では最初に今回のまとめです。
- 6代将軍足利義教…将軍の権威を取り戻そうとする、万人恐怖→暗殺される
- 惣村発達…自治を強める→一揆
- 正長の土一揆、山城国一揆、加賀一向一揆
- 8代将軍足利義政…妻の日野富子や守護大名の力が強く、政治がうまく行かず
- 将軍の後継問題、守護大名同士の争い→1467年応仁の乱→戦国時代
- 下剋上の時代…戦国大名→分国法、寄親寄子
- 南蛮人来航
- 1543年ポルトガル人→種子島、鉄砲
- 1549年フランシスコ・ザビエル(スペイン人)→鹿児島、カトリック
- 東山文化…慈照寺銀閣、書院造
- 茶の湯、連歌、御伽草子
6代将軍足利義教
室町時代で強い将軍は?って聞かれたら、3代将軍足利義満がぱっと思い浮かび、あとは、うーん・・・尊氏?という感じなのですが、義満の子、6代将軍足利義教(よしのり)も強力な将軍でした。
強力というより「怖い」と言ったほうがいいかもしれませんが。^^;
足利義教はくじ引きで選ばれたということでよくネタにされますけど、これ一応、石清水八幡宮で行っていまして、「神意を伺う」という意味でやりました。遊び半分じゃなかったんです。
でも、神様もよりによって怖い将軍を選んでしまったものです。義教は多くの人を処罰しています。
万人恐怖
たとえば、日蓮宗の僧侶の日親さんは、義教に教えを説こうとしたということで、「二度としゃべるな」という意味で舌を切られています。
東坊城益長(ひがしぼうじょうますなが)というお公家さんは、儀式の最中笑顔を作っただけで「何がおかしい!」と激怒され、自宅謹慎となりました。
あと面白い(?)のは「闘鶏の見物客が邪魔」ということで京都中のニワトリを追放しました。^^;
まあ誇張もあるだろうし、そこに至るまでの経緯もいろいろあるでしょうが、それでも「万人恐怖」と日記に残している人がいるくらいですので怖かったのでしょう。
将軍の権威を高めるのだ!
ただキレやすくて怖い人というだけでなく、将軍の権威と幕府の力を高めるために、いろいろと政策を実行しています。
4代、5代将軍の時代に、将軍の権威はかなーり落ち込んでいましたので、足利将軍を軽く見る人も増えていたようです。
なので政治の最高合議機関として御前沙汰(ごぜんさた)を強化し、将軍が参加者を指名して出席させ、将軍臨席のもと合議する形にし、将軍の権威を高めようとします。
延暦寺は、「寺社担当の奉行を罰しなさい」と義教に要求してきます。将軍の人事に口出ししてきたわけです。
そこでは義教は「うるさい黙れ」とは言わず、要求をのみます。にもかかわらず、延暦寺は園城寺を焼き討ちにするという暴挙に出たので、義教さんついにブチ切れてしまって、以後延暦寺を徹底的に叩くことにします。
もちろん、足利義満がやったように、他の有力者を叩くこともしっかりやっています。
九州に幕府の勢力を広げましたし、鎌倉公方の足利持氏も倒し(永享の乱)、持氏の子を奉じて反乱を起こした結城氏を倒し(結城合戦)、持氏の子も殺しています。
結局、義教さんは目標とした父義満と同じく、戦では負け知らずでした。
義満が目標なので、途絶えていた日明貿易も復活させます。
しかし、あまりに恐れられたせいか、「次は私がやられる」と思い込んだ守護大名赤松満祐(あかまつみつすけ)によって、義教は暗殺されてしまいました。
これ以後、時代は混迷を深めていきます。
惣村と地侍、惣百姓
まあ室町時代は始まりからして南北朝の騒乱ですので、一般庶民としても「自分の身は自分で守らねば」ということになり、各地地元の人達で団結を強めます。
そうして、自治力を強めた新しい村を惣(惣村、そうそん)と言います。お惣菜の惣っていう字ですね。
惣村は地元の有力者である地侍(じざむらい)を乙名(おとな)、番頭、沙汰人などと呼ばれる、まあ要するに村長さんとして自治的に運営されます。一般農民は惣百姓と呼ばれます。
