奈良時代は80年ちょっとと短いので、覚えることが少ないのかと思いきや、政権担当者がコロコロ変わったり、聖武天皇が引っ越し魔だったりでなかなか受験生泣かせの時代です。
ということで最初にまとめましょう。
奈良時代は平城遷都の710年に始まり、平安遷都の794年に終わります。
奈良時代の政権担当者の覚え方
最初に、政権担当者がコロコロ変わるという大枠を押さえておいたほうがわかりやすいでしょう。
- 藤原不比等…大宝・養老律令、光明子の父
- 長屋王…百万町武開墾計画、三世一身の法
- 藤原四子…光明子を皇后に、天然痘
- 橘諸兄…吉備真備、玄昉
- 藤原仲麻呂(恵美押勝)…光明皇太后の信任、大仏開眼
- 称徳天皇&道鏡…宇佐八幡宮神託事件
- 藤原百川…光仁天皇、桓武天皇擁立
- 桓武天皇…平安遷都
見ての通り、藤原氏→皇族の繰り返しです。
ふなっしー萌え、どーもカンベン
とでも覚えておきます。「しー」は四子の「四」、「え」は恵美押勝の「恵」です。あとは・・・いいですね。^^;
ふなっしーとどーもくんってあのユルキャラじゃないかって? いえ、偶然の一致です。(笑)
はい、これで奈良時代の政治の流れはほぼわかりました。^^
肝心の聖武天皇は、長屋王の時代から橘諸兄の時代までの天皇です。
聖武天皇の頃の重要事項としては
- 国分寺、国分尼寺
- 東大寺、大仏、行基
- 墾田永年私財法
などがあります。
では詳しい話に入っていきましょう。
元明天皇…平城遷都の理由
平城遷都を実行したのは女帝の元明天皇です。前の、大宝律令の文武天皇の次ですが、文武天皇のお母さんです。
息子の次に母親が天皇になったというわけ。
大化の改新で中大兄皇子側についた、あの長い名前の蘇我倉山田石川麻呂の孫でもあります。
その元明天皇ですが、694年に持統天皇が藤原京という立派な都を造ったばかりなのに、なぜまたすぐに平城京遷都なのか、というのははっきりしたことはわかっていません。
- 中央集権が整ったので大和三山に囲まれた藤原京ではなく、地方との行き来がもっと便利な場所に移りたかった。
- 飛鳥の旧勢力から離れたかった。
- 役所も役人も増えてきて藤原京が手狭になった。
という説が有力なようです。
なにはともあれ710年に平城遷都してここから奈良時代スタート。平城京は現在の奈良市です。
ちなみに元明天皇の時代には、遷都の少し前に、皇朝十二銭の最初の貨幣である和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)が作られています。
また古事記が完成したのも元明天皇の頃、712年です。
平城京は唐の長安を手本としていて、碁盤の目のように設計されていますが、東の方、左京よりさらに東に外京(げきょう)というでっぱりがあるのが特徴です。
外京の東に大仏で有名な東大寺がありますが、平城遷都時は当然ながらまだありません。
「左右逆じゃない?」
と思うかもしれませんが、天皇がいる平城宮、大極殿(だいごくでん)から見て左右なのでこれでいいんです。
藤原不比等の時代
この奈良時代初期に大きな権力を持っていたのが藤原不比等(ふじわらのふひと)です。
大宝律令(710年)や養老律令(718年)の編纂で中心となったのは藤原不比等です。
また和同開珎を作った直後、蓄銭叙位令という法令も作っています。
これは、せっかく作った和同開珎に興味を持つ人が少なかったからです。
「は? 何その銅のカケラ、米とか布のほうがいいに決まってるじゃん」
というのが当時の人の考え方です。
それで蓄銭叙位令を出して、お金を蓄えた者に位階を授けることにしました。簡単に言えば貯金すれば出世できるというすごい法律です。
「貯金して、アナタも貴族に♪」
という感じでしょうか。そこまでしても銅銭は大して流通しなかったので、平安時代はじめには蓄銭叙位令は廃止されています。
不比等は藤原氏ですので、生まれた頃から出世が約束されていたのかと言うとそうでもないようです。
天武天皇が即位した後、天智天皇とつながりのあった中臣氏=藤原氏は朝廷の要職から排除されてしまったからです。
だから不比等は、下級の役人から出発して実力で成り上がったというわけです。
さて。
藤原不比等が亡くなった後は、皇族の長屋王(ながやおう)が実権を握ります。
長屋王と百万町歩開墾計画
長屋王の時代には百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)が実行されます。
簡単に言うと「どんどん開墾を進めましょう! いっぱい開墾した人にはご褒美をあげるよ」というものです。
人口が増えてきて口分田が不足する一方で、負担に耐えかねて口分田を捨ててしまう人が増え、荒れ果ててしまう土地が増えたからです。
そうなると、朝廷の税収も減ってしまうので、「もっと開墾しよう!」ということになりました。
ちなみに1町(町歩)というのは約1ヘクタール、100メートル×100メートルです。
なので
