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では最初に、足利義満までのまとめです。
- 幕府への不満高まる→後醍醐天皇挙兵→失敗して隠岐へ
- 脱出して倒幕…楠木正成、新田義貞、足利尊氏の協力
- 建武の新政…天皇親政かつ徳政
- 革新的なこと多すぎた、武士の不満を高めた→失敗
- 足利尊氏…天皇に反旗→1336年京都に北朝→1338年征夷大将軍
- 後醍醐天皇→吉野に南朝
- 南北朝の騒乱…約60年→その間に守護が権限を強め守護大名に
- 足利義満…守護大名排斥、1392年南北朝合一、太政大臣、その後日明貿易
- 北山文化…公家と武家の文化が融合、金閣、能、狂言
元寇から半世紀も経っていますの、それが直接の原因とは言えませんが、鎌倉時代末には幕府の政治は乱れ、一方で貧困にあえぐ御家人は増加していました。
幕府では、第14代執権北条高時は病弱で指導力を発揮できず、代わりに御内人の長崎高資(たかすけ)が執権をも凌ぐ権力を持つようになります。
一方朝廷も、大覚寺統(だいがくじとう)と持明院統(じみょういんとう)という二つの派閥に別れて争っています。
後醍醐天皇の使命
そんな中、「幕府には日本を治める力はない。かと言って朝廷も今のままでは役立たずだ。私がなんとかしなければならない」と思ったのが大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。
それで後醍醐天皇は倒幕計画を立てますが、2度連続で失敗します。それが正中の変(しょうちゅうのへん)と元弘の変(げんこうのへん)です。元寇と紛らわしいので注意。
正中の変では後醍醐天皇の側近がすべての罪をかぶったので後醍醐天皇は無事でした。しかし元弘の変ではもう逃れることができず、幕府の手で隠岐に流されました。あの後鳥羽上皇も流された隠岐です。
天皇陛下を島流しにするなんて、他の時代では考えられないことですね。^^;
「権力欲から幕府を倒そうとした」なんて言われることもありますが、私欲でこんな、命がけのことをするはずもありません。島流しにまでなっているわけですから。
都でのんびり豊かな生活をすることだってできたはずです。でもそうしなかったのは、民衆を救いたいという天皇としての使命感を感じていたからでしょう。
不屈の後醍醐天皇
だから普通、島流しになったらそこで終わってしまいそうなものですが、後醍醐天皇は諦めません。不屈の闘志で隠岐を脱出、三度倒幕計画を立てます。
ただ、後鳥羽上皇の時代と違ったのは、後醍醐天皇には味方も多かったということです。その代表が楠木正成(くすのきまさしげ)。また、幕府を裏切る御家人もいました。そっちは新田義貞や足利高氏(のちの尊氏)が有名。
楠木正成は河内(大阪府東部)の豪族で「悪党」と言われることもあります。悪党と言っても今とは意味が違い、「悪いやつら」という意味ではなく「強力な反抗者」という感じの意味でした。また御家人説、非御家人説両方あります。
最後まで天皇のために戦ったということで皇居の近くに銅像があります。
戦略戦術の天才で、河内の千早城の戦いでは100倍以上、太平記を信じるなら1000倍以上の幕府軍を足止めし、その間に六波羅探題は倒され、本拠地鎌倉も攻められて、朝廷対幕府の勝敗を大きく左右したとされます。
足利高氏は後醍醐天皇を倒すために幕府から派遣されましたが、幕府を裏切って、六波羅探題を倒します。
新田義貞は上野国新田郡(群馬県太田市あたり)の生まれで、幕府の御家人でしたが、度重なる幕府からの負担強要に耐えかねて徴税人を殺害、幕府と戦うことになります。
発端は小役人とのいざこざでしたが、結局は新田義貞が鎌倉に攻め込み、幕府を滅ぼしてしまうわけですから、予想外のことって起こるものですね。
おそらく幕府の役人は同じようなことをあちこちでやっていて、御家人の反感を強めていたのでしょう。
ちなみに新田郡と言うと相沢忠洋が打製石器を見つけた岩宿遺跡もありますね。
鎌倉幕府滅亡
鎌倉は海と山に囲まれた自然の要塞で、だからこそ源頼朝もここを拠点としたと言われますが、それだけに、新田義貞も攻めあぐねたようです。
そこで義貞は海側から回り込むことにしましたが、こちらも幕府軍は海上に舟を並べ、弓を構えて通れるもんなら通ってみろと言わんばかり。
でも新田義貞が黄金作りの太刀を海に投げ込んで祈ったところ、急激に潮が引いていき、幕府軍の舟が沖に流され、新田軍は鎌倉に攻め込むことができたとのこと。
