが、その追討軍が到着する前に決着がついてしまいました。

藤原純友の乱

同じ939年、瀬戸内海では藤原純友が反乱を起こします。こちらも、受領との対立が一因となっています。

藤原純友はもともと朝廷の役人だったのですが、海賊を取り締まっているうちに自らが海賊の頭になってしまったようです。

「海賊王に俺はなる!」

ということでしょうか。でも瀬戸内海の海賊王なのでグランドラインに比べるととてもとても小規模です。

こちらは朝廷の軍も間に合い、藤原純友は小野好古(おののよしふる)を中心とする官軍に敗れました。

将門の乱、純友の乱をあわせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)と言います。

朝廷は、同時に起こった乱を見て、連携しているのではないかと慌てふためいたのですが、どちらの乱も、反乱側鎮圧側ともに武士が大きな役割を果たしており、武士の実力を知ることとなりました。

前九年・後三年の役(11世紀)

次の11世紀も、地方で乱が相次ぎます。都では藤原道長の絶頂から院政に移り変わっていく時期です。

平忠常の乱

平将門の乱からおよそ90年後、1028年には房総、つまり今の千葉県で平忠常(ただつね)の乱がおきます。

これは朝廷軍は鎮圧できませんでした。結局、源頼信(みなもとのよりのぶ)という武士が鎮めます。あれだけ強かった平忠常が、戦わずして降伏したと言われています。めっちゃ怖かったのでしょうか。

頼信は武勇に優れ、あの藤原道長にも仕えていたので「道長四天王」と呼ばれました。やっぱりめっちゃ怖そうです。

これ以後、東国では平氏が力を失い、源氏が勢力を伸ばしていくこととなります。

前九年の役

1051年には東北で前九年の役が起こります。東北の安倍氏という豪族が国司に反抗したのを、源頼義・義家父子が、清原氏という豪族の助けを借りて鎮めたものです。

この安倍氏は、安倍晋三さんのご先祖とのこと。

後三年の役

その後、1083年に今度は清原氏同士で争いを始めたので、源義家は藤原清衡(きよひら)と手を組み、清原氏を滅ぼしてしまいます。これを後三年の役といいます。義家さん強すぎ。

キヨヒラが味方でキヨハラが敵なんてややこしいですがゴッチャにしないでください。

これ以後、関東は源氏の勢力圏、東北地方は藤原清衡、つまり奥州藤原氏の勢力圏となります。

八幡太郎義家

ちなみに義家の別名は八幡太郎(はちまんたろう)です。石清水八幡宮で元服したので、そう呼ばれるようになりました。

弓の達人で、しかもものすごい強弓使いでした。百発百中かつ一撃必殺です。3つ並べた鎧を一発で貫いたとか、熊と間違って岩を射抜いてしまったなんて伝説も残っています。

そうそう、1051年前九年の役、1083年後三年の役は、5183だけとって「するばあさん」とおぼえておくといいでしょう。

で、結局この11世紀の3つの戦いも、全て武士が主役でした。

その実力は朝廷の皇族貴族の認めるところとなり、源頼信は藤原道長に、源義家は白河上皇に用いられています。

こうして、徐々に都で武士が力を持つ下地ができてくるわけですね。

ということで都に戻りましょう。

後三条天皇…延久の善政

11世紀前半、藤原道長・頼通父子の頃、絶頂を極めた藤原氏ですが、頼通には天皇になる孫が生まれず、11世紀後半には藤原氏の権力に陰りが見えてきます。

1068年、藤原氏を外祖父として持たない後三条天皇が即位します。そういう立場ですので、後三条天皇は藤原氏に遠慮せずに政治ができるというわけ。

ちょうど800年後は明治元年ですが、そのときも徳川氏から天皇に政権が戻っていますね。

1068年も、藤原氏から天皇に政治の中心が移りますのでちょっと似ています。^^

後三条天皇は、大江匡房(おおえのまさふさ)という天才学者を、蔵人に任命して実際の政治に当たらせます。

この時期の政治を「延久の善政(えんきゅうのぜんせい)」と言います。

特に有名なのは延久の荘園整理令です。

荘園整理というのは、違法な手続きで作られた荘園を朝廷が没収することですが、藤原氏の荘園には手がつけられませんでした。

でも後三条天皇には遠慮する理由がありませんので、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ、記録所)という役所を新たに設置し、藤原氏の荘園も含めて、徹底的に整理を行いました。

