悟りとは何か~悟りを開く、その意味

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悟りと言っても日常的な意味もありますが、ここでは仏教などで言われる「悟り」について、考えていきます。

「理解」ではなく「体験」

とは言うものの・・・悟りなんて、抽象的に定義をして理解したつもりになっても、何の意味もないことなんですけどね。^^;

それにおそらく、

「悟りを開いた」
「悟りの境地」

と言っても、経験した人によってそれぞれ違うのではないかと考えられます。

そしてそれは「理解」というより「体験」であると考えられます。

だから定義を聞いただけでは何も意味がないんです。

「悟りの境地」をディズニーランドにたとえてみよう

たとえばディズニーランドに憧れている人が、ディズニーランドがいかに楽しいかを本で読むのと、実際にディズニーランドに行って楽しむのとでは、まったく違うのに似ています。

本で読んだだけだと、

「楽しいに違いない」

「信じている」だけですが、実際に体験すると

「ディズニーランドは楽しかった」

「知った」ことになります。

「信じている」だけだと、たとえば友達から

「いやいや、噂によると実はそんなにたのしくないんだよ」

なんて言われると、「え? そうなの?」と信念が揺らいでしまうことも多いでしょう。

でも実際自分で体験して「知って」いれば、人に何を言われようと

「いや、私も行ったけど、実際楽しかったし」

で、済むわけです。

悟りの境地を「信じている」のと「知っている」のとは、この違いと似たようなものでしょう。

とことわった上で・・・悟りについて、いろいろ考えてみます。^^

悟りについてよく言われること…一体感

まず、「悟り」についてよく言われるのは

「すべてのものと一体感を感じる」

ということだと思います。

スピリチュアルな考え方でもよく言われることですので、これ自体は「ああそうなんだな」と頭では簡単に理解できます

でも一体感を感じることで大きな喜び、至福を感じることができるといいます。

これはどういうことか?

おそらくこれは、

「自分の本質は肉体ではない」

とわかるからではないかと考えられます。

「死」も「孤独」も消える

自分は肉体を超えた存在で、肉体が死んでも自分自身が滅ぶことはないし、それに他の人・・・というか霊というか天使というか神仏というか、そういう存在ともいつもつながっているから孤独でもない

そういうことを「体験」として知ることができれば・・・そりゃ幸せな気分になって当たり前ですよね。

これまで最大の恐怖だった「死」がなくなるわけだし、同様に恐怖と言える「孤独」もなくなるわけだから。

それがはっきりと分かれば・・・体験によって知ることができれば・・・この世での悩みや不安、苦しみ悲しみなんて大半は消えてなくなることでしょう。

まさにこれは「悟りの境地」と言っていいのではないでしょうか。

もちろんそれに対して、

「いや、悟りとはもっともっとレベルの高いものなんだよ」

という人もいるでしょうけど、上記のようなことを「体験によって知る」だけでも、私たち多くの一般人にはとてつもなく大きな収穫だと思います。

たとえ「悟りの最初の一歩」であっても。

さて。

ヨガはストレッチではありません

一体感については、インド系の思想にもよく出てきます。

あの、インドというと・・・ヨガってありますよね。多くの人はヨガと聞いても

「ストレッチの一種でしょ?」

くらいにしか思わないわけですけど、あれも、もともとは「大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指す」ものなんですよ。

つまり、神様とでも呼べるような何かとの一体感を求めているんです。

その影響を受けてできた「禅」にしても、一体感を思わせる表現があります。

ある禅宗のお坊さんは、悟りを開いたときの感覚についてこう記しています。

「目覚めてみれば、そこもかしこも観音様だ」

つまり、自分も含めてみんな観音様、みんな一体、しかも観音様というくらいだからみんな慈愛にあふれているということですよね。

それはもう・・・大いなる喜びの体験に違いありません。

ヘミンシンクと悟り

昔の人にとっては、悟りを得るための方法は座禅とか瞑想とかヨガしかなかったのでしょうが、今はそのための方法も増えています。

・・・と言っても、本質的にはやっていることは同じなんでしょうけど。

たとえば「ヘミシンク」という方法が一部で有名です。

そのヘミシンクを紹介した坂本政道さんの「あの世はある!」という本にもこういうことが書かれています。

ヘミシンクで何度も「あの世」的なものを体験すると、そのたびに少しずつ確信が強まっていくと。

そうしてついにはその確信が確固たるものとなり、「死の恐怖」を完全に消し去ることができると。

そうなるともう、人生はまったく違ったものになるということですね。

これも今風の「悟り」の方法だと言っていいでしょう。

「体験するたびに少しずつ確信が強まっていく」というのは「小さな悟り」を積み重ねているとも言えそうです。

仏教の本を読みますと、「悟り」にも「大きな悟り」「小さな悟り」と「段階」のようなものがあると書かれています。

ヘミンシンクによっても、「小さな悟り」を得ることができ、それを繰り返すことで「大きな悟り」に至ることができる、と考えても良さそうです。

現代人にとっては大きな収穫

まあ、「あの世の存在の確信」「死に対しての認識の変化」程度を「大きな悟り」なんて呼んでいたら、本気で修行しているお坊さんには笑われそうですね。^^;

それに、昔の人はその程度のことは普通に知っていたでしょうし。

でも現代人にとっては、たったこれだけの「悟り」でも、大きな収穫となることは間違いないでしょう。

自分が死ぬ恐怖、そして愛する人を失う恐怖、そういうものから解放されるわけですから。

 

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