100万町歩=100万ヘクタール=1万平方キロメートル
くらいです。だいたい青森県くらいの広さです。奈良時代初期の技術で、青森県くらいの広さを開墾しようという計画なので、「ちょっと無理があったんじゃない?」と考えられています。
すぐ次の年に、
723年 三世一身の法
が行われています。時期的に開墾計画の一環でしょう。
これは、開墾した土地は3世代に限り私有してよろしいというものです。ただ、せっかく開墾しても3世代たつと国に取られるということでうまくいきませんでした。
藤原四子と光明子
長屋王はこの後、藤原四子を中心とする勢力に、家族ともども自殺に追い込まれるというひどい目に遭います。
聖武天皇の子がこの前年に亡くなっているわけですが、これを「長屋王が呪い殺した」という滅茶苦茶な理由で藤原四子の一人、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が率いる朝廷の軍に包囲され、家族ともども自殺させられます。
平安時代はじめ朝廷で編纂された「続日本紀(しょくにほんぎ)」には「誣告(ぶこく)=偽りの訴え」だったと書かれているので、朝廷内でも「陰謀によって殺された」と認識されていたようです。
長屋王を亡き者にした後、藤原四子が実権を握り、妹である光明子を、皇族以外で初めての皇后にすることに成功します。
ちなみに四兄弟とは以下の通り。
- 藤原武智麻呂(むちまろ)…南家
- 藤原房前(ふささき)…北家
- 藤原宇合(うまかい)…式家
- 藤原麻呂(まろ)…京家
4人は「藤原四家(しけ)」の開祖となります。「むふウマ!」の順で南北式京です。
ところがこの時代、天然痘が流行し、藤原四兄弟は四人とも天然痘で亡くなってしまいます。当時の人は「長屋王の祟りだ」と恐れたそうです。
※ちなみに、昭和の終わりに長屋王の家の跡が発掘されましたが、上にイトーヨーカドーができて埋められちゃったようです。そんなことして大丈夫なんでしょうか。
橘諸兄と吉備真備・玄昉
このあと、皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)が実権を握ります。橘諸兄は、唐に留学した経験のある吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)を相談役とし、聖武天皇を補佐して政治を行います。
聖武天皇←橘諸兄←吉備真備・玄昉
飛鳥時代にも似たような人がいましたね。大化の改新の頃。
中大兄皇子←高向玄理(たかむこのげんり)・旻(みん)
国博士になって中大兄皇子の政治を助けた二人も、遣隋使の時に隋に留学して、隋と唐で学んできたのでした。
よくゴッチャになるので注意。^^;
橘諸兄が力を持つと、藤原宇合の子である藤原広嗣(ひろつぐ)が反乱を起こしましたが、これは鎮圧されました。
二人の女性に支えられた藤原仲麻呂
しかし、聖武天皇が退位(生前譲位)して、孝謙天皇の時代になると、藤原武智麻呂の子である藤原仲麻呂の力が次第に強くなります。
仲麻呂は、叔母の光明皇太后の信任が厚かく、かつ孝謙天皇とはイトコで仲が良かったそうです。それでどんどん出世して、橘諸兄を凌ぐようになっていきます。
ちなみに皇太后というのは、前皇后のことです。聖武天皇が退位したので、光明皇后も皇太后となります。
結局橘諸兄は謀反の疑いをかけられ、自ら職を辞することになります。
辞めてまもなく橘諸兄は亡くなってしまいます。それで父の無念を晴らすためか、橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を倒そうとしますが、計画が漏れて投獄され、そのまま亡くなりました。
橘奈良麻呂の乱(757年)と言いますが、関係者が400人以上も捕らえられ、処罰されました。藤原仲麻呂はこれによって徹底的に自分の敵を排除できたわけです。
結果的に、橘奈良麻呂の乱によっていちばん得をしたのは藤原仲麻呂、ということになります。
この後、藤原仲麻呂は淳仁(じゅんにん)天皇を擁立し、皇族以外で初めての太政大臣(太師)にもなって絶好調です。
なぜ「太師(たいし)」かというと、仲麻呂さんが中国かぶれ(笑)で、何でもかんでも唐風の名前にしたかったからです。今でいうとやたらと横文字を使いたがる偉い人みたいなものです。(笑)
恵美押勝(えみのおしかつ)という縁起のいい名前に変えたりもします。エミちゃんになったわけです。
もう絶好調、無敵! だと思っていたところ・・・思いもしなかったところから敵が現れます。
孝謙上皇の怒りを買う
孝謙上皇は病気になってしまったんですが、それを看病して治してくれたのが道鏡というお坊さんなんです。
で、孝謙上皇はこの道鏡のことが大好きになってしまいました。もう、ただならぬ関係です。
それを見た藤原仲麻呂は、淳仁天皇に頼んで注意してもらったそうです。
「言いにくいことだけど…上皇がお坊さんとイチャイチャしてるとみっともないですよ?」