あの藤原頼通も多くの荘園を没収され、藤原氏の経済力は打撃を受けました。

この際、単位を統一するために宣旨枡(せんじます)という枡が公式のものとして使われるようになりました。

白河上皇の院政

次の白河天皇の時代に、摂関政治の弱体化は加速します。

白河天皇は、1086年に子の堀河天皇に譲位して、自らは上皇となります。それでこの年が院政スタートの年とされます。

1086年 院政開始「どうやろう、院政」

上皇の御所をと呼び、上皇自体もと呼ばれたので、上皇が院で政治をするということで院政といいます。

ただ、当初は白河上皇も積極的に政治をする気はなく、関白に藤原師通(もろみち)を置いて協力して政治をしていました。摂関政治が復活しかかっていたんです。

ところが、藤原師通が亡くなると、藤原氏は藤原氏同士で争いを始めます。一方、堀河天皇が若くして崩御し、次にまだ幼い鳥羽天皇が即位

でも幼い天皇を助けてくれる藤原氏はいません。争ってる最中だから。

それで白河上皇は自分が天皇の後見をする他ないということになります。そこから白河上皇は権力集中を進め、最終的には「治天の君」と呼ばれるほどの絶大な権力を持ちます。

白河上皇は、受領の財力武士の武力を利用し、自らの権力を補強します。彼らを院の近臣(上皇の側近)として登用し、実際の政治に当たらせます。

上皇は院庁(いんのちょう)の院別当(いんのべっとう=長官)・院司(いんし、院の役人)として優秀な中流貴族を登用し、実際の政務に当たらせます。

中流というのは・・・要するに今まで藤原氏のせいでいい思いできなかった貴族たちです。^^;

そうして院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)や院宣(いんぜん)という形で、上皇の命令を示します。

つまり、律令における「天皇-太政官」という正式なシステムの外に「上皇-院庁」というラインを作り、より自由な立場で政治を行ったわけです。

院の警護に当たらせるため、北面武士(ほくめんのぶし)も設置。院の警護の他にも、白河上皇が手を焼いていた寺院による強訴(ごうそ)への対策とします。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」

という白河上皇の言葉がありますが、それほど僧兵を用いた寺社の強訴には手を焼いていたということです。南都興福寺比叡山延暦寺の強訴が有名。

白河上皇の後も、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇と院政は続きます。「白鳥白鳥」という順なので覚えやすいです。ちなみに、上皇が出家すると「法皇(ほうおう)」と呼ばれますが、出家しても相変わらず権力は持ち続けます。

法王でも鳳凰でもありませんのでお間違えなく。

保元の乱(12世紀)

鳥羽法皇の時代に藤原氏内部での権力争いが表面化し、鳥羽法皇が崩御すると、それが戦に発展しました。

1156年の保元の乱(ほうげんのらん)です。

藤原氏は、自分の都合のよい皇族を次の天皇にしようとしますので、天皇や上皇も争いに巻き込まれる形になります。

さらに各々、有力な武士を味方につけ、以下のような対立構造となります。

後白河天皇、信西(しんぜい)&藤原忠通(ただみち)、平清盛、源義朝

VS

崇徳上皇、藤原頼長(よりなが)、平忠正、源為義&為朝

皇家も、藤原氏も、平氏も、源氏も、みんな親兄弟や親類を敵として戦争となります。

ちなみに信西というのは藤原氏の人です。出家して信西と名乗っています。後白河天皇側の黒幕とも言われています。

超人・源為朝

上記の中で、超人として有名なのは源為朝(ためとも)です。源義朝の弟。兄は敵方ですね。

保元の乱参戦時は若干17歳ですが、保元物語によると17歳にして2メートルを超える身長。当時としてはモンスターです。

崇徳上皇の御所の西門を源為朝は守っていましたが、そこに押し寄せたのがあの平清盛です。

清盛の郎党(ろうとう、家来)が戦いを挑んだところ、為朝は矢じりだけで22センチもある極太のミサイルのような矢をぶっ放します。その矢は鎧に身を固めた一人目を貫通、それでも止まらず、後ろにいた二人目の武者の鎧の袖を破壊します。

郎党がその矢を急いで平清盛のところに持っていったところ、「そんな化け物がいるところで戦えるか! 西門はやめて北門に行こう」ということで撤退していきます。

為朝はたった一矢で清盛軍を撤退させたわけです。

清盛の息子、平重盛は悔しかったので一騎打ちを挑もうとしますが、清盛に全力で止められます。「絶対死ぬからやめろ!」と。実際悔しくて為朝に矢を射かけた山田という人は、為朝の反撃の矢で戦死しています。

次に攻め寄せたのは兄の源義朝です。200騎の義朝に対し、為朝は30騎足らずで戦いを挑みます。

多勢に無勢ですが残り5人になっても為朝はひるまず、一方で義朝側は50人以上が戦死します。

「化け物め、まともに相手してられん」
「17歳でその戦闘力、おまえはグラップラー刃牙か!」

と、義朝は考え作戦を変えて、崇徳上皇の御所に火をかけることにします。これにはたまらず、崇徳上皇も藤原頼長も逃げ出してしまったので、為朝も離脱せざるを得なくなり、保元の乱は決着となりました。