地侍というのは、有力な百姓が、守護大名など有力な武士と主従関係を結んで半分武士化したものです。
そうして守護大名その他の領主に対しては、惣村で責任を持って年貢を納めることにします。これを地下請(じげうけ)とか百姓請と言います。
年貢納入は我ら百姓で責任を持って惣村で一括して請け負いますから、守護大名さんが一軒一軒取り立てに行く面倒はありませんよ、ということ。
そうして、惣村内での警察&裁判権も認めてもらいます。惣村内で警察や裁判を自ら行うことを自検断(じけんだん)とか下検断(げけんだん)と呼びます。
要するに、村の中で事件が起こっても、外から警察が来たりするんじゃなくて、村の中で処理してしまうということ。
今の人から見ると「とんでもない!」ですね。^^;
一揆
で、団結を強めたので「年貢の負担が重すぎ!」というときにはみんなで行動に出ます。武力闘争も含め、みんなで団結して行動に出ること、それからその団結自体を一揆と呼びます。
で、どう行動するかですが、穏やかな方から、
愁訴、強訴(ごうそ)、逃散(ちょうさん)、一揆(武力闘争)
となります。
愁訴は漢字でなんとなくわかりますが、「今こんなに生活が大変なんです。だからどうか年貢を減らして」なんて、同情を誘う感じでお願いします。
これが強訴になると「我々は今こんなに苦しんです! 年貢を減らしてくれないなら我々にも覚悟がありますよ!」と、ちょっと強気になります。
それでもだめなら逃散。一時的に耕作放棄して、他の地域へ逃げます。「ほら領主さん、年貢納める人いなくなったら困るでしょ?」という圧力です。
それでもダメなら・・・実力行使としての一揆です。
室町時代の一揆は土一揆(つちいっき、どいっき)と呼ばれることが多いです。これは一般農民が「土民」と呼ばれていたからです。
「百姓一揆」と呼ぶのは江戸時代です。
土一揆の中でも、借金帳消し=徳政を要求したものは徳政一揆と呼ばれます。
土一揆、国一揆、一向一揆
有名なのは1428年に起こった正長の土一揆(しょうちょうのどいっき)で、「大乗院日記目録」によると初めての土一揆とされています。
近江坂本の馬借(ばしゃく、運送業者)が起こし、それが近畿一円に波及しました。
「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」
「酒屋、土倉、寺院」が襲われたとありますが、これは「酒屋、土倉、寺院」が高利貸しをやっていたからです。
土倉というのは質屋のようなものです。質草を管理する倉を持ってたので土倉と呼ばれます。
「借銭等悉(ことごと)く之を破る」とありますが、証文を破り捨てて借金を踏み倒したわけです。徳政を勝手にやったということで私徳政と呼ばれます。
また、正長の土一揆より約60年もあとのことになりますが、1485年には山城国一揆(やましろのくにいっき)が起こります。こちらは私徳政どころではなく、山城国を奪ってしまいました。
国人(こくじん)と呼ばれる在地の有力者が中心となったので土一揆ではなく国一揆と呼ばれます。山城国を奪ったのですが、10年ももたず内部分裂により崩壊します。
これとは違い、団結力が強く長期間続いたのが一向一揆です。1488年の加賀一向一揆(かがのいっこういっき)が最も有名です。
北陸では蓮如(れんにょ)という僧侶の活動により一向宗(浄土真宗)門徒の団結が強まっていましたが、守護から弾圧されたためそれに抵抗、とうとう加賀国の守護の富樫政親を倒してしまいました。
これ以後、100年近く勢力を持ち続け、「百姓の持ちたる国」と呼ばれるようになります。
1428年正長、85年山城、88年加賀をまとめて覚えておきます。
「シャカイ改革必死にやったパー子パパ」
シャカ=しょうちょう、やましろ、かが
1428=ひっしにやった 85=パー子 88=パパ
です。
8代将軍足利義政
