飛鳥時代(前半)のまとめ~聖徳太子、推古天皇、蘇我馬子

最初に飛鳥時代前半のまとめです。

  • 時期…593年~710年
  • 聖徳太子、推古天皇、蘇我馬子
  • 天皇中心の政治を目指す
  • 冠位十二階…家柄ではなく才能、功績で人材登用
  • 十七条憲法…役人、豪族の心構え
  • 遣隋使…隋と対等な国交、小野妹子
  • 蘇我氏の力の源…天皇の外祖父、三蔵の管理
  • 飛鳥文化…国際性、仏教
  • 法隆寺…世界遺産、現存する世界最古の木造建築
  • 釈迦三尊像…鞍作鳥
  • 三経義疏…聖徳太子によるお経の注釈

飛鳥時代の時期と3人の中心人物

飛鳥時代の時期は聖徳太子が摂政になった593年から、平城遷都の710年まででいいでしょう。

飛鳥時代は中心人物として聖徳太子、中大兄皇子、天武天皇の3人に注目して、天皇中心の政治に向かっていくと把握しておくとわかりやすいです。

「聖徳太子なんていなかった」説もありますが、大昔のことなんて諸説あって当たり前です。それならわざわざ日本の英雄を抹消する方を採用する理由もありません。そういう議論は学者さんに任せておけばOK。

聖徳太子の政治

飛鳥時代は色々ありますので、今回は前編として聖徳太子の時期を扱います。

聖徳太子とは

この絵の人です。

昔は一万円札や五千円札にも使われていました。両側にいる人は聖徳太子の息子さんと言われています。

聖徳太子は厩戸王(うまやとおう)、廐戸皇子(うまやどのみこ)と書かれることもあります。豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)と呼ばれることもありますが、別名が多くて全部書けません。^^;

聖徳太子は仏教公伝のころの欽明天皇の孫用明天皇の第2皇子ということですから皇族です。

蘇我馬子の親である蘇我稲目(そがのいなめ)のひ孫でもあります。蘇我氏は天皇の外戚となることで力を強めてきたわけですね。平安時代の藤原氏と同じ。

さて、聖徳太子の出てくる6世紀は、豪族同士の争いが激しく、そんな中蘇我氏が強大化し、ついには天皇が暗殺されるというとんでもない時代なのでした。

天皇中心の政治を目指す

その6世紀末の593年、聖徳太子の叔母さんである推古天皇の摂政(せっしょう)として政治の表舞台に登場します。叔母さんを助けて政治をするということです。

593年聖徳太子摂政「国民まとめる聖徳太子」

推古天皇を即位させたのは蘇我馬子でしたので、もちろん馬子も政治に加わります。推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の3人で政治を進めていくことになります。

天皇暗殺なんて事をした人物が政治の中枢に入っているのは不自然に思えますが・・・

黒幕だとバレなかったか、バレても黙らせるほど力があったか、朝廷全体で了解が取れていたか、または実は潔白だったか・・・いずれかなのでしょう。

こんな乱れた時代ですので、聖徳太子は天皇中心に国をまとめることを目標に政治を進めていきます。

特に有名なのが以下の3つの政策です。

  • 603年 冠位十二階
  • 604年 十七条憲法
  • 607年 遣隋使 「む、おんなじゃなかったの? 妹子さん」

冠位十二階

まず冠位十二階は、家柄によらず、才能や功績に基づいて人材を登用する仕組みです。古墳時代の氏姓制度では、どこの氏に生まれるかで出世は決まっちゃいましたからね。

そうやって氏という豪族集団に力をもたせるのではなく、個人に冠位を授けて、個人として天皇のために働いてもらおうというわけです。

十二階というのは、

徳、仁、礼、信、義、智

で、それぞれ大と小があるので2×6で12階級です。大徳、小徳、大仁…という順です。

とくじんれいしんぎち、とくじんれいしんぎち、と何度も言っていれば覚えます。(笑)

