今回は江戸幕府が滅ぶ19世紀のお話。いわゆる幕末。
ということで最初に今回のまとめです。
- 【11代徳川家斉】
- 征夷大将軍在位期間最長
- 関東取締出役&寄場組合設置
- 老中水野忠成…賄賂の公認・推奨
- 天保の飢饉→大塩平八郎の乱
- ロシア船…ラクスマン(根室へ)、レザノフ(長崎へ)
- フェートン号事件→異国船打払令→モリソン号事件→蛮社の獄
- シーボルト事件
- 化政文化…十返舎一九、滝沢馬琴、小林一茶、葛飾北斎、歌川広重
- 国学(本居宣長)、蘭学(杉田玄白「解体新書」)
- 【老中水野忠邦】…天保の改革
- 倹約令、風俗取締令
- 株仲間解散
- 人返しの法
- 上知令
- 天保の薪水給与令
- 【開国】
- 1853年 ペリー、浦賀へ
- 1854年 日米和親条約→オランダ、イギリス、ロシアとも
- 下田と箱館を開港→下田に領事ハリス着任
- 1858年 日米修好通商条約(安政の五カ国条約)…井伊直弼
- 箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫開港
- 外国人に治外法権を認め、日本に関税自主権なし=不平等条約
- 井伊直弼…反対派を処罰=安政の大獄→桜田門外の変
- 【公武合体】
- 和宮と徳川家茂が結婚→老中安藤信正、坂下門外の変で失脚
- 島津久光→幕府へ進言→文久の改革
- 一橋慶喜(将軍後見職)、松平慶永(政事総裁職)、松平容保(京都守護職)
- 【倒幕】
- 生麦事件→薩英戦争
- 四国艦隊下関砲撃事件
- 八月十八日の政変→禁門の変…京都から長州勢力排除
- 第一次長州征伐→長州恭順→高杉晋作クーデター
- 薩長同盟←坂本龍馬
- 第二次長州征伐→幕府実質敗北
- 1867年 15代徳川慶喜→大政奉還
- 薩長→王政復古の大号令
徳川家斉の大御所政治
19世紀最初の主人公は11代将軍徳川家斉です。
家斉さんって、徳川将軍としてあんまり名前が出てこない方だと思いますけど、実は50年も将軍やっていて、江戸幕府だけでなく全征夷大将軍中最長記録です。^^
将軍になったのが1787年で、松平定信が老中になる年ですが、家斉はまだ満14歳ですので権力を振るう、というわけにはいきません。
のびのびと(笑)振る舞い始めるのは19世紀に入ってからです。
とりあえず、貧しい人が増えて治安が悪くなっていたということで関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を設置します。ただまあ関東を見回るだけなんですけどね。「八州廻り」とも呼ばれました。
また農村に寄場組合(よせばくみあい)を作らせて、関東取締出役の補助組織としました。
関東取締出役としてけっこう好き勝手やった人もいて、反感を持つ人が増えてしまったようです。^^;
老中水野忠成
徳川家斉は1818年に水野忠成(ただなり)を老中に任命しますが、この人がすごい人で、なんと贈収賄を公認・奨励します。^^;
「賄賂オッケー! どんどん渡して!」
というわけ。
今の感覚からすると、政府の偉い人が賄賂を推奨するとか考えられないことですが、当時はそれが行われました。
一方で水野忠成は、貨幣改鋳を何度も行って、貨幣の質を落とします。そうすることでお金をたくさん作って幕府の財政再建を狙ったわけですが、結果的に金融緩和と同じ効果が得られ、景気は良くなります。
また徳川家斉も派手で贅沢な暮らしを好んだようなので、松平定信時代とは打って変わって、少なくとも都市部には明るい雰囲気が戻ってきます。
天保の飢饉
ただ、貨幣の質が下がれば物価は上がってしまいますので、貨幣を手に入れる手段の少ない農村にしわ寄せが来ます。
一部の農民は好景気を活かして豪農化するわけですが、多くの農民はそんなにお金儲けが上手いわけじゃないから、物価上昇のデメリットのみを食らってしまいます。
ということで貧しい農民が増えます。
そんな中、天保の飢饉が起こってしまいます。
また事もあろうに、幕府の役人が反乱を起こしてしまいます。大塩平八郎の乱です。
ロシア船の接近
徳川家斉の時代、外国船の接近も増えてきました。
まず、1792年にラクスマンが根室に来航します。
「いい国作ろう(頼朝→将軍)」からちょうど600年、「いざ国作ろう(南北朝合一)」からちょうど400年ですね。