ということで。

保元の乱は、きっかけこそ藤原氏が作ったものの、勝敗を決したのは武士です。これによって、皇族も貴族も、まさに身の痛みをもって武士の力を思い知ったわけです。

この後は朝廷においても武士が力を強めていくことになります。

平治の乱(12世紀)

そしてわずか3年後の1159年には平治の乱が起こります。

こちらも戦いのきっかけは貴族が作ります。

藤原信頼(のぶより)という後白河上皇の側近が、大きな権力を持っていた信西を倒すと同時に二条天皇、後白河上皇の身柄を確保し、実権を握ろうとしました。

そのために、源義朝の軍事力を利用します。

藤原信頼、「しんらい」と書いて「のぶより」さんです。

信頼は、邪魔をするかもしれない平清盛が熊野詣に行って都を空けている隙に作戦を実行しましたので、当初は成功したかに見えました。

藤原信頼は、自分の息子と清盛の娘が結婚していたので、清盛も味方になってくれるだろうと思っていたようです。

しかし清盛が帰ってくると、天皇は脱出して清盛のもとに身を寄せます。これで清盛は官軍という形になり、形成は逆転、藤原信頼・源義朝側はあっさり敗北することとなります。

これが1159年の平治の乱です。

平氏政権

結局勝敗の決め手になったのは平清盛でしたので、この後は平氏が朝廷内で権力を強めていくことになり、1167年には平清盛が武士としては初めての太政大臣となります。まあこの時代には太政大臣は名誉職なのですぐやめちゃうんですけどね。

その後、清盛の娘の徳子が高倉天皇の后となります。

平氏一門は多くの荘園や知行国を持ち、また日宋貿易によって財力も高め、ついに「平氏にあらずんば人にあらず」なんて言い始める人も現れました。

知行国(ちぎょうこく)というのは、一国の国司推薦権や収益権を認められたものです。

平清盛と後白河法皇の対立

さて、ここまで平氏が強くなると、反感を持つ人も増えてきます。

鹿ヶ谷の陰謀

1177年に起こった鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)という事件では、京都の鹿ヶ谷に院の近臣(=法皇の側近)が集まり、平氏を倒すための謀議が行われたということで、関係者が捕らえられ処罰されました。

ここでは後白河法皇が捕らえられたりということはありませんでしたが、この事件によって平清盛と後白河法皇の対立は決定的となります。

治承三年の政変

この2年後に、清盛は京都に大軍を引き入れ、多くの院の近臣を逮捕後白河法皇の院政を停止させてしまいました。また、全国の半分の知行国を平氏のものとします。

そして1180年には清盛の孫が安徳天皇となります。清盛はかつての藤原氏のように、天皇の外祖父となったのです。

院政期の文化

院政期の文化としては、奥州藤原氏平泉に造った中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)が有名です。

1083年の後三年の役以降、東北で勢力を持った奥州藤原氏ですね。今でも藤原清衡、基衡、秀衡3代のミイラが、中尊寺金色堂に納められています。「きよひら、もとひら、ひでひら」です。

清衡は後三年の役で活躍しましたね。秀衡は源義経を匿った人です。義経を殺したのは秀衡の次の泰衡です。

絵巻物も盛んに作られます。藤原氏の頃書かれた、源氏物語も、この時代には源氏物語絵巻となって多くの人を楽しませます。

絵巻物も今の漫画のようなものですが、「元祖漫画」なんて言われることもある鳥獣戯画もこの時代に描かれました。

美術品では平家納経も有名です。

日宋貿易が大事な清盛ですので、航海の安全は大事です。それで瀬戸内海の、安芸の宮島にある厳島神社にお経を納めたというわけです。

お経に豪華な装飾をほどこしたので美術品になりました。

「なぜ神社にお経?」と思っちゃいますが、当時は神仏習合といって、仏教と神道は融合していましたから。

そうそう、日宋貿易で(いやダジャレじゃなく)思い出しましたが、日宋貿易では宋の銅銭=宋銭が盛んに輸入されました。これも平清盛の財力の源となったわけです。

歴史物語として四鏡(しきょう)と呼ばれる大鏡(おおかがみ)、今鏡、水鏡、増鏡(ますかがみ)というのがありますが、そのうち大鏡は院政期に書かれたものです。今鏡は平安時代の終わりですね。

後白河法皇が編纂した梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という歌謡集も有名です。後白河法皇が大好きだった今様(いまよう)と呼ばれる当時の流行歌が集められています。

「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」

なんて楽しげな今様もあります。