古墳時代のまとめ~大王と氏姓制度

最初に古墳時代のまとめです。

  • 時期…3世紀後半~6世紀末
  • 4世紀…九州から関東まで支配
  • 5世紀…さんちんせいこうぶ!
  • 6世紀…蘇我氏強大化
  • ヤマト政権…大王中心の豪族連合政権
  • 氏姓制度による秩序
  • 大王…屯倉で田部、子代、名代
  • 豪族…田荘で部曲
  • 前方後円墳に埴輪
  • 「ワカタケル大王」の鉄剣…稲荷山古墳、江田船山古墳
  • 5世紀に漢字と儒教、6世紀に仏教公伝
  • 神社も増える

古墳時代はいつからいつまで?

古墳時代の始まりについては、弥生時代最後の3世紀後半から、聖徳太子が摂政になって政治を始める593年まで、とおぼえておけばいいでしょう。593年以後は飛鳥時代です。

3世紀からいわゆる「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」が現れ始めます。

初期の前方後円墳として有名なのは奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)です。

この古墳は「卑弥呼の墓では?」と言われることもありますが、一般には倭迹迹日百襲姫命の墓とされています。

倭迹迹日百襲姫命・・・

えーと、読めません。^^;

「やまとととひももそひめのみこと」

と読むそうです。

読めるかーっ! 縮めると「ももそひめ」となるそうです。

それはさておき。

このモモソヒメの箸墓古墳が造られたと考えられる3世紀後半から、徐々に前方後円墳が増えてくるので、ここから古墳時代。

聖徳太子の頃から飛鳥の地が政治の中心になるので飛鳥時代。だから古墳時代はそこまで。

と、おぼえておくのがわかりやすいです。

空白の4世紀

次の4世紀には、大和地方を中心とする勢力が、九州から関東辺りまで、勢力を及ぼすようになったと言われています。

この大和を中心とする勢力をヤマト政権と呼んだり大和朝廷と呼んだりします。大王(おおきみ、だいおう)を中心に豪族と呼ばれる有力者が連合した政権です。

大王というのは現在の天皇の先祖です。

※なぜ教科書などで「ヤマト」とカタカナ表記になったのかというと、昔は「大和」と表記しなかったからだそうですが、そもそもカタカナなんて存在しない時代だからカタカナ表記に変える必然性も感じられませんよねぇ。

この時期、中国は南北朝時代の戦乱で、のんびり日本のことなんか記録している暇はありませんでした。

だから日本についての記録がありません。ということでよくわからない時代、「空白の4世紀」なんて呼ばれたりします。まっしろ。

ただ4世紀終わりの記録が、石碑にちょっとだけ彫られていました。

それが「高句麗好太王の碑文」です。好太王(こうたいおう)は広開土王(こうかいどおう)ともいいます。

高句麗(こうくり)は当時朝鮮半島北部を支配した国ですが、好太王の碑文がある場所は現在は中国国内となっています。

好太王って、えーと・・・「太王四神記」という韓国産ファンタジードラマでヨン様が演じていましたね。太ってそうな名前ですが太っていません。かっこいいです。(笑)

(わ、日本)が海を渡って攻めてきて、高句麗と戦ったということが碑文に書かれていますが、記録が少なすぎて、正確なことはわかっていません。

倭の五王の5世紀

古墳時代は3世紀後半に始まり、4世紀にはヤマト政権が日本の大部分を支配し、4世紀終わりには、大陸に軍を送れるほどの勢力を持つようになった。

そして次の5世紀は、古墳が巨大化することから、ヤマト政権の力が特に大きくなった時代だと考えられています。

ここで出てくるのが有名な「倭の五王」です。再び中国の歴史所に日本のことが出てくるようになったというわけです。

「宋書倭国伝(そうじょわこくでん)」にこの5人の王様の名前が出てきます。

讃・珍・済・興・武

です。

さん・ちん・せい・こう・ぶ

です。

さんちんせいこうぶさんちんせいこうぶさんちんせいこうぶ・・・って呪文のように何回も言っていると覚えます。(笑)

最後の雄略天皇またの名をワカタケル大王とされています。「倭王武の上表文」というのが有名です。

上表文の内容は、南朝の宋の皇帝に対して「高句麗に対して優位に立ちたいから、安東大将軍とか倭王とかいろいろな称号を認めてほしい」というものです。

日本と仲が良かった百済の王様が、高句麗に殺されるような時代でしたので、武としても宋の後押しが欲しかったのです。

あ、ちなみに、当時の朝鮮半島は大きな3つの国と、あと南の方に小国家がいくつかある伽耶(かや)と呼ばれる地域がありました。

三国は、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)です。

さて。

5世紀には朝鮮半島にも勢力を伸ばすほどだったヤマト政権ですが、どんな仕組みで成り立っていたのかという話ですね。

氏姓制度とは

氏姓制度という仕組みです。「しせいせいど」です。「しせいどう」じゃありません。

(うじ)というのは、「祖先が同じ」と信じている人たちの集団です。

(かばね)は身分や役割を表す称号で、氏ごとに大王から与えられます。

つまりどこの氏=グループに生まれるかで身分は決まるというわけです。

最高級の姓が(おみ)、(むらじ)で、臣を与えられた氏として有名なのが蘇我氏です。あの蘇我馬子とかの蘇我氏。連で有名なのがライバルの物部(もののべ)氏大伴(おおとも)氏です。