漂流してロシアに保護されていた大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を連れ、通商を求めてきました。
大黒屋光太夫って、井上靖さんの「おろしや国酔夢譚」で有名な人です。^^
史上初めてロシア人が幕府に接触してきたわけですが、松平定信は「通商したいなら長崎へ行ってくれ」と要求し、ラクスマンは結局長崎へはたどり着けず、ロシアに帰りました。
約束通り1804年、今度は長崎へ、ロシア人使節レザノフが来航します。今度はロシア皇帝の親書を携え、正式な国交を開くためにやってきます。
しかし折悪しく松平定信が失脚したあとで話し合いはスムーズに進まず、長崎の出島に半年も留め置かれた挙げ句、「鎖国中だから国交は開けない」ということで帰されてしまいました。
イギリス船、やりたい放題=フェートン号事件
次は1808年、今度はイギリス船フェートン号がやってきます。
フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎へ入港、それに騙されたオランダ商館員2人を拉致します。ひどいです。
さらに、食料・水・燃料の補給を要求してきます。補給してくれないなら港にある船を全て焼き払うという脅しつき。ひどいです。
とても「紳士の国」の所業とは思えません。先日のロシアのほうがよっぽど紳士的です。
しかし長崎奉行は、オランダ商館長などの話から「戦った場合の被害は甚大となる」と判断し、やむを得ず要求をのみます。悠然と去っていくフェートン号を見送るのみ。
この後、長崎奉行は自分の国を辱めてしまったということで自ら切腹してしまいます。ホントひどい話です。
これよりかなりあとになりますが、幕府は、1825年に異国船打払令を発します。「外国船を見たら問答無用で大砲ぶっ放して追い返せ!」というわけです。
モリソン号事件
この被害にあったのがイギリス船ではなく、アメリカ船です。
大塩平八郎の乱があった1837年、アメリカ船のモリソン号が日本人漂流民7人を連れてやってきます。このモリソン号に対して日本側は問答無用で砲撃、追い払ってしまいます。
モリソン号は非武装の船だったのですが、イギリス船と間違えられたようです。漂流民を助けてくれたのに!
恨むならイギリスを恨んで。^^;
「流石にこれはひどいんじゃない?」と幕府を批判した高野長英(たかのちょうえい)と渡辺崋山(わたなべかざん)は処罰されました。1839年の蛮社の獄です。
シーボルト事件
高野長英といいますと、シーボルトにも触れなくてはならないでしょう。
シーボルトはドイツ人なんですがオランダ商館の医師として日本にやってきていました。まあオランダ人かドイツ人かなんて、ちょっと見ただけじゃわからないし。^^;
オランダ語の発音がおかしくて怪しまれたようですが、「オランダでも田舎の方なので訛ってるんですよ、ハハハハ」で切り抜けたようです。
シーボルトさんは長崎に鳴滝塾を作ります。蘭学の講義をするわけですが、そこで学んだ一人が高野長英です。
しかしこのシーボルトさん、帰国の際に日本地図を持ち出そうとしたことが幕府に知られ、国外追放となっています。シーボルト事件(1828年)です。まあ帰国しようとしていて日本から追放されても、そんなに痛くはないよね。
よほど日本が好きだったのか、日蘭修好通商条約が結ばれる30年後にまた日本に来ています。
化政文化
徳川家斉の時代と言えば、文化が発展した時代でもあります。やはり都市部は景気が良かったのですね。
家斉の時代を中心とする文化を、文化・文政の元号から化政文化と呼びます。江戸時代最後のはなやかな文化かもしれません。
上方中心の元禄文化に対して、化政文化は江戸中心の町人文化となっています。
この時代、いろいろな文芸作品が書かれます。
- 洒落本(しゃれぼん)…遊里が舞台
- 黄表紙(きびょうし)…いわゆる成人向け
- 人情本…恋愛小説
- 滑稽本…お笑い
- 読本(よみほん)…勧善懲悪もの
特に滑稽本で十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)、読本で滝沢馬琴(たきざわばきん)の南総里見八犬伝が有名です。
洒落本・黄表紙・人情本は、松平定信や水野忠邦など「おかたい」人が実権を握ると取り締まられたりします。^^;