そしてそれぞれ決まった色の冠が授けられます。

紫・青・赤・黄・白・黒

この6色で、大のほうが色が濃くなっています。

そして、この12階級を与えた上で・・・次の年。

十七条憲法

「君たちこれ守りなさいよ」ということで十七条憲法です。十七条憲法は役人や豪族の心構えを示しています。

  • 第一条 和を以て貴しとなし…
  • 第二条 篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧となり…
  • 第三条 詔を承けては必ず謹め…
  • 第四条 群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼を以て本とせよ…

という内容です。

三宝は仏教で大事とされている仏、法(釈迦の説いた真理)、僧(仏教を信じる人の集団)のことです。

とは天皇の命令のことです。

「群卿百寮」というのは「群卿=上級の役人」「百寮=その他の役人」くらいの意味です。

たった十七条の中に、仏教、神道、儒教、法家など幅広い教えを取り入れていますので、聖徳太子がいかにたくさん勉強していたかがわかります。ただの「仏教大好き」ではないんです。

遣隋使

そして607年の遣隋使。小野妹子が送られたやつ。

「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」

という国書を送ったことで有名です。

要するに隋の皇帝も、日本の天皇も同じ「天子」で対等だと言いたいわけです。天使じゃありませんよ?(笑)

この「対等」というところが、これ以前の中国との付き合い方と決定的に違うところです。以前は皇帝の臣下になって、「強い皇帝に支配を認めてもらおう」というものでしたからね。そういうのを「冊封してもらう」と言うのでしたね。

ところが聖徳太子は、「天皇が皇帝より下だなんてとんでもない、対等ですよ」と言ったわけです。天皇中心の政治をしたいのに、「皇帝より下なんですよ~」では格好がつきませんから。^^;

もちろん隋の煬帝(ようだい)という皇帝は怒りましたが、黙認せざるを得ず、お返しに裴世清(はいせいせい)という使者を送ってきました。「はいせいせい」って、なんかいい返事をする人みたいですね。(笑)

なぜ黙認せざるを得なかったかと言うと、隋はその時、高句麗と戦っていたからです。この上日本まで敵に回すわけには行かなかったわけです。

それよりも日本と仲良くして高句麗を挟み撃ちにしたいところでしょう。

聖徳太子はそのことを知った上でチャンスを捉えたのでしょう。

607年の遣隋使の最大の目的は「隋と対等な立場で国交を結ぶこと」だったというわけです。

もちろん知識の吸収にも余念なく、その後の遣隋使には・・・って、また小野妹子さんが行くんですけど、高向玄理(たかむこのげんり)、僧侶の(みん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)などが留学生として同行します。

そうして新しい知識を持って帰ります。3人とも、後の大化の改新で大きな役割を果たしています。

以上のごとく。

聖徳太子が生きている間はうまく行っているようなんですが、622年に聖徳太子がなくなると、バランスが崩れていきます。

聖徳太子の死後

つまりさらに蘇我氏が強大化して、天皇家と衝突してしまうというわけです。

そうそう。

蘇我氏の権力の源ですが、天皇の外戚になるというのが一つでしたね。天皇の母方のおじいちゃん=外祖父になります。

三蔵を管理する蘇我氏

もう一つ大事なのが「三蔵(みつのくら)」すべてを管理していたこと。三蔵というのは国の財産を管理する蔵のことです。

三蔵というくらいだから3種の蔵があります。斎蔵(いみくら)、内蔵(うちくら)、大蔵(おおくら)です。

斎蔵は祭祀を行うための財産、内蔵は大王家(天皇家)の財産、大蔵は朝廷の財産を管理します。

これらすべての財産の管理を蘇我氏が任されていたことも、蘇我氏の権力の源となりました。

そんな蘇我氏が、聖徳太子の死後、さらに権力を強め、ついには聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自殺に追い込み、このままでは聖徳太子が目指した「天皇中心の政治」は崩壊してしまいそうです。