結局これで北条高時も自害、鎌倉幕府は滅亡となります。1333年。
こうして、後醍醐天皇は念願の親政に取り掛かることができました。
建武の新政(建武の中興)
1334年を建武元年としたので、後醍醐天皇の政治を建武の中興または建武の新政と言います。
天皇親政でかつ「新政」、新しい政治です。後醍醐天皇は非常に革新的な政策を次々と実行します。
中央には、政治の最高機関として記録所を設置します。平安時代の後三条天皇の頃にも記録所というのがありましたが、あちらは荘園整理のため。後醍醐天皇の方は政治の最高機関で、今で言えば内閣兼国会のようなものです。
中央の役所
中央の役所をまとめて書いちゃいましょう。
- 記録所…最高政務機関、一部裁判
- 雑訴決断所…主に土地関係の裁判
- 恩賞方…恩賞担当
- 武者所(むしゃどころ)…内裏の警備、都の治安維持
朝廷人事の刷新
新しい役所を作るとともに、それまでの朝廷での人事も刷新します。特定の貴族の家が特定の官職を代々受け継いでいくことが慣例になっていたものをやめさせ、天皇がすべて任命し直します。
地方行政
次に地方。
都から遠かったりもともと武士勢力が強かったりする東国には、特別の役所を置きます。東北には陸奥将軍府、関東には鎌倉将軍府です。どちらも「ミニ幕府」のような仕組みとなっていて、それぞれ親王が将軍に任命されます。
また国ごとに国司と守護が併設されます。国司は公領の管理を行い、守護は軍事警察を担当しますが、地位としては国司のほうが上です。
「今ごろ国司?」と思うかもしれませんが、国ごとに特定の貴族が代々収益権を得るようになっていたものを、もう一度、昔のように、天皇が国司を任命して政治に当たらせることで、中央集権化を進めようとしたのです。
土地政策
土地に関しては「後醍醐天皇の御恩」として臣下に与える形としました。天皇の命令である綸旨(りんじ)を持つことで、土地領有が認められることにしたんです。ところがこれは大混乱となり、後で修正します。
徳政令も発布し、鎌倉幕府が出したものと違って、武士だけでなく一般庶民も救済しようとします。
以上のように、非常に多くの新政策を短期間で打ち出しました。昔から政治について研究し、構想を練っていた証拠ですね。
建武の新政失敗の原因
でもあまりに多くの革新的なことを短期間でやろうとしたので、周りがついて来れず、混乱してしまいました。
それからよく言われることですが、命がけで戦った武家よりも、公家を重用したので、武士の反感を買ってしまいました。
また上記のごとく、長年の朝廷の慣例を破るようなこともいろいろやりましたので、公家の中にも「後醍醐天皇はおかしい」と思う人がいたことでしょう。
そんな状況をうまく利用するのが足利尊氏です。
足利尊氏の離反
「高氏」から「尊氏」になっていますが、これは、後醍醐天皇の名前である「尊治(たかはる)」から一字もらったんです。それくらい後醍醐天皇は、足利尊氏には気を使っていたんです。
でも天皇は、尊氏の希望だった「征夷大将軍になること」だけは認めませんでした。幕府が復活しては元も子もないからです。
それによって、天皇と尊氏の関係は怪しくなってきます。
そんな時、鎌倉幕府最後の執権北条高時の子、北条時行(ときゆき)が反乱を起こします。中先代の乱(なかせんだいのらん)です。
後に、鎌倉幕府の北条氏を先代、室町幕府の足利氏を当代(後代)と呼んだので、先代と当代の真ん中ということで中先代と呼ばれます。
北条時行は一時鎌倉を制圧しましたが、朝廷から派遣された足利尊氏に倒されます。
それで一安心かと思っていたら、尊氏さん、そのまま鎌倉に居座ってしまいます。そうして今度は、京都へ進軍を開始します。
後醍醐天皇は新田義貞で迎え撃ちますが、新田義貞さんが負けちゃってピンチ、でも楠木正成が尊氏を打ち破ってくれました。
足利尊氏、九州から捲土重来
足利尊氏は敗走、新田義貞が追討軍の指揮を任されますが、またしても敗北。尊氏を逃すことになります。
尊氏は一度九州に逃げて態勢を立て直します。そうして再び、京へ進軍を開始。
尊氏の軍は移動途中で西国の勢力と合流してどんどん大きくなり、ついには10万を超える兵力となります。太平記によると最低でも50万ですがさすがにそこまでは・・・^^;
それを見た楠木正成は、後醍醐天皇に、延暦寺へ一時的に移動し、尊氏を京都に入れたあと、交通路を遮断して兵糧攻めにすることを提案します。
その後、兵力が集まるのを待って仕掛ければ、勝てる可能性が高い、と正成は考えたのです。