俳諧では小林一茶が有名です。「いっちゃ」ではなく「いっさ」です。
俳句に似ているものとして川柳、短歌に似ているものとして狂歌も流行ります。川柳は575、狂歌は57577で作るのですが、皮肉や風刺、洒落、パロディーなどで面白みを追求するものです。
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
これも狂歌ですね。「白河=松平定信厳しすぎるよ~、田沼意次さんのほうが良かったよ~」と遠回しに言っています。
泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず
ずっとあとの黒船来航のことを詠んだものですが、これも狂歌。「上喜撰=蒸気船」「四杯=四隻」ですね。
次に、絵画では浮世絵が多色刷りの「錦絵」となって多くの人に親しまれるようになります。
役者絵の東洲斎写楽、富嶽三十六景の葛飾北斎、東海道五十三次の歌川広重(安藤広重)などが有名です。
浮世絵はヨーロッパの画家にも衝撃を与え、例えば歌川広重その他の絵を、フィンセント・ファン・ゴッホはいくつか模写しています。
浮世絵以外では、写生画で円山応挙(まるやまおうきょ)、文人や学者が描いた文人画では池大雅や与謝蕪村、渡辺崋山などが有名です。
国学、蘭学
多くの人が困っている時代、ということで学問も発達します。
これまでの朱子学に加え、国学と蘭学が大きく発展してきます。
国学
国学は日本古来の精神・文化を知るために万葉集や古事記、源氏物語などの古典を研究します。
元禄文化の頃の契沖(けいちゅう)、荷田春満(かだのあずままろ)それから賀茂真淵(かものまぶち)を経て本居宣長(もとおりのりなが)で大成します。
この本居宣長さん、27歳の時、古事記を書店で購入して、そこから古事記の研究を志すことになります。そしてそれが古事記伝として完成するのが69歳の頃です。
40年以上好きなものを研究していたわけですから、生活には余裕があったんですねぇ。
和学講談所で国学の先生をしていた塙保己一(はなわほきいち)は目が見えないというハンデがあったのですが、古代から江戸初期に至るまでの古書を集めまくった「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を完成させています。
蘭学
蘭学というのはオランダ語を通じて西洋の学問を研究するということでそう呼ばれます。和蘭陀(オランダ)の「蘭」です。
徳川吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことから蘭学は発達しました。青木昆陽はさつまいも研究だけでなく、「和蘭和訳」というオランダ語の教科書を作りました。
杉田玄白と前野良沢がターヘルアナトミアを翻訳した解体新書が有名です。
蘭学塾としては福沢諭吉も学んだ緒方洪庵の適塾や、前述したシーボルトの鳴滝塾が有名です。
幕府も今どき朱子学だけじゃ時代に取り残されるということで、蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)という役所を作り、オランダ語の文書の翻訳をさせています。
江戸時代には珍しい思想
化政時代より前の江戸中期の人になりますが安藤昌益(あんどうしょうえき)は江戸時代にあって異彩を放っています。
農業中心の無階級社会を「自然真営道(じねんしんえいどう)」で描いています。この時代の日本で共産主義のようなことを説いていたわけです。
ということで国内政治の話に戻りましょう。
水野忠邦の天保の改革
徳川家斉の晩年、天保の飢饉が起こり、大坂でとうとう幕府の役人が反乱を起こしてしまったということでしたね。
1837年 大塩平八郎の乱「ひとはみな大塩とともに」
島原の乱からちょうど200年後というのも皮肉な話ですが、4ヶ月粘った島原の乱に対し、大塩平八郎の乱は事前の裏切りもあり、1日で鎮圧されてしまいました。
大塩平八郎の乱だけでなく、天保の飢饉の時期の一揆は、天明の飢饉のころを件数で上回ってしまいました。
大塩の影響を受けた人もいて、越後では生田万(いくたよろず)が大塩の門弟を自称して代官所を襲っています。
ということで、11代徳川家斉が亡くなると、老中水野忠邦によって天保の改革(てんぽうのかいかく)が始められます。