「人の人間関係に口出ししてるんじゃないわよ! 道鏡がどんなすごい人か知らないくせに!」
という感じでしょうか。いやもちろん、こんな汚い言葉は使わなかったでしょうけど。
とにかく孝謙上皇は激怒! これがきっかけになって
淳仁天皇&仲麻呂 VS 孝謙上皇&道鏡
の対立が激化してしまいます。
この対立は孝謙上皇と道鏡の勝利となります。
そもそも仲麻呂は、光明皇太后と孝謙天皇という女性二人の強力な後ろ盾があって出世できたわけですから、光明皇太后亡きあと、もう一人の孝謙上皇と対立してしまっては分が悪いというものでしょう。
事態を打開するために仲麻呂は武力による政権奪回を企てます。軍事力なら自分のほうが断然上だという自信があったのです。764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱です。
でもここでまた、意外な人が仲麻呂の敵として出てきます。吉備真備です。吉備真備から見ると仲麻呂は「親分(橘諸兄)の敵!」ですからね。
勇者、吉備真備(ただしおじいちゃん)
この吉備真備さん、唐で兵法を勉強しています。それで「日本の兵法の祖」と言われています。また、陰陽道も勉強しています。それで「日本の陰陽道の祖」と言われることもあります。
つまり、戦術にも長けているし、怪しげな術も操るのです。すでに70歳だけど。まさに勇者ジョブです。すでに70歳だけど。
その吉備真備が軍の指揮をすることになります。仲麻呂もえらい人を敵に回したものです。
ということで当初、軍事的には優勢だった仲麻呂は敗北し、命を落とすこととなります。
淳仁天皇は淡路島に流され、変わって孝謙上皇が重祚して称徳天皇となります。
称徳天皇と道鏡
この後、道鏡は称徳天皇の力で太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)、法王と出世していきます。
もちろん称徳天皇は仏教も重視しました。乱で戦死した人々の霊を弔い、また平和の祈りも込めて百万塔陀羅尼なども造らせています。
塔と言っても高さ20センチ位の小さいものです。
それに陀羅尼(だらに)を納めます。陀羅尼というのは、サンスクリット語の発音を漢字で再現したお経です。だから不思議な呪文っぽい発音となります。
で、この百万塔陀羅尼、何がすごいのかと言うと
「現存する世界最古の印刷物」
なんです。そりゃね、100万枚もお経を手書きしてたら倒れちゃいそうですよね。だから木版や銅版で印刷しました。
ということで、話を政治に戻しましょう。
宇佐八幡宮神託事件
道鏡はこの後、天皇になろうとします。
ひょっとしたら、道鏡さんはそんな畏れ多いことは考えていなかったけど、子がいなかった称徳天皇に頼まれてそれに従ったのかもしれませんが・・・
とにかく天皇になろうとして、「宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にせよ』という神託があったから確認してきて」ということで和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡宮に向かいます。今の大分県宇佐市、宇佐神宮です。
で、計画通りなら清麻呂さんが「そのとおりの神託がありました!」という情報を持ち帰るはずでしたがなんと、清麻呂さんは称徳天皇と道鏡を裏切って、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」
という神託を持ち帰りました。「天皇は必ず皇族が継ぐべきで、道に背く者=道鏡は排除しなさい」ということです。
これを、身長9メートル(!)の神様が現れて仰ったということを朝廷に報告します。
称徳天皇はこれを聞いて怒り、和気清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国(鹿児島県)に流します。
「きたなまろ」って・・・^^; 実は称徳天皇は、自分に逆らった者に悪い名前をつけて罰とすることが多かったのだとか。
道鏡も結局、皇位を狙った罪ということで下野(栃木県)に左遷されます。ただ、罪人という感じではなく、立派なお寺で余生を過ごしたのだとか。
称徳天皇は
「次の天皇は私が決める」
と発表して、この事件は終わりにしました。
直後に称徳天皇は病気で崩御します。計画に失敗し、道鏡と離ればなれになったのがよほどショックだったのかもしれませんね。
藤原百川、天皇を天智系に戻す
その後は藤原百川(ももかわ)らの働きで、天智系の光仁(こうにん)天皇が即位します。
天武天皇以来続いていた天武系の天皇から、藤原氏と縁の深い天智系の天皇に戻ったというわけです。これが次の平安時代、藤原氏の時代につながっていきます。
この後も有力者どうしの争いや陰謀が繰り返されますが、光仁天皇は当時としては超高齢な70歳を超えるまで天皇としての務めを果たし続けます。
この後に即位するのが桓武天皇です。桓武天皇が乱れた平城京を去り、奈良時代は幕を閉じます。
聖武天皇は大変だった!