ところが後醍醐天皇の側近の一人がそれに強く反対し、「帝が都から追い出されるなんて帝の権威に傷がつく。君が行って尊氏のやつをやっつけてきなさいよ」ということになります。
楠木正成は、死を覚悟して都を出、兵庫の新田義貞と合流、現在の神戸市にある湊川で、足利軍と決戦ということになります。
結局、主力の新田義貞軍は先に敗走、わずか700騎しかいなかった楠木正成の軍は最後まで戦い、正成は戦死。足利尊氏の勝利となりました。
新田義貞はと言うと、北陸に逃げ、その後2年間しぶとく戦い続けて戦死しました。
南北朝の騒乱と室町時代のスタート
そして足利尊氏は京都を奪い、光明天皇を擁立します。後醍醐天皇は都を脱出、奈良県の吉野に逃げることになります。あの、大海人皇子も逃げていた吉野です。
北の京都と南の吉野に天皇が並び立つことになります。1336年のことです。
それでここからの約60年間を南北朝時代と呼びます。またこれは、室町時代の最初の60年間と重なっています。
同じ1336年、足利尊氏は建武式目を制定します。全17条の施政方針で、御成敗式目を改正するようなものではありません。
でもまたしても17条です。^^ 御成敗式目は17×3=51か条。やっぱり17は縁起が良かったんですね。
そうして1338年には征夷大将軍に任命されます。それでここから室町時代ということもあります。
せっかく室町幕府が出来上がったのですが、ここでいざこざ発生。
観応の擾乱
尊氏の弟、足利直義(ただよし)が、尊氏の重臣である高師直(こうのもろなお)と対立し、殺してしまいます。
そして直義が幕府での実権を握ってしまったので、尊氏は南朝と一時的に手を結んで直義を倒します。
これを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と言います。
直義を倒した後は再び南北朝に分かれて争いが続きます。
室町幕府最強の将軍、足利義満
この争乱を収めるのが3代将軍足利義満です。
とはいえ、1368年に将軍になった義満はまだ満9歳です。とてもじゃないけど政治なんてできませんね。^^;
なので最初は、足利一門で管領(かんれい)の細川頼之(よりゆき)ほか有力守護大名に助けられて政治を進めます。
ここで管領なんてでてきましたので、室町幕府の職制について触れておきましょう。
三管領四職
まず、管領というのは将軍を補佐する役割です。ナンバー2。三管領と呼ばれた、細川氏、斯波氏、畠山氏から選ばれます。「ハタケのシバ犬、細っ!」と覚えます。
中央の役所は鎌倉幕府とそっくりで、侍所、政所、問注所があり、評定衆の下に引付衆もあります。
侍所の長官は、山名氏、赤松氏、一色(いっしき)氏、京極氏から選ばれます。こちらは四職(ししき)と呼ばれます。「京の山、赤一色」と覚えます。
鎌倉公方と関東管領
例によって東国の支配は重要なので鎌倉府を置き、その長官が鎌倉公方で、尊氏の弟足利基氏が初代となり、以後世襲されます。鎌倉公方を補佐するのが関東管領です。上杉氏が担当します。
守護大名の成長
守護・地頭も置かれますが、守護は南北朝の争乱の時代に徐々に力を強めていきます。
初期は鎌倉時代と同じく大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)つまり軍事警察の仕事だけでした。刈田狼藉(かりたろうぜき)の検断権や、使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)もすぐに認められましたが、これはまだ軍事警察の範疇ですね。
刈田狼藉つまり他人の他の稲を勝手に刈り取るやつを取り締まったり、使節遵行つまり裁判結果を強制執行したりするということ。
でも、観応の擾乱をきっかけに、兵糧米を調達するという名目で、荘園と公領の年貢の半分を徴収する権利を認められます。これを半済(はんぜい)の権利と言います。
つまり、軍事・警察だけでなく、経済的な権限も手に入れました。
さらに進んで、義満が将軍になった1368年には、応安の半済令が出されて、年貢だけでなく土地自体、半分守護のもの、ということになりました。
そのうち、半済どころか「支配は全部守護に任せるから、年貢だけは納めてください」という守護請(しゅごうけ)も行われるようになります。
そうして、大きな経済力を得た守護は、地頭その他の有力者を家臣とし、単なる守護ではなく守護大名と呼ばれる強力な存在となります。
こうして守護大名は任された土地を自分の土地のように支配することになります。これを守護領国制と言います、
ということで義満に戻りましょう。
花の御所