水野忠邦の手本は享保の改革と寛政の改革ですので、天保の改革の内容も緊縮財政で厳しいものとなっています。
倹約令だけでなく、風俗取締令を出して「風紀を乱す」と判断されたものを取り締まります。
為永春水(ためながしゅんすい)の「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」や柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は絶版となりました。
また、株仲間を解散させました。物価高騰は株仲間の独占が原因だと判断したんですね。でも流通が滞ることで物品が不足し、物価をさらに上げてしまいました。
人返しの法も発令します。これは寛政の改革の旧里帰農令に似ていますが、違うのは旧里帰農令は「推奨」、それに対して人返しの法は「強制」であったこと。
ここまででも、政策を「アメとムチ」に分けるとすれば十分ムチばっかりなのですが^^;、さらに強硬な政策を打ち出します。
それが上知令(上地令、じょうちれい)です。
これは、江戸、大阪周辺の譜代大名や旗本の領地を幕府直轄領に組み込み、譜代大名や旗本には代わりの土地を与える、というもの。
これは大反対が起きて当然ですよね。便利な土地を奪われて辺鄙な土地をもらっても嬉しくもなんともないし。
ということで幕府の有力者まで敵に回してしまって、水野忠邦は2年ほどで失脚となりました。
雄藩の改革
幕府の失敗を尻目に、改革を成功させる藩も現れます。後に「雄藩」と呼ばれるようになる存在です。
薩摩藩
薩摩藩は莫大な借金を抱えていましたが、調所広郷(ずしょひろさと)がこの借金を棚上げにしてしまいます。具体的には「ちゃんと250年で返済するから!無利子にするけど!」ということにしてしまいます。なんか滅茶苦茶ですが。^^;
それから黒砂糖の専売や、琉球を利用した密貿易も行います。密貿易が幕府の知るところになると、調所広郷は罪をすべてかぶって自害します。
その後薩摩は、島津斉彬(なりあきら)が製鉄のための反射炉や紡績工場を集めた集成館(しゅうせいかん)を造ったりして力を蓄えます。
長州藩
後に薩摩と同盟を組む長州も事情は似ています。
長州では村田清風(せいふう)が借金を整理。こちらは37年払いなので薩摩よりはまだ良心的です。(笑)
紙や蝋の専売を進め、下関に越荷方(こしにがた)を置いて、関門海峡を通る船と取引し、莫大な利益を得ます。
こうして力を蓄えた雄藩が倒幕へ向かっていきます。
開国
外国からのアプローチも加速していきます。
蝦夷地探検
ロシアから、ラクスマン、レザノフと続けて使者が訪れたので、幕府も北方に危機を感じ、北海道の調査に乗り出します。千島列島には近藤重蔵、樺太には間宮林蔵が探検に向かいました。
樺太が島であることを確かめたのは間宮林蔵です。それで樺太と大陸の間は「間宮海峡」という名前になっています。
近藤重蔵は最上徳内とともに択捉島を探検し「大日本恵登呂府」の標柱を建てて択捉島が日本の領土であることを確認しています。
掌返し、天保の薪水給与令
イギリス船フェートン号の横暴のあと、異国船打払令を出してアメリカ船モリソン号にそれを実行したわけですが、アヘン戦争の結果を聞いて方針を改めます。
アヘン戦争も、イギリスの横暴ここに極まれりというようなすごい戦争なのですが、幕府からすると、強いと思っていた清がイギリスにあっさり負けてしまってビックリ。
「うわ、イギリスってあんなにやばいやつらだったのか・・・」
ということで異国船打払令はやめて、手のひらを返すように天保の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出します。
外国船が来たら、燃料や水を補給して帰っていただこうというものです。天保の改革の最中でした。
ペリー、浦賀に来航
こうした中やってきたのがアメリカ、そうペリーです。
今度はモリソン号とは違い、大砲搭載の軍艦4隻、しかも最先端の蒸気船です。力の差をこれでもかと見せつける気満々です。
江戸湾の入り口、浦賀にやってきます。
1853年 ペリー、浦賀に来航「いっぱつこうさんペリー来航」
ペリーは開国を要求してきますが、幕府はここで1年間の猶予をもらいます。でも結局次の年にはアメリカとの間で日米和親条約を結んでしまいます。鎖国終了です。
