性善説、性悪説という言葉自体は、中国の孟子、荀子という思想家に由来するものですが、その意味するところは昔から、中国に限らずいろいろな場所で考えられてきたことです。
要するに「人間は生まれつき善なのか、悪なのか」ということですから。
これについてはまず少なくとも「悪」ではないと言えそうです。
なぜそういえるのか?
実質的に選択肢のない状況設定
たとえば、
「ある人と自分と、どちらかが死ななければならないとしたら・・・」
「ほとんどの人は自分が生きようとするよね」
「ほら、人間の本性は悪じゃん」
なんていう人もいます。
でもそれで「悪」ということはできません。
なぜなら、上記の状況設定は、選択肢があるように見えて実質的にはほとんど選択肢はないからです。
実質的に選択肢がないような状況を設定しておいて、ほとんどの人が一方を選んだからと言って、
「そらやっぱり人間は悪だ」
なんて決めつけるのは無理があります。
そういう、実質的に選択肢がないような状況はもう「善悪とは関係ない状況」というべきです。つまり「善悪の彼岸」。
自由に選択できる状況なら?
善悪を言うなら、「どの選択肢でも自由に選べる状況」でなくてはなりません。
たとえば、
「ある人と自分と、両方生き残ることもできるし、ある人を殺して自分だけ生き残ることもできます」
「どちらを選んでも自分には何の損もありません」
「どちらを選んでも自分が得られるものはまったく同じです」
という状況なら?
ほとんどの人が「両方生き残る」ことを選ぶと思います。
だとしたら人間は「性悪」ではなく「性善」だと考えるほうが自然です。
性善でも性悪でもない
ただ人間の面白いところは。
日々の心がけで、「悪」の方を快く感じるように、自分の心を作り上げていくこともできるということ。
上記の例で言えば、理由もなく「ある人」を殺し、自分だけ生き残って快く思ってしまうような人間にもなりうるということ。
それを考えると人間は・・・生まれつきどちらかというわけではなく、善にも悪にもなれる存在、ということもできそうです。
つまり性善でも性悪でもない。
どちらにもなれる。だからこそ「責任」が問われる、ということ。それが法的な考え方でしょう。
さででは。
スピリチュアルなレベルでは悪は働けない
現世レベルを飛び越えるとどうなるのでしょう?(笑)
つまりスピリチュアルなレベルで考えると。
スピリチュアルなレベルでは悪は働けないのではないかと考えられます。
その理由は以下の2つです。
一つは、スピリチュアルなレベルでは、私たちはみんな「つながっている」ということ。
もちろん「自分」というアイデンティティはあるのですが、バラバラというわけではない。
「ワンネス」「一如」という言葉がありますね。「一」ではなく「一の如し」。
つまり、アイデンティティを持ちつつもみんなつながっています。
となると、他人を傷つけるということは自分を傷つけるということにもなるので、それはまずやらないだろうということになります。
もう一つの理由。
これは、私たちはスピリチュアルなレベルでは「全知全能」といっても良い存在です。何せ神様の「分け御霊」なんだから。(笑)
となると、他者から何をされようが「傷つく」ということはありません。自分で「傷つく」と選ばない限りは。
ということで他者を傷つけるということは不可能です。つまり悪は働けない。
となると・・・
結局「人間レベル」だからこそ善悪が可能になる
スピリチュアルなレベルでは善悪を選ぶ選択肢がないということになります。つまりここでも「善悪の彼岸」ということです。
そう考えると・・・
私たちは、人間としてこの世界に生まれてくることで、初めて善悪を選ぶ「選択肢」を手に入れたということになりそうです。
だから人間は生まれつきはどちらでもない。「性善」でも「性悪」でもない。
そしてそこでどちらを選んでいくかは、私たちに委ねられているということです。
どちらの選び方がより素晴らしいか、試してみろということです。
あなたはどちらを選ぶでしょうか。