将軍になってちょうど10年後の1378年には、京都室町に邸宅を造ります。ここからのちに「室町幕府」「室町時代」と名付けられたというわけです。「花の御所」という別名で呼ばれます。まちがえて「花やしき」とか言わないように。
また奉公衆(ほうこうしゅう)という、将軍直属の常備軍も設置します。「いざ鎌倉」の時に招集をかけているのでは遅いので、手元に置いてすぐに動かせる軍隊を作ったのです。
守護大名排斥
そうして、チャンスを見ては守護大名の力を削り、そして滅ぼしたりしています。
- 1389年 土岐康行の乱…土岐氏討伐
- 1391年 明徳の乱…山名氏清討伐
山名氏は「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれ、日本の6分の1を支配した有力守護大名です。
朝廷や仏教勢力の操作
右近衛大将(うこんえのだいしょう)や内大臣、左大臣にも任命されて朝廷へも影響力を広げていきます。
さらに強訴を失敗に追い込んで仏教勢力を牽制し、その後で、興福寺や延暦寺と対話して、良い関係を築いています。
戦争が強いだけではなかったのです。
南北朝合一
そして、いいかげん南朝勢力がくたびれたタイミングを見計らって
「南北朝の争い、そろそろやめましょうよ」
と提案します。
持明院統と大覚寺統が交互に即位(両統迭立、りょうとうてつりつ)することとし、南朝側が北朝側に「譲位」する形にして、南北朝合一を果たします。
1392年 南北朝合一「いざくにつくろう義満さん」
そして1394年には息子に将軍の位を譲り、自分は太政大臣となります。武士としては平清盛についで二人目です。
その後、1399年の応永の乱で大内義弘を倒すなど、守護大名抑制にも余念ありません。
結局のところ足利義満は戦で負け知らずでした。
室町幕府の収入源、日明貿易
幕府の収入源としては直轄領である御料所からの収入や関所の関銭、港での津料など通行料もありますが、日明貿易でも莫大な利益を得ます。
最初はうまくいきませんでした。なぜなら、征夷大将軍にしても左大臣にしても太政大臣にしても、天皇の臣下だからです。
皇帝「天皇は私の臣下、オマエは天皇の臣下だろう? 臣下の臣下が私に会おうとは身の程知らずめ」
ということです。
それで義満は太政大臣も辞めてしまい、天皇の臣下という立場から脱しました。
そのうえで明に朝貢し、「日本国王」として冊封(さくほう)を受けます。つまり義満は皇帝の臣下という立場で日明貿易を進めようとしたのです。
交換条件として、倭寇の取り締まりを要求されます。そして正式な貿易船には「勘合符(かんごうふ)」という割札を持たせるよう求められたので、日明貿易のことを勘合貿易とも言います。
勘合符の半分は明の役人が持っていて、ピッタリ合えば「OK、通ってよろしい」となるわけ。
倭寇(わこう)というのは「日本の海賊」という意味ですが、中身は日本人とは限らないようです。
日明貿易では主に明銭(永楽通宝など)や生糸が輸入され、刀剣や銅が輸出されました。刀剣は武器というより、その鉄が非常に高品質で中国にないものだったので高く売れました。
なぜ朝貢=「義満が臣下」という立場で貿易をしたのかというと、そういう形式であれば皇帝は明の豊かさを示すため、日本側に非常に有利な条件で貿易をしてくれたからです。
簡単に言えば、日本側がボロ儲けできるということです。
北山文化
足利義満の頃を中心とした文化を北山文化と言います。
武士の政府が朝廷のある京都にできたということで、武家と公家の文化が融合していることが特徴です。
その象徴が、京都北山にある鹿苑寺(ろくおんじ)金閣です。1階は寝殿造、2階は武家造、3階は唐様(禅宗様)となっています。
また能という舞台芸術も発展します。能を大成させた観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子は足利義満の保護を受けています。
世阿弥の書いた「風姿花伝(ふうしかでん)」が有名です。
能の幕間に演じられる狂言も人気でした。
違いを簡単に言うと、能はストーリー重視の演劇、狂言は喜劇です。
学問・文芸
室町時代の初めは天皇がふたり並び立つという異常な時代でしたので、それに関して考察する人も当然出てきます。
軍記物では、太平記が北朝側、梅松論(ばいしょうろん)が南朝側の立場になって作られています。
伊勢神道に詳しい北畠親房(きたばたけちかふさ)は後醍醐天皇の重臣だった人で、神皇正統記(じんのうしょうとうき)を書いて南朝の正統性を主張しました。