さて、時代は少し戻りますが、6代将軍足利義教が暗殺され、次の7代目も若くして死去。
そうして8代将軍となったのが足利義政ですが、正式に将軍になったときはまだ満13歳です。
若い頃は祖父の義満や父の義教を目標として将軍の権威を高めようとしていました。
そして、1455年から鎌倉公方を叩こうとしますがこれがなかなかうまく行かず、ダラダラと30年近く続いていくことになります。享徳の乱(きょうとくのらん)といいます。
将軍への権力集中を図りますが、乳母や側近、妻の日野富子とその実家の日野氏、有力守護大名など、いろいろな有力者の意図が錯綜し、義政の思うとおりにはならなかったようです。
また、日野富子との間にできた男子は、不幸にして早世してしまい、日野富子はこれを「義政の乳母が呪ったからだ!」と言い始めてその乳母を流罪にしてしまいます。しかもその乳母、流される途中で襲われて死んでしまいます。もうめちゃくちゃです。
一方、日本を大飢饉が襲い、餓死者の死体で賀茂川の流れが止まるほどだったと言います。
こんな状況だったので、義政はだんだん政治に嫌気が差してきたのでしょうか、趣味や酒宴にのめりこむようになります。飢饉で多くの人が苦しんでる中、花の御所改築なんかしたりして、天皇直々に注意されたりもしています。
応仁の乱から戦国時代へ
結局次の子も生まれなかったので、弟を養子とし、足利義視(よしみ)と改名させ次期将軍とします。よしみちゃんですが、男性です。
でも直後に、タイミングの悪いことに子供が生まれてしまいます。のちの足利義尚(よしひさ)です。
もちろん日野富子は息子の義尚を次の将軍にしたいわけです。そこで有力守護大名の山名宗全(やまなそうぜん)に協力を頼みます。
それに対して足利義視は同じく有力守護大名の細川勝元と手を組んだので、将軍の後継争いに、守護大名同士の対立が加わることになります。
さらにそこに、畠山氏同士の争い、斯波氏同士の争いが加わって、大規模な戦となってしまいます。応仁の乱です。
1467年 応仁の乱「一夜むなしく応仁の乱」
東軍の大将細川勝元、西軍の大将山名宗全として争われましたが、両大将とも途中で死去、その後もダラダラと続き、京都を灰にした後、1477年に応仁の乱自体は終わります。
「汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」
という歌が有名です。
応仁の乱自体は終わりましたが、これと連動して全国に飛び火した戦はまだまだ収拾がつかない状態です。ということでこれ以後約100年くらいを戦国時代と呼びます。
明応の変
その後、1493年に明応の変が起こります。細川勝元の息子の細川政元が武力を背景に、10代将軍を廃して、11代将軍を決めてしまい、朝廷もこれを黙認するという事件です。
これは守護大名が将軍をクビにしたということですね。部長が社長をクビにしたという感じ。これ以後、将軍の権威は急落していきますので、ここから戦国時代だとする説もあります。
まあ1467年からでも1493年からでも大した違いはありませんけどね。
下剋上と戦国大名
戦国時代の特徴は実力主義です。下剋上(げこくじょう)という言葉で表されます。実力さえあれば上のものに取って代わることができるというわけです。
そうして実力で広い領域を支配するようになった領主を戦国大名と呼びます。
これ以前は、「将軍のご恩で」とか「朝廷から任命されて」という大義名分があったわけですが、戦国大名はそんなものはなく、実力で支配するというわけです。
実力で支配しているなら前の身分は問われないので、下剋上で戦国大名になった人だけでなく、守護大名から戦国大名にチェンジした人もいます。
守護大名から戦国大名になった例としては、武田氏、今川氏、島津氏が有名です。
守護の代理である守護代から戦国大名になった例、つまり「ちょっとだけ下剋上」としては織田氏や上杉氏、朝倉氏がいます。