それを見た他の国々も同様の条約を要求してきますので、「鎖国してるから!」という断る理由を失った幕府は次々と同じ内容の条約を結びます。
結局、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシアと結びます。まとめてアオイロと覚えます。
内容としては、当時アメリカは北太平洋で捕鯨していたこともあり、また太平洋航路を行き来する貿易船の必要もあって、日本の下田・箱館の2港を開港し、水や燃料、食料を補給してもらう、それから遭難者は保護してもらうというもの。
貿易に関する定めはありませんでした。
日米和親条約に基づいて、下田に着任した総領事ハリスはさらに話を進め、貿易のための条約を結ぶよう要求してきます。
うーん、ペリーさんよりインパクト大ですね。おひげが・・・。
老中の堀田正睦(ほったまさよし)は重大な決定の全責任を幕府だけで負うのは嫌だと考えたのか、「天皇の勅許(ちょっきょ)を得て、世論を納得させることができたら条約を結ぼう」と考え、朝廷に打診します。
それまで何でも幕府が独断で決めてきたものを、朝廷にお伺いを立てたわけですから、幕府自ら朝廷の権威を高め、逆に幕府が弱っているところを見せたことになります。
ところがそのときの孝明天皇は攘夷派の筆頭と言ってもいい存在ですし、岩倉具視など攘夷派の公家も多数いて、勅許は下りませんでした。
攘夷(じょうい)というのは「外国の勢力を力ずくでも日本から追い払え!」という考え方です。
日米修好通商条約
一方ハリスはハリスで、
「早く結ばないと、イギリスがやってきて、清みたいな目にあわされるよ、あいつらやること滅茶苦茶だからね、先にアメリカと条約結んでおくべきだよ」
などと脅かしてきます。
そんな中、大老に就任したのが井伊直弼(いいなおすけ)です。でも、井伊直弼にしても勅許は必要だと考えていて、あくまで勅許を得ようとしますが、幕府内ではハリスの言葉の影響もあったのか、「即締結!」が多数派となります。
そして結局、それに押し切られる形で条約を結ぶことになります。
1858年 日米修好通商条約「いやこわくない、いい(井伊)人よ」
同内容の条約を、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシアと結んだので安政の五カ国条約と呼びます。アオイフロと覚えます。オイアフロでもいいです。
「不平等」の内容
この条約は「不平等条約」として有名なものです。その改正にこれから50年以上かかります。
不平等な内容というのは、
- 外国に治外法権(領事裁判権)を認める
- 日本に関税自主権がない
この二つ。
外国に領事裁判権を認めたので、たとえ外国人が日本で犯罪を犯しても、日本側で裁判できないということになりました。
日本に関税自主権がないので、輸入品に対して、日本は自由に関税をかけることができなくなりました。
安政の大獄→桜田門外の変
ただでさえ、勅許を得なかったこととか条約内容が不平等なことで反対派がうるさかったわけですが、タイミングの悪いことに、将軍継嗣問題も重なってしまいます。
井伊直弼ら南紀派は14代将軍として徳川慶福(家茂)
を推し、
島津斉彬・松平慶永ら一橋派は一橋慶喜(徳川慶喜)
を推しました。
ここで井伊直弼は強引に徳川家茂(いえもち)を14代将軍としたので、井伊直弼への反発はさらに強まりました。
そこで井伊直弼は、反対派を処罰して一掃しようとします。1858年~59年の安政の大獄です。あの松下村塾の吉田松陰もここで死刑となります。
こんなことをしては恨まれても不思議はないです。
1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門外で襲われ、死ぬことになります(桜田門外の変)。3月3日、ひな祭りの日です。
犯人は水戸脱藩浪士ですが、前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)、現水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)が謹慎処分となっていますので、
「譜代大名の井伊ごときが、徳川家の我らが主君を罰するとは何事か!」
とブチ切れたのかもしれません。
貿易→イギリスと横浜で
ちなみにこの年、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)がアメリカに送られます。
