「運命は我々の業が作るものだから、我々の行いによって変えられるものである」
「六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のこと」
「地獄は最悪の業を作った者の転生先。苦しみしかない場所。餓鬼は『貪り』に心を支配された者の転生先。畜生は愚痴=愚かさに支配された者の転生先。以上3つが三悪道でなかなか抜け出ることができない世界」
「修羅は争いや競争ばかりに気を集中している者の転生先」
「人間界は中間的な場所」
「天上の神々は人間を超える力を持つが、それでも不死ではなく輪廻してしまう」
「六道輪廻するものはみな衆生と呼ばれる」
「上座部では神でさえ地獄に行きかねない危険な輪廻からの解脱を目指す。そこにしか安らぎはないと考える」
「大乗仏教が目指すのは、どんな世界にいても苦を受けない『仏』となり(=成仏)、衆生を救済すること」
「成仏するためには三阿僧祇劫の修業が必要。お釈迦様の次の弥勒菩薩が成仏するのも56億7千万年後」
「仏となり衆生を救済するための長い長い修業を続けている者を菩薩と呼ぶ」
「観音さまは他方来の菩薩。つまり異世界から来た菩薩。その異世界は極楽浄土と呼ばれる、阿弥陀如来の作った世界」
「極楽浄土に往生すればもう転生することはなく、仏になるための修行をひたすら続けることができる」
「観音さまのご利益には間違いがない。なぜならその人にとって害になるような願いは絶対に叶えないから。アラジンの魔法のランプとは違う」
「自分では人の役に立つ良い願い事だと思っても、観音さまの高い視点から見ればそうではないことも多い」
「密教では、印を結ぶことで身密となり、真言を唱えることで口密となり。観想をすることで意密となり、これで三密となる」
「本当の信仰家は、祈願以上に神仏そのものを先に念じている」
「自らのうちに神仏が存在していなければ霊験は現れない。神仏は常に我々のうちにあることを忘れてはならない」
「阿頼耶識は、我々の過去生からの体験の集積によって形成された存在であり、現に今も作られつつある心の奥なる心」
「観音様に呼びかけるには、阿頼耶識に観音さまがいなければならない。そのためには常日頃から観音さまに親しんでいなくてはならない」
「阿頼耶識には異熟と呼ばれる運命の種が集積される。異熟は行動に伴う想念によって作られる」
「因縁の因とは異熟のことで、縁とは外部の作用のこと」
「潜在意識の活用や引き寄せの法則を仏教的に言えば阿頼耶識の活用法ということになる。ただ、切実な願いを阿頼耶識に送り込もうとすると、同時に焦燥や不満、不足の思いも送り込んでしまうことが多い」
「貧困は現実の経済活動の努力・工夫の不足とともに、過去に積んだよくない異熟の結果でもある」
「想念だけで行動を伴わなければ異熟の要因としては極めて弱い。不幸や貧乏の原因は異熟だが、これを改善するには良い異熟を阿頼耶識に送り込むとともに、悪い異熟を消さなければならない。そのためには悪い異熟と『反対の行い』をするのが王道」
「念彼観音力とは必死になって願望を念ずることではなく、観音さまそのものを想うこと。『彼の観音を念ずる力』と読むのが適切」
「ただ観音さまを思い描いて、日々、経文や真言などを繰り返し唱えることで、観音さまそのものを阿頼耶識にダウンロードする。最も良き異熟は観音さまそのものである」
「観音さまから見れば善人も悪人も同じく迷いの世界にいる衆生で、救済の対象である。我々が自分自身を否定してしまわないことが大事」
「ただし悪い行いや過ちは懺悔しなければならない。そのために仏教には懺悔文がある」
「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」
「我、昔造りし所の諸々の悪行は、皆、無始よりの身口意の貪瞋痴により生じたるところのものなり。その一切を我、今、懺悔せん」
「無始とは『生命の始まりより』ということ。生まれ変わりなんてないという仏教者は、仏教のいろはも知らぬ者であることは懺悔文を見ても明らか」