もっと下の地位からの典型的な下剋上としては、美濃の斎藤道三や相模の北条早雲が有名です。
ということで下剋上当たり前ですので、戦国大名としても家臣団の統率には大きな注意をはらいます。そうしないと自分がやられちゃいます。
家臣団統率の仕組みとしては「寄親・寄子(よりおや・よりこ)」があります。有力な家臣を寄親とし、さらにその下に寄子として家臣をつけるというもの。そうして親子に近い関係を作らせて、団結を強めようというわけです。
寄親・寄子制を採用した戦国大名としては武田氏、北条氏、今川氏、毛利氏などが有名です。
家臣団は一門、譜代衆、外様衆に分けて管理します。一門は大名一族、譜代衆は代々仕えている家臣、外様衆は新しい家臣ということで、江戸時代にも「親藩、譜代大名、外様大名」として出てきますね。
また、戦国大名の領国内での決まりとして分国法(家法)も作られます。分国というのは戦国大名の領国のことです。
分国法の内容としては、連帯責任を問うものが多いです。
- 喧嘩両成敗…争った場合双方を罰する
- 連座制…関係者も罰せられる
- 縁坐制…一族も罰せられる
という感じ。
また相続は単独相続、私婚禁止(結婚は主君の許可を得ること)などもよくある内容です。
また、軍事力を支えるのは経済力ですので、開墾や灌漑工事、鉱山開発や城下町建設、経済政策なども行います。
年貢を確実に取るために指出検地(さしだし)も行います。指出検地は、領有者に土地面積や収穫高を申告させるだけです。豊臣秀吉の太閤検地のように「面積と収穫高をすべてこちらでチェックする」という方式とは違います。
商人の力
下剋上の気風の中で実力を示したのは戦国大名だけではありません。
前述した、一向一揆のような仏教勢力もそうですし、力を持った商人たちもいます。
たとえば、日明貿易で栄えた港町である堺では、36人の会合衆(えごうしゅう)によって、博多では12人の年行司(ねんぎょうじ)によって自治が行われていました。
応仁の乱で焼け野原となった京都を復興させ、祇園会(ぎおんえ、祇園祭)を復活させたのも商人で、町衆と呼ばれる人々が力を持っていました。
南蛮人来航
戦国時代の後半には南蛮人(スペイン人、ポルトガル人)が日本へやってきます。
まず、1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えます。
領主の種子島時尭(ときたか)は鉄砲の威力に仰天して、今の値段にすると1丁1億円程度のボッタクリ価格で2丁買い取ったそうです。^^;
そりゃあポルトガル商人も「日本人ちょろいな」と思ったことでしょう。
それにしても、よりによって戦国時代にこんな武器が伝わるなんて、すごい偶然ですね。この後、鉄砲は堺や根来、国友などで国産化されます。
次に、1549年にはあの有名なフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航します。こっちはイスパニア、スペイン人です。
フランシスコ・ザビエルは、日本にカトリックのキリスト教を布教することになります。
これが日本への「キリスト教伝来」とされていますが、ネストリウス派のキリスト教=景教(けいきょう)であれば、唐の初期に中国に伝えられていますので、遣唐使などで日本にも伝わっている可能性は高いです。
その後宣教師が続々と日本にやってきて、戦国大名も南蛮貿易と引き換えにキリスト教布教を許したりしたので、日本でもキリスト教徒=キリシタンが増加します。
南蛮貿易では鉄砲や火薬、中国製の絹などを輸入し、銀や刀剣を輸出しました。
日本の銀は南蛮人から見ると非常に安く、ヨーロッパに持って帰れば高く売れるので、日本からどんどん銀が持ち出されてしまいました。ここでもぼったくられたということです。
中には、貿易による利益目的ではなく、本気で入信したキリシタン大名と呼ばれる人たちもいます。