随行船の咸臨丸に勝海舟や福沢諭吉が乗っていましたが、こっちのほうが有名ですね。
という頃で貿易スタート。
いちばんの貿易相手国はアメリカかと思いきやイギリスになります。アメリカは南北戦争でアメリカ人同士戦い始めますので貿易どころではなくなりました。
貿易港は、当時寂れた漁村だった横浜になります。
いや、条約では、下田は閉じて、箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港するという約束だったんですよ。
横浜って入ってないんですよ。
でも、神奈川は宿場町で人口が多かったから、こんなところに外国人が来たら揉め事が増えるかも・・・と幕府は思いまして、ちょっとだけ位置をずらして、当時は人の少なかった横浜を貿易港としたんです。
ちょっとくらいずらしても外国人にはわかりゃしないでしょって。(笑)
で、横浜が貿易港となったんですが、そのおかげで今や横浜は日本第2の人口を持つ大都市となっています。
貿易内容は以下の通り。
- 輸出…生糸(約8割)、茶
- 輸入…毛織物、綿織物
輸出→物価上昇
輸出が増えると、その品物は国内で不足して物価が上昇しました。そうなると「生活が苦しいのは外国人のせいだ!」と考え攘夷を唱える人も増えます。
そこで幕府は、五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)を出して、生糸・水油・呉服・雑穀・蝋については全国の商人が直接輸出することを禁じ、江戸の商人を通して輸出することとしました。これで輸出量を調整すれば物価も安定すると考えたわけです。
ところが「自由貿易に反する」との外国の抗議もあり、また幕府の権威も失われつつあったせいか、この命令はあまり守られませんでした。
公武合体
井伊直弼亡き後、老中安藤信正(のぶまさ)は公武合体によって難局を乗り切ろうとします。
公=朝廷と武=幕府が協力すれば、日本が一つにまとまって危機を乗り越えることもできると考えたのです。
そこで孝明天皇の妹である和宮と徳川家茂が結婚することとなります。
しかしこれにも反発するものは多く、坂下門外の変で安藤信正は負傷し、老中の地位から退くこととなります。
やたらと江戸城の門のすぐ外で襲われていますが、警備はどうなってるんでしょうか。^^;
それはさておき。
何をやろうとしても潰されてしまう。幕閣としては八方塞がりの気分だったでしょう。
ついに外様大名に動かされる幕府
そんな時に幕府を動かそうとするのが外様大名、いまや雄藩と呼ばれる薩摩の藩主島津久光でした。
外様ですのでもともとは幕政に口出しなんてとんでもない立場なのですが、幕府が八方塞がりのここがチャンスと見たわけです。
まず朝廷に働きかけて同意を得、大原重徳(しげとみ)を勅使として出してもらって幕府と接触します。これによって、井伊直弼以来力を失っていた一橋派が復活します。
- 一橋慶喜(よしのぶ、徳川慶喜)…将軍後見職
- 松平慶永(よしなが)…政事総裁職
- 松平容保(かたもり)…京都守護職
みんな親藩ですね。
島津久光の提言により行われた改革を文久の改革といいます。
ちなみに松平容保さんは、あの新選組をつくった人です。松平片栗虎ではありません。^^;
攘夷不可能!→薩長とイギリスの接近
ここまではいいのですが・・・島津久光は、江戸から薩摩に帰る途中、横浜の近くの生麦村ですごい事件を起こしてしまいます。
生麦事件→薩英戦争
イギリス人が馬に乗ったまま大名行列を横切ったということで、無礼討ちにしてしまいました。さすが薩摩。^^; 生麦事件です。
イギリス人の中に混じっていた女性は無傷でした。さすが薩摩。
しかしこのあとイギリスは報復のために薩摩を襲います。1863年の薩英戦争です。
当時世界最強だったイギリスが最新の武器を搭載した軍艦7隻で薩摩を襲うわけですから、楽勝気分だったのでしょう。
しかし相手はあの薩摩です。蓋を開けてみると、イギリス側は7隻中大破1隻、中破2隻、戦死者13人(旗艦の艦長、副長を含む)、負傷者50人(うち13人が後に死亡)という結果。
それに対して薩摩側は、市街地の10分の1を焼かれたものの死者は5人でした。
世界最強のイギリスの艦隊が、日本の一部に過ぎない薩摩と戦って敗走することになったわけです。
