「死んだら無、何もない」というのも一つの信仰ですよね

まず自然科学のみに話を限定したとしても、「死んだら無になる」というのはエネルギー保存則に反していますが、まあ普通そういう話ではないですね。^^;

死後も私たちの意識は存在するのか

という話だと思います。

「死んだら無」は科学的な言葉ではない

ただそういう文脈でも「死んだら無、何もない」と言ってしまうのは別に科学的でも何でもありません

だって、科学的にはAともBとも証明できないことを「Aである」と言い切っているわけですから、これは科学ではなくその人の信念ですよね。

たとえばある「科学者」の言葉として、こういうものがありました。

「死んだら無に帰す。例えば体重の18%を占める炭素原子は、死んで焼き場で焼かれれば二酸化炭素となって飛び散っていく。科学的にはそれだけです。残念ながら、死後の世界はない。」

これも全然科学的な言葉ではなくて、その科学者の信念を語っているだけです。

そもそも、

「死んだら無に帰す」

「炭素原子は、死んで焼き場で焼かれれば二酸化炭素となって飛び散っていく」

が既に矛盾していますが、それは冒頭言及したことなので置いておくとして。^^;

「例えば体重の18%を占める炭素原子は、死んで焼き場で焼かれれば二酸化炭素となって飛び散っていく。科学的にはそれだけです。」

「残念ながら、死後の世界はない。」

この2つの部分は論理的に全くつながっていませんよね。

つながっているとすると、

「炭素を燃やすと二酸化炭素が出ます。だから死後の世界はありません」

ということになりますよ? 変でしょ。

「辛口のカレーは辛いです。だから死後の世界はありません」

と言うのと大差ありません。

だから最後の一文はこの科学者さんの信念の表明ということになります。

まあひょっとしたら、編集が悪くてこんなつながらない文章になってしまったのかもしれませんが・・・それはさておき。

どちらも非科学的、ならどっちにする?

とにかく、死後の世界があると言おうがないと言おうが、どちらにしてもそれは科学的ではなく、その人の信念、信仰ということになります

だから「死んだら無、何もない」というのも一つの信仰です。

でもこれ、かなり強力な信仰ですよね。信じている人の数を見ると、「宗教」と言ってもいいくらい。

「死後無教」とでも名付けましょうか。

これ、信じていないと馬鹿にされたり、変人扱いされたりすることが多いですよね。それくらい強力な信仰です。

ただここで、落ち着かなくてはなりません。合理的に考えてみましょう。

「死後無教」を信仰して、どんなメリットがあるの?

と。

「死後無教」のメリット・デメリット

私はこれねぇ、メリットを見つけることができないんです。みなさんはどうでしょうか。「死後無教」にメリットを見出だせるでしょうか。

「自殺を防げる」

と考える人もいるかも知れませんが

「生きることに何の意味もない」

という考え方にもつながるんですよね。

「死んだら何もなくなるからこそ、一生懸命生きるんじゃないか」

と考える人もいるでしょうけど、

「死んだら何もなくなるなら、がんばっても仕方ないよね」

と考える人もいることでしょう。

ということで・・・「死後無教」のメリットが見つからない。

逆にデメリットは・・・他でもない「死んだら無になる」これ自体、究極のデメリットですよね。

どんなに自分を磨こうと、どんなに成長しようと、死んだら何もなくなる。

どんなに大切な人、最愛の人だって死んだら何もなくなる。

大切な人も生き物もみんないつか死ぬ、それどころか地球だって太陽だって銀河だって宇宙だっていつか消えてなんにもなくなる。

「死後無教」が約束するのは絶望でしかない。

約束の地=絶望

そういう宗教を信じることが、合理的なんでしょうか、という話。何のためにそんなこと信じてるの?っていう話。

そんな残酷な宗教よりもね。

こっちのほうがよくない?

「私たちは『神』と呼べるような何かから生まれてきました」
「それはいろいろ体験して楽しむためです」
「だからいつも見守られているし愛されています」
「目的を持って生まれてきたのだから、全てに意味があります」
「私たちは自分がどういう人間か、自分で決めてここに生まれてきました」
「そして人生はすべて、自分で作っていきます」
「運命の女神? ああ、あれって自分自身のことです(笑)」
「転生だって何度でもします」
「転生に疲れたら何万年だろうが長期休暇を取るのだってありです」
「地球だけでもないしこの宇宙だけでもない、いろいろな場所で暮らせます」
「愛する人とだっていつもつながっていられるし、いつでも会うことができます」
「まあ時には一人になりたいでしょうからそれも自由にできます」

という「死後無教」とは正反対の信仰を持ったほうが・・・人生楽しいんじゃないでしょうか。幸せに生きやすいんじゃないでしょうか。

まあそれでも「死後無教」のほうがいいっていう人は、そっちを信じて生きていけばいいと思います。信教の自由ってもんです。

でも少なくとも、「死後無教」を信じない人を馬鹿にしたり変人扱いしたりするのは・・・そろそろやめにしませんか。

あの、厳密に科学的に証明できないというのはもちろんなんですけど、前世とか臨死体験とかの研究を見ると、

「死んだら無、何もない」

って言う方が無理がある感じなんですよね、最近は。

だから頑なに「死んだら無、何もない」と信じるのではなく、「どう信じるのが楽しいかな」って、気楽に考えるといいと思いますよ。