そうそう。
大事な方を忘れていました。
聖武天皇です。
いや忘れてたんじゃありません。大事だから大トリにとっておいたのです。(言い訳)
聖武天皇は、長屋王の時代から橘諸兄の時代までの天皇です。
ふなっしーもえ、どーもくんカンベン
でしたね。え? 何のことかって?
不比等→長屋王→四子→諸兄→恵美→道鏡→百川→桓武天皇
です。この、長屋王から橘諸兄あたりまでが聖武天皇。はっきり言って大変な時代。
どれくらい大変かと言うと・・・
聖武天皇が即位した724年、いきなり奥州で反乱が起きます。
それから、皇太子が亡くなります。これ関して長屋王が濡れ衣を着せられたんでしたね。
そしてなんと、皇太子が亡くなった直後、隕石が宮中に落ちたという記録もあります。メテオストライクです。もう、踏んだり蹴ったりです。
その数年後には大旱魃に襲われて、多くの人が飢えます。
それから近畿地方を大地震が襲い、天然痘まで流行してしまいます。
そんな中でも有力者同士の争いは絶えません。
そりゃあ聖武天皇じゃなくても、仏様に頼りたくなるでしょう・・・
鎮護国家思想
ということで聖武天皇は「仏教の力で国を平和にしたい」と考えます。これを鎮護国家の思想と言います。
それで、741年には国分寺造立の詔を出します。国ごとに国分寺、国分尼寺を造りなさいという内容です。国分寺って地名でも残ってますね。
それから743年に大仏建立の詔を発します。墾田永年私財法と同じ年です。橘諸兄が力を持っていた頃。
743年 大仏建立の詔、墾田永年私財法「なじみのダイコン」
大仏の「ダイ」と、墾田の「コン」です。
ちなみに大仏は正式には盧舎那仏(るしゃなぶつ)または毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言います。サンスクリットの「ヴァイローチャナ」を漢字で表した名前です。
国分寺を造るにしても大仏を造るにしても、多くの人民の協力が必要ですので、貧しい人の救済などで民衆の圧倒的支持を得ていた行基(ぎょうき)という僧侶の協力を得ます。
実は、当時の仏教は朝廷のためのもので、民衆への布教は禁じられていたので、最初朝廷は行基を罪人扱いしていたんです。
行基ファン、1万人集合
それに、多いときには1万人もの人が集まって行基の話を聞いたというくらいなので、朝廷としても「あんなに人集めて、暴動とか起こすんじゃない?」と疑っていました。
でも行基はそんなことはしないし、民衆のために用水路を造ったりなんてこともしていましたので、開墾を進めたい朝廷としても「意外といいやつかも」ということになり、和解していきました。
それで、国分寺や大仏を造るために、どうしても協力してもらう必要ができたので、聖武天皇自ら直接行基に会うまでになりました。
最終的には行基は朝廷から日本初の大僧正(だいそうじょう)の位をもらい、死んだ後は「菩薩」の諡号(しごう)までもらいました。
ということで752年に大仏は完成したのですが・・・世の中が平和にならなかったのはご存知のとおりです。
公地公民崩壊
あと聖武天皇の時代で大事なのは、墾田永年私財法ですね。
これは、開墾した田は永久に私有できるという法令です。3代なんてケチなことは言わず、何代でも私有してOKということ。
これによって公地公民は早くも崩れ、私有地が増えていくことになります。これによって増えていく有力者の私有地を荘園(しょうえん)と呼びます。
遷都を繰り返す…引っ越し魔?