当時のニューヨーク・タイムスはこう評しています。
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
しかしこの戦いでお互い力を認めたのか、薩摩とイギリスは接近することになります。
四国艦隊下関砲撃事件
薩摩と並べられることの多いもう一つの雄藩長州も同じ頃、実戦によって欧米の力を思い知ることになります。
長州藩は、関門海峡を通る外国船に対して砲撃、つまり独自に攘夷を敢行してしまったわけですが、その後、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス4カ国の艦隊に下関を攻められます。四国艦隊下関砲撃事件です。
長州もこれによって「今のままじゃ攘夷はむりだね」と判断し、このあとはイギリスに接近していくことになります。
八月十八日の政変、禁門の変→長州征伐
一方京都では、「長州ちょっとやりすぎじゃない?」ということで長州排除の動きが出てきます。
薩摩や会津など公武合体派が起こした八月十八日の政変で、親長州の公家である三条実美(さねとみ)らが京都から追放され、池田屋事件では攘夷志士が斬殺されます。
これに対して長州は禁門の変(蛤御門の変、はまぐりごもんのへん)で武力によって勢力を奪い返そうとしますが、薩摩や会津に撃退されます。
第一次長州征伐
ここで幕府は追い打ちをかけるように第一次長州征伐を行います。
幕府側は圧倒的な兵力をもって長州へ恭順を求めます。長州側も「こりゃ勝てないな」ということで、家老3人の命を差し出して恭順の意を見せます。
この後、長州では弱腰の保守派に対し高杉晋作がクーデターを起こし、実権を掌握します。
薩長同盟→大政奉還→王政復古の大号令
そして翌年の1866年、土佐の坂本龍馬の仲介もあり、薩長同盟が実現します。
八月十八日の政変、禁門の変と薩摩には痛い目に遭わされていた長州ですが、「日本がこのままでは欧米に飲み込まれてしまう」ということで手を組んだのでした。
第二次長州征伐
幕府によって、第2次長州征伐が発動されますが、すでに薩長同盟が出来上がったあとだったので主力の薩摩が動きません。動かないどころか密かに長州を支援します。
幕府は長州を相手に苦戦、そんな中、14代徳川家茂が病死。幕府はこれを口実に停戦としますが、実質的には幕府の敗戦でした。
かつては圧倒的な力を持って各藩を従わせてきた幕府が、一外様大名に敗北した瞬間でした。ここから事態は大きく動いていくことになります。
徳川慶喜、大政奉還を決める
15代将軍には徳川慶喜(よしのぶ)がつきます。ケーキと書いて慶喜です。
でも将軍になれたと喜んでる場合じゃありません。このままでは幕府と薩長で戦争になってしまいます。
そこで慶喜は、土佐の前藩主山内豊信の進言を受け入れ、大政奉還(たいせいほうかん)を決意します。
1867年 大政奉還「やむなく奉還徳川慶喜」
「大いなる政を還し奉る」と書いて大政奉還ですが、将軍が自ら朝廷に政権をお返しするということです。
そうすれば、徳川慶喜は別に敗北したわけではないし、自らお返ししたという功績も認められそうなので、次にできる新しい政府でも、議長的な立場で政治を動かしていけるだろうと考えたわけです。
次の政府では諸藩が連合し、合議によって政治を進める。その中心にいるのが自分である、と徳川慶喜は考えたのです。
こうして、江戸幕府は260年の歴史に幕を下ろします。
王政復古の大号令カウンター
しかし、これを黙って見過ごせないのは薩摩や長州でした。幕府にはやっぱり「敗北」してもらわないと困るのです。
そこで薩長側は朝廷を動かし、大政奉還から2ヶ月もたたずして王政復古の大号令を発します。
カウンターパンチです。^^;
王政復古、これはつまり天皇の政治に戻すということです。幕府が自ら政権を返還したのではなく、朝廷が自らの力で天皇中心の政治に戻したのだ、ということです。
だから徳川慶喜には「自ら政権をお返しした」という功績などないことになります。ということで薩長は慶喜に対して、内大臣を辞職し一部領地も返還(=辞官納地)せよ、と要求します。
ミエミエの挑発ですが、ここまでされては将軍としては「はいわかりました」とは言えません。慶喜が怒りを抑えたとしても周りが黙ってはいません。
結局武力衝突の方向へ進んでいくことになってしまいました。