六道輪廻からの解脱と十界互具

私たちは肉体だけの存在ではなく、それより上位の微細な身体を持っているという考え方と、「生まれ変わり」「輪廻転生」という考え方はセットになっていますよね。

それで、生まれ変わりといえば、仏教では「六道輪廻(ろくどうりんね、りくどうりんね)」ということが言われます。

簡単に言うと、悟りに至っていない者は、6つの世界を何度も何度もぐるぐると生まれ変わる、という考え方です。

六道とは

その6つの世界というのは・・・

・天界
・人間界
・修羅界
・畜生界
・餓鬼界
・地獄界

この6つですね。これが六道。

私たちは一つの肉体を抜け出たあと、魂の状態に応じて6つの世界のいずれかに生まれ変わると言うんです。

で、上の方から簡単に見ていきますと、天界とは天人の住む世界です。神々の世界と言えばいいでしょうか。

神々、というわけですから、一神教的な神様のことではなく、東洋風の多神教的な神様のことですね。日本の八百万の神様はイメージ的にぴったりです。

ただ六道輪廻の考え方からすると、神様でさえいつかは死に、他の世界へ生まれ変わる、ということになります。

ちなみにいちばん寿命の短い神様でさえ、2万年以上は生きると言われています。^^;

次の人間界は、まあ私達のいるこの世界ですね。

修羅界というのは争ってばかりの世界だそうです。見方によれば、私達がいるこの世界は修羅界なんじゃないかと思うこともありますが・・・

三悪趣

畜生界というのは、知的生命体以外の生き物の世界。畜生というのは動物のことですので。これは普通の人間にも認識できる世界ですね。

餓鬼界というのは、あらゆるものに対して「飢え」を感じ続けなければならない世界だそうです。まあ、極めて「ネガティブ」なマインドの持ち主が集まっている世界と言えそうです。

餓鬼は「餓えた鬼」と書くわけですが、畜生界より下に位置づけられるということは、「畜生」程度の知性すらなく、心のなかは「飢え」で埋め尽くされている存在だと考えられます。

地獄界は純粋な苦しみしかない世界です。苦しみ以外、何もない世界。

この中で下の3つは「三悪趣」「三悪道」と呼ばれることもあります。なぜなら、知性が働かないため、魂の向上が難しく、死んだ後に上の世界に生まれ変わることが困難だからです。

ただ、現在三悪趣にいない私達や神々でも、いつ三悪趣に落ちてしまうかわからない、だから早くこの六道輪廻から抜け出す=解脱しなければならない、と説かれるわけですね。

現在のスピリチュアリズムの転生観では、私達人間が「畜生」に生まれ変わることはないとされていますが、「畜生」並の知性しか持ち合わせない者ばかりが住む世界に転生することはあり得るでしょう。

仏様は「罰」を与えない

ではどこに生まれ変わるかどうやって決まるかということですけど、これは別に、閻魔大王様がいて「お前地獄行き」とか決めているわけではありません。

あくまで自分の魂の状態が決めます。つまり、自分の魂にふさわしいところに生まれ変わるということですね。罰で地獄行き、ということはないというわけです。

ここは「引き寄せの法則」が効いているということですね。その人の魂の波長が、天界を引き寄せたり、地獄を引き寄せたりするということでしょう。

人間界で生きている間、常に人を憎み傷つけるようなことばかり考えていたものは地獄を引き寄せる可能性が高まりますし、喜びと感謝に満たされていたような人は天界を引き寄せる可能性が高まります。

仏教では、仏様は人間に罰を与えたりしません。むしろ、自ら地獄に行ってしまいそうになる人間をなんとか助けようとしてくれているんです。

十界

さて、天界といえど六道の一つということで、仏教では悟りを開くことでこの輪廻の繰り返しから脱出することを理想とします。輪廻から脱出することを解脱といいます

ただ、上座部仏教では悟りを開いて解脱すればそれでゴールなのですが、大乗仏教では、解脱を遂げた人にも幾つかのタイプがあると考えます。

その幾つかのタイプですが、上述した六道の上に、4つの解脱者の世界が積み上げられます。

・仏界
・菩薩界
・縁覚界
・声聞界
・天界
・人間界
・修羅界
・畜生界
・餓鬼界
・地獄界

上の4つはもう六道輪廻に迷わなくてよい境遇なので、4つまとめて「四聖」と呼ばれます。四聖の下に六道があります。4+6で「十界」といいます。

つまり、「悟りを開いた」「解脱した」と言っても4タイプあるということですね。

4ランクの悟り?

それぞれ簡単に説明すると、声聞というのは「お釈迦様から直接教えをいただいて悟りを開いた人々」と説明されます。

縁覚というのは「お釈迦様とは直接接することができなかったけど、仏道との縁があって悟りを開くことができた人々」です。

ただ現在だと、以上の説明では声聞と呼ばれる人は極めて少数になってしまいますね。人間としてのお釈迦様は今はいらっしゃらないので。

ということで現在は出家して悟りを開いた人を声聞、出家はしていないけど修行して悟りを開いた人を縁覚と呼んでもよさそうです。

その上の菩薩は何かというと、悟りを開いて解脱をしたのだけど、衆生救済のためにわざわざ六道に転生してきて修行している存在のことを言います。

そうして修行を完成し、すべての面でパーフェクトになった存在が、最も上の「仏」ということになります。

十界互具とは

じゃあ十界互具ってなんなの?ということですけど、互具の「互」は「たがいに」「入り乱れる」という意味ですね。「具」は「そなわる」という意味。

ということで、十界のどの存在も、十界すべてを持っているということです。

つまり人間であっても、心のなかに仏の部分もあるし神様の部分もあるし、修羅も餓鬼も地獄の存在的な部分も、すべて持っているということです。まあ人間がいちばんそれが顕著かもしれませんね。

十界互具の考え方からすると仏様も心のなかに地獄的なものを持っているということになりますが、仏様が我々人間と違うのは、その地獄的な部分を100%制御しているということなのでしょう。

つまり我々のように怒りに操られて滅茶苦茶な行動をしてしまう、ということがないということです。

逆に考えると、完璧な悟りを得るために、心のなかの悪いものをすべて削除する必要はない、ということになりそうです。

それらすべてを制御・支配し、善なる方向へ役立てることができるなら、それでいいのかもしれません。

まあそんな、仏様レベルのことを言葉で理解しようとしても無駄なのかもしれませんが。^^;

 

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引き寄せの法則とスピリチュアル思考