「観音さまからいただく幸福の種を、他の人々に分かち与える、つまり回向することなくして仏教の祈りはありえない。我欲一点張りの祈りは届かない」
「第一の布施は、まず自らが幸せだというその気持で、人や生き物に接すること。そうすればそこから何をすべきかが自然にわかってくる」
「諸仏諸菩薩は法界身、つまり形を超えて宇宙に遍満している。だから一切衆生の心想のうちに入り給うのである。だから心の仏を思えば、心はそのまま仏の姿になる」
「広観とは仏様がだんだん大きくなり、宇宙大になる様子を観想すること、斂観とは、宇宙大の仏様がだんだん縮小し、等身大になり、自分と一つであるとイメージすること」
「信仰の第一段階では観音さまは自分の外にいる。その段階でいただける霊験は、その人の持つ福分の量で決まる。福分がなければ神仏といえどもどうにもできない。因果を超えることはできない」
「第二段階では観音さまを自分の内側に置く。常に観音さまと気持ちを合わせ、自然と福分を積むことになるので、福分が尽きることはない」
「第三段階では内にも外にも観音さまがいると確信する。自分だけでなく他人にも霊験を現すことができる」
「第四段階では内と外の区別がなくなる。世界をそのまま仏様の世界だと確信する」
「観音さまを念ずる前後に唱えるべき言葉。『観音さまは私に必要な行いを知っています。観音さまは私に必要な言葉を知っています。観音さまは私に必要な心を知っています。観音さまは私に必要な全てを知っています。南無観世音菩薩、ありがとうございます」
「十界=六道+四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)。四聖は解脱した存在」
「声聞はお釈迦様の直接の弟子で悟りを開いた聖者、縁覚は独力で悟りを開いた聖者」
「大乗仏教では声聞と縁覚は無色界に入ってこれから菩薩になる存在だと位置づけられている」
「菩薩の修行は六波羅蜜=布施・持戒・精進・忍辱・禅定・般若である」
「布施とは人や生き物を助けること、持戒とは戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見)を守ること、精進とは常に修行を心がけること、忍辱とは辱めなど受けても気にしないこと、禅定とは止観瞑想すること、般若とは修行で得た知恵を実践すること」
「十界互具。十の世界は別々ではなく、お互い包摂しあっている」
「天人は、最短でも二万五千年の寿命を持つ」
「天人は寿命も長く大きな力も持っているので自由も大きいが、その分責任も大きい。油断すると大きな罪を犯してしまうこともある」
「仏教の世界には賞罰はない。すべて自業自得。仏様は罰を与えない。あくまで救済しようとしてくださる」
「密教では神様に対しては般若心経や大般若経を唱える。なぜなら神々は大きな力を持つ分、欲も大きくなりがちだから」
「如意輪観音さまは神々を導く」
「不空羂索観音さまは人間を導く。羂索とは命綱のことだが、命綱は人間の形をとって現れる」
「光明真言は不空羂索観音の真言であるとともに大日如来の真言でもある」
「十一面観音さまは阿修羅を導く」
「阿修羅は大きな力を持っているが、他者とうまくやっていくことができない」
「何かにつけて人のことを悪く評価する習慣が、やがて心のなかに阿修羅を作ってしまう」
「馬頭観音さまは畜生道を救済する。人間の動物的な愚かさを取り除く」
「聖観音様は餓鬼道を救済する」
「あの世では同じような因縁の人々が集まる。自殺などしても人生リセットにはならず、似たような境遇に転生するだけ」
「聖観音様は恐れを取り除いてくださる」
「『安心のバリヤー』が形成されていない人は、何かにつけて不安を感じるようになる。観音さまを本気で信仰すればバリヤーができる。観音さまを大好きになること」
「千手観音様は地獄道を救済する」
「なんでも執着がすぎれば心のなかに地獄が生まれる」
「宗教の形式は人間が作ったものだが、信仰自体は神仏からの贈り物。信仰とは、心にいつも観音さまを持っていれば良い、それだけのこと」
「一宿五遍千手経法。お昼に千手観音の陀羅尼を五遍あげると、いろいろな不吉を除く。大悲咒が有名」