室町時代の産業
農業
鎌倉時代に始まった二毛作も、室町時代には全国的に行われるようになります。
また肥料も、刈敷・草木灰に加えて、下肥(しもごえ)も利用されるようになります。これは要するに・・・あまり言葉にはしたくありませんが(笑)、人間が排泄したものを肥料として使うということです。
それで日本ではサラダが発達しなかったという説があります。下肥使って育てて、それを生で食べるのは抵抗があるかもしれません。^^;
しかしこれによって、さらに生産力はアップしました。
手工業
各地で手工業も発達して、特産物と呼ばれるようなものも増えてきます。
有名なのは、応仁の乱で西軍が陣取った土地で作られるようになった西陣織ですね。
瀬戸や信楽の陶器、美濃や越前の和紙、輪島の漆器なども、現在まで続く特産物です。
手工業者の同業組合である座も発達します。石清水八幡宮を本所とする大山崎油座(おおやまざきのあぶらざ)、北野神社を本所とする酒麹座(さけこうじざ)、祇園社を本所とする綿座(わたざ)などが有名です。
こういった品物の多くが定期市で取引されました。
鎌倉時代の三斎市から、さらに回数が増えて月6回の六斎市も増加します。月に数回の定期市だけでなく、京都のような大都市では毎日営業する店棚(みせだな=小売店)も増えます。
東山文化
室町時代後半、特に足利義政の頃の文化を東山文化と言います。禅宗の影響が強い、簡素さを特徴とした文化です。要するに地味でシンプル。
東山文化を象徴する建物が足利義政によって京都の東山に造られた慈照寺銀閣です。現在の和風建築のもととされる書院造を取り入れています。
慈照寺の東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)は足利義政の書斎ですが、ここも書院造。
寺院の庭では枯山水(かれさんすい)というデザインが流行りました。これは水を使わず岩や砂で日本の自然風景を再現するものです。
絵画
絵画も地味・・・というか簡素なものが流行ります。墨一色で描いた水墨画ですね。雪舟が有名です。
派手だった大和絵も、水墨画を取り入れまして、狩野正信・元信の狩野派が有名になります。
茶の湯
茶の湯もこの時代に発展し、まず村田珠光(じゅこう)が侘び茶(わびちゃ)を創始します。簡素な「侘び」の精神を重視したわけです。
それが、武野紹鴎(たけのじょうおう)に受け継がれ、千利休(せんのりきゅう)に至って大成します。千利休は政治にも大きな影響力を持つようになります。
茶道と聞いてセットで思い浮かぶのが華道ですが、華道も、室町時代中頃に池坊専慶(いけのぼうせんけい)という僧侶がその元を作りました。小野妹子の子孫とも言われている人です。
千家の茶道も池坊の華道も現在まで続くものですが、この時代に生まれたんですね。
学問・文芸
儀礼を研究する有職故実(ゆうそくこじつ)が発展しましたが、一条兼良(いちじょうかねら)が「公事根源(くじこんげん)」で有名です。この人は、日野富子に頼まれて、9代将軍足利義尚のために政治の意見書「樵談治要(しょうだんちよう)」も書いています。
文芸では連歌が流行ります。レンガと読みます。
最初の人が上の句を読み、それにつながるように2番目の人が下の句を読み・・・という具合にあとはつなげていくゲームです。
最初はみんなで気軽に楽しむものだったようですが、二条良基(にじょうよしもと)という太政大臣にまでなったような貴族が連歌を好きになったので連歌の地位は上がり、宗祇(そうぎ)という人が芸術性を高めました。
でも貴族的で堅苦しくなって面白くないということで、山崎宗鑑(やまざきそうかん)が「もっと面白いものにしよう!」ということで滑稽や機知を中心としたものに革新しました。
みんなで楽しむというと、御伽草子(おとぎぞうし)もたくさん作られました。浦島太郎とか一寸法師とかはこの時代のものです。