隋が滅び、唐が成立

一方で、大陸では隋が滅び、かわって強大な唐が成立していました。聖徳太子が亡くなるちょっと前のことです。

日本も乱れた政治をなんとかしないと、唐に何をされるかわかったものじゃありません。

国際的な問題にもしっかり対応できるような、中央集権国家を一刻も早く作り上げる必要があります。

そこで次の主役、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の登場です。

飛鳥文化

ここで一旦政治関係の話から離れて、聖徳太子の時代を中心とする飛鳥文化に目を向けてみましょう。

飛鳥文化の特徴は以下の2つです。

  • 国際性豊か
  • 仏教中心

「国際性」の例

国際性が豊かだというのは、飛鳥の地が「シルクロードの終点」と呼ばれるくらいで、遠くギリシャの影響も見られるからです。

その代表が「忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)」で、こういう模様。

忍冬というのはスイカズラのことです。

唐草模様は、遠くギリシャやエジプトが起源だと言われています。

同じくギリシャの影響を受けていると言われたものとして「エンタシス」と呼ばれる柱のデザインが挙げられますが、最近ではこれは否定されています。

法隆寺

仏教関係では、何と言っても聖徳太子関係ですね。

まずは現存する世界最古の木造建築である法隆寺。

姫路城とともに日本で最初の世界遺産でもあります。現在の奈良県生駒郡斑鳩町にあります。

607年、遣隋使の年に聖徳太子によって創建されました。

法隆寺は釘を最低限しか使っていないことで有名で、昔は「釘を一本も使っていない」と言っていたこともあります。

は使われているんですが不思議なことに、ほとんど錆びていません。1300年以上も昔の釘がほとんど錆びていないのはすごいですね。現代の釘の耐用年数は30年もないと言われているので驚きです。

ただ残念なことに、法隆寺は一度燃えてしまったそうで、現在あるものは670年に再建されたものだと言われています。

それでも、世界の地震の10分の1が集中する日本で、1300以上も立ち続けているというのは驚くべきことです。

法隆寺と言えば法隆寺金堂釈迦三尊像も有名です。釈迦三尊像、仏様が3人並んでいる仏像ですね。

この釈迦三尊像は、背中に銘文が彫られていて、聖徳太子の病気快癒を願って、聖徳太子の等身大の釈迦如来像を作ったと書かれています。

仏像の大きさからすると、聖徳太子の身長は170センチあまりとなるそうです。当時としては高身長なんじゃないでしょうか。高学歴、高身長、高収入、高身分と三高どころか四高です。(笑)

そして仏像制作を任されたのが鞍作鳥(くらつくりのとり)です。止利仏師(とりぶっし)とも言います。どっちにしても名前は「トリ」さんです。

聖徳太子は仏教について深く幅広く勉強していましたので、仏教経典の注釈書も書いています。それが「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」です。

法華経、維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんきょう)の3つのお経に解説を付け加えた書物を書いたということです。

法華経は日蓮が重視したお経として有名ですね。

「維摩」「勝鬘」というのは人名です。維摩経は維摩さんを主人公とした物語のようなお経で、勝鬘経は勝鬘という王女様が説いた仏教の考え方をお釈迦様が認めたものです。

そんな聖徳太子に仏教について教えた僧侶として、高句麗から渡来した慧慈(えじ)、百済から来た慧聡(えそう)が有名です。

特に慧慈さんは、聖徳太子が死んだことを悲しみ、「私も1年後に死んで聖徳太子と浄土で会うんだ!」と言ってちょうど1年後に言葉通り亡くなったそうです。

聖徳太子が造らせたお寺としては他に、大阪市の四天王寺があります。

聖徳太子以外

法隆寺のすぐ東隣にある中宮寺は、聖徳太子または聖徳太子のお母さんの穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が創建したと言われています。他でもない中宮寺の説明ではお母さんの方になっています。

他の豪族もそれぞれ氏寺を造ったので、この時期のお寺は多いのですが、聖徳太子以外では蘇我氏の飛鳥寺(あすかでら)が有名です。奈良県高市郡明日香村にあります。

仏教以外では、百済の僧侶の観勒(かんろく)が暦法や道教の知識(天文遁甲など)を伝えたとされています。

高句麗の曇徴(どんちょう)は紙や墨、絵の具の作り方を伝えたと言われていましたが、現在では疑念が持たれています。それでも仏教の僧侶でありながら儒教や工芸にも詳しい才能豊かな人だったという評価は変わりません。