カルマとは何か?については以前取り上げてみました。
カルマとはもともとは「何らかの結果につながる行為」というニュートラルな意味だったのに・・・
いつのころからかカルマは悪いもの、「カルマ=罪」と解釈する人が増えたということでしたね。
これはなぜなのかと。
「他人を支配したい」人々によるカルマ利用
これはやはり「他人を支配したい」という人たちが「カルマ」という概念を利用しようとしたからではないか、と考えられます。
そのような用いられ方をする場合、
行為→結果
のなかでも
悪い行為→悪い結果
に、注目させることになりますよね。
簡単な例で言うと・・・
ある宗教が人々を従わせるために、
「教えのとおりにしないと悪いカルマが積み重なる」
「その結果、この人生、そして来世でも悪いことが起こる」
と脅すこともあるでしょう。
そうすることで教えに従わせようというわけですね。
でも話はそういう、宗教だけに限ったことではありません。
思えば私達は常に、「罪と罰」を意識に刻みこまれてきたんですよねぇ・・・
子供の頃からそう育てられてきた
子供の頃から、そうじゃありませんか?
何かをしないと怒られる、罰をうける、何かをすると怒られる、罰を受ける・・・小さい頃から、特に学校などではそのように育てられてきたと思います。
これは大人になってからも同じで、社会で生活していく上でも、職場で働いていく上でも「罰」で統制される部分が大きいです。
そうして私たちは何年も何十年も、自分の行動を「罰」によって統制され続けるわけです。
そういう次第ですので・・・
「カルマ」に関しても、特に宗教に興味を持たない人であっても、「カルマ=罪」と解釈してしまうのは自然な流れなのかもしれません。
でもそういう考え方の傾向は、私たちを幸せにはしてくれないでしょう。
そして自分を責めるようになった
そしてもっと悪いことに・・・
常に「罪と罰」を意識させられた結果・・・私たちは、誰に強制されなくとも、自ら自分を責めるようになります。
自分の「罪」を自分であげつらい、自分で自分を罰するようなことをします。
そうして、こういう精神的傾向があるからこそ、「引き寄せ」がうまくいかない、という人が多いのだと考えられます。
つまり、多くの人は、自分の些細な欠点を「罪」とみなしてしまって、些細ではあれ自分に「罰」を与えようとする傾向があるからです。
何かにつけて
「ああ、自分のこういうところがだめだ」
「なぜあんなことをしてしまったんだ」
「なぜうまくできなかったんだ」
という具合に、自分を責めてばかりです。
それが「引き寄せ」の邪魔をする
そうして、「自分は良い思いをする資格はない」「苦しむべきだ」と、意識するしないにかかわらず、思い込んでしまっているわけです。
それでは「引き寄せ」も・・・喜ばしい方にはつながらないでしょう。
むしろ苦しいことを引き寄せてしまいそうです。
だから私たちは、子供の頃から強化されてきた「罪と罰」の呪縛を、断ち切らなければならないんです。
もちろんそれは、法を犯せと言っているのではありませんよ?
そうではなくて、自分で自分を責めて、自分を罰するという傾向・・・誰しもあるこの傾向に意識的になり、それに気づくことで打ち消していく必要があります。
体験を楽しむために生まれてきた
私たちは・・・この世界でいろいろ体験して「楽しむ」ために生まれてきたんです。
だから、「やらなければならないこと」「やってはいけないこと」は本来的には存在しないんです。
だから、罪も罰もないんです。
あるとすればそれは自分で決めていること。
上記のような流れで、自分を罰するような精神的傾向を持ち、自分を苦しめるような現実を「自ら」作っているということ。
だから、何か苦しいことが連続しているとしても、それは「自分で作り出しているんだ」と意識すること。
そして、そういう「苦しい引き寄せ」の土壌となっている「罪と罰」の心の癖に気づき、気づくたびにそれを打ち消すこと。
許す
「許します」
という言葉が大事だと言われますが、これは「他人を許す」という意味だけでなく・・・それにもまして、「自分を許す」ということが大事なんです。
斎藤一人さんの「天国言葉」にも出てきますね。
愛しています
ついてる
うれしい
楽しい
感謝してます
しあわせ
ありがとう
ゆるします
最後に「許します」って出てきます。
これはやはり、「自分を責めてはいけない」「自分を否定してはいけない」ということでしょう。
そしてそこが「幸せ」の原点となるのでしょう。