何を言っているのかと。^^;
そう思ったかもしれませんねぇ、このタイトルを見ると。犬かと。(笑)
違うんです。
「私たちは一つ」に関する誤解
何か、よく言うじゃないですか、スピリチュアルな体験で。
「私たちは一つなんだ」
と。
これけっこう、誤解されるんじゃないかと思うんです。
「一つ」
という日本語のせいで。
「一つ」
って聞くと、なんだか「私たちより大きなもの」に吸収されて、自分が消えてしまうんじゃないかと思ってしまいますよね。
でもこれ、そういう意味ではないようなんです。
「一」ではなく「一の如し」
昔は日本語でも「一つ」とは言わず「一如」と言っていました。
仏教にも
「真如は一如なり」
という言葉があります。
「一如」だと「一の如し」ということになりますので、「一つみたいなもの」という意味になります。
「一つ」ではないけど「一つみたいなもの」ということ。
だから英語でも、スピリチュアルな意味で「one」と表現せず「oneness(ワンネス)」と言っているというわけですね。
「一」ではなく「一の如し」なんです。
死後も自分を失わない
「神との対話」でもそのへんの事情は説明されています。
私たちの本質は・・・もちろんこの肉体ではなく、「霊」とでも呼べばいいような何かです。
で、その霊はどこから生まれてきたのかというと、もっと大きな霊、「神との対話」においては他ならぬ「神」から生まれてきたということになっています。
だから元々は「一の如し」ではなく完全に「一」「一つ」だったと考えられます。
簡単に言ってしまうと、最初は「一つ」だった「神」はいろいろなことを「体験」したくて、「神の子」である霊をたくさん生み出したといいます。
その「神の子」が私たちということです。
じゃあ神の子である私たちは、何か役目を終えたら「神」と融合して消えてしまうのかというと・・・そんなことでもないようです。
これについては「神との対話」にこう書かれています。
「死後、精神は私と一緒に行くとおっしゃいましたが、それは私の『パーソナリティ』が続くという意味なのですか? 死後も私は自分が自分であることを知っているのでしょうか」
「そう・・・そして、これまで何者であったかも知っている」
ということで、死んだあとも「自分」というものはあると説明されています。
そして「これまで何者であったかも知っている」ということですので、「前世の自分」も自分として認識できるということですね。
だから、肉体を去ったあとも、私たちは「一つ」に融合して自分が消えてしまうわけでなく、あいかわらず「自分」を保っていられるということのようです。
他の霊も自分「みたいな」もの
一方で、「一の如し」なのだから、「自分以外」と分断されているわけではなく、いつもつながっていると考えられます。
霊的なレベルではみんなつながっているのだから、みんな「自分の一部」と考えることもできるわけですね。
そのことを指して「みんな私だ」と言ったりすることもあるわけですが、「みんな私だ」と言ってしまうとまた混乱しそうです。^^;
とりあえず単純に、霊的なレベルでも「自分」というものはあるけど、みんなつながっているんだと思っておけば良さそうです。
神とひとつになると自分には戻れない?
じゃあ「神と一つ」になることは不可能なのかというと・・・
「神との対話」によればそれも可能とのこと。
ただ面白いのは、一旦「神と一つ」になっても、自分が望みさえすればまた元の自分として活動もできるというところです。
変な喩えを出しますと。^^;
コップの水を「自分」、海の水を「神」として。
神と一つになるということはコップをひっくり返して海に全部注いでしまうということになります。
こうなると普通、もとのコップの水を海水から取り出してくることはできませんよね。混ざってしまうから。
でも、霊的なレベルではそれができる、という話なんです。
コップに入っていた水の分子に全部「自分」という名札をつけて、海水に混ざってしまったあとでも、「自分という名札の付いた水分子を全部集めてコップに戻すことができる、というわけ。
まさになんでもあり。私たちは「自由自在」ということになります。
それはそうでしょう。
「ワンネス」には「一の如し」という意味の他に「同一性」という意味もありますから。
つまり私たちは神様と同じ存在なんです。だから自由自在。