それから聖武天皇は遷都を繰り返したことで有名です。
平城京を出て、
恭仁京(くにきょう、京都府南部)
→難波宮(なにわのみや、大阪市)
→紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県甲賀市)
そしてまた平城京に帰ってきています。
なぜこんなに遷都したのかは不明ですが、悪いことばかり起きれば他のところに引越したくなる気持ちはわかります。
順番に「くになし」とでもおぼえておきます。
天平文化
最後に奈良時代の文化です。
奈良時代の文化といえば天平文化。「てんぴら」じゃありません「てんぴょう」です。聖武天皇の時代の元号からそう名付けられました。
仏教関連
もちろん、仏教中心の文化です。
この時代には南都七大寺が揃います。
- 東大寺
- 興福寺
- 元興寺(がんごうじ)
- 大安寺(だいあんじ)
- 西大寺(さいだいじ)
- 薬師寺
- 法隆寺
この7つ。法隆寺だけ平城京ではないので、代わりに鑑真の唐招提寺を入れることもあります。
覚え方は「たいほうとうさい!がっこうやく!」です。大砲を搭載しています。(笑)「大、法、東、西、元、興、薬」の順です。
そしてその奈良で、「南都六宗」が成立します。
- 三論宗(さんろんしゅう)
- 成実宗(じょうじつしゅう)
- 法相宗(ほっそうしゅう)
- 倶舎宗(くしゃしゅう)
- 華厳宗(けごんしゅう)
- 律宗(りっしゅう)
この6つ。覚え方は「サジとクリでホッケー」です。現在の宗派とは違い「学派」のような感じです。
このうち律宗は、鑑真(がんじん)という唐の僧侶が日本に伝えたものです。日本への渡航を5回も失敗したのに諦めず、失明までして日本に来てくれた人です。
律宗は戒律を研究するものですが、鑑真が律宗を伝えるまでは日本人は戒律について正確には理解していなかったと言われます。
鑑真によって、やっと完全な戒律を知ることができたというわけです。そして鑑真が日本で建立したお寺が唐招提寺(とうしょうだいじ)です。
東大寺と言うと大仏以外に正倉院(しょうそういん)が有名ですね。校倉造(あぜくらづくり)と言って、三角柱の木材を組み合わせて壁を作っていることで有名です。
これ、湿度調節に役立つと言われていましたが、実際調べてみると関係なかったそうです。^^;
写真では唐招提寺と間違えそうですが、正倉院は高床式なのでお間違えなく。
正倉院の中には、聖武天皇や光明皇后に関係のある品が収められています。鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)などが有名です。これ、本当に羽毛で飾られていた絵なんです。
歴史書、文芸
次に文芸関連。
- 古事記
- 日本書紀
- 風土記(ふどき)
- 万葉集
- 懐風藻 (かいふうそう)
この5つが有名です。
古事記と日本書紀は、神話+伝説+歴史書です。古事記は神代から推古天皇まで、日本書紀は神代から持統天皇までの歴史を記しています。
日本の歴史と文化を見直し、確認し、記録するために作られました。
古事記は稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していたものを太安万侶(おおのやすまろ)が文章化したものです。
日本書紀は正確な漢文で書かれ、外国向けに作られたと言われています。それに対して古事記は秘密性が高かったと言われています。
ちなみに古事記と日本書紀は「き」の漢字が違いますので注意。
風土記は各地の歴史や地理を記録したもので、完全なものは出雲国風土記しか残っていません。
万葉集は歌集ですが、後の古今和歌集などと違って、天皇、貴族から農民、防人まで、様々な身分の人の歌が収められているのが特徴です。
山上憶良(やまのうえのおくら)の貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)も万葉集に収められていますが、山上憶良さんは別に貧乏じゃありません。^^; 貴族です。
懐風藻は日本最古の漢詩集です。
この時代、奈良には大学寮も作られ、貴族の子弟が通いました。奈良時代にはすでに大学生が存在したというわけです。
大学で教えた科目は明経道(みょうぎょうどう、儒学)、明法道(みょうぼうどう、律令)、算道(算術)などがありました。