臣連の下にたくさん姓がありますが、混乱しそうなのでここでは取り上げません。^^;

まあとにかく、この氏姓制度によって、大王は豪族たちをまとめていたというわけです。

私地私民

土地や人民は、大王も豪族もそれぞれ「自分のもの」を持っていました。私有地、私有民です。私地私民と言ってもいいですね。

大王の土地を「屯倉(みやけ)」といいました。屯倉の土地で大王のために農耕する民を「田部(たべ)」と言いました。農耕以外にもいろいろ作ったりするお仕事がありますが、そういう仕事をする人は「子代(こしろ)、名代(なしろ)」と言いました。

それに対して豪族の私有地は田荘(たどころ)、私有民は部曲(かきべ)と呼ばれました。

  • 大王・・・屯倉で田部、名代、子代が働く
  • 豪族・・・田荘で部曲が働く

部曲ってねぇ、「かきべ」っていう読み方からすると漢字の順番が逆ですよねぇ。田部はすなおに「たべ」なのに。漢字で書く時、間違いやすいですので注意。「ぶきょく」って覚えておけば良さそうです。

「屯倉」は土地をイメージする言葉ではないので覚えにくいですね。

おおきやけ

と、尻取りでくっつけておくとちょっとだけ覚えやすくなります。

さて。

6世紀、蘇我氏の強大化

大王は氏姓制度によって豪族をまとめていました。

まとめていたんですが・・・6世紀になると、これが乱れてしまいます。

豪族の力がどんどん強くなり、豪族同士の争いが激化します。

また九州の筑紫国で国造(くにのみやつこ)の磐井氏が反乱を起こします。国造というのは地方を治める人に与えられる称号です。

豪族同士で争い、最終的には蘇我氏が大きな力を持つようになります。

そしてとうとう6世紀終わりには蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺されてしまいます。日本史上唯一の天皇暗殺事件です。

こんなことではいけないということで・・・次に登場するのが聖徳太子です。飛鳥時代に移ります。

古墳文化

ここまでは政治の話が中心でしたので、次は文化に行きましょう。この時代の文化はそのまんま「古墳文化」と呼びますが、古墳と関係ないものもあります。

前方後円墳と埴輪

まず古墳文化というくらいなので古墳です。一般に「お墓」とされています。

前方後円墳というのは「前がシカク、後ろがマルの古墳」という意味です。

最大のものが大阪府堺市にある大仙陵古墳です。仁徳天皇陵と言われていますが、そう言い伝えられているだけで、発掘&確認したわけではありません。というか天皇のご遺体を発掘するとか、畏れ多くてできないでしょう。

古墳とセットになっているのが埴輪(はにわ)です。副葬品となっていたり、古墳の周りに並べられたりします。人間だけでなく馬の埴輪もあります。

円筒埴輪という面白くない形の埴輪もあります。

一節によると、昔々は偉い人が死ぬと、葬る際に奴隷を一緒に生き埋めにしていたものを、それではあまりにひどいということで埴輪に変えた、という話があります。

あ、そうそう、縄文時代の土偶と古墳時代の埴輪がよくゴッチャになりますので気をつけてください。全然時代が違います。

土偶と埴輪が殴り合ったらきっと土偶は砕かれてしまいます。^^; ザクとゴッドガンダムくらい違います。(笑)

副葬品としては、埴輪以外にもはじめの頃は鏡や玉など呪術的なものが多かったんですね。でもだんだん、武器とか馬具とか、武力を示すようなものが増えてきます。

武器といえば「ワカタケル大王」と彫られた鉄剣が有名です。埼玉県行田市の稲荷山古墳と、熊本県玉名郡和水町(なごみまち)の江田船山古墳で見つかっています。

つまり、埼玉県にも熊本県にも、大和のワカタケル大王=武=雄略天皇の力が及んでいたということですね。

渡来人と漢字、儒教、仏教

あとこの時代は、百済と仲が良かったこともありますし、大陸は戦乱続きだったので日本に逃げてきた人もいたでしょうし、ということで渡来人が多い時代です。

それでいろいろなものが大陸から伝えられたわけですが、特に大事なのが漢字と儒教と仏教です。

トライだけに教えるのが得意なのでしょう・・・

さておき。

漢字と儒教が公式に伝えられたのは、5世紀だとされています。百済の王仁(わに)という人が千字文と論語を日本に伝えたとされています。

ワニさんに漢字を習うシーンをイメージすると、なんだか変な気分になりますが。(笑) 印象には残りやすいです。

儒教というのは中国の孔子という思想家の教えです。ワニさんは5世紀ですが、6世紀には「五経博士」が五経を伝えました。五経博士というのは五経を教える官職です。

五経も儒教の経典で「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」の5つ。

次に仏教ですが、これが公式に伝えられたのは538年または552年だとされています。まあ近いし、どっちでもよさそうですね。百済の聖明王の使者が仏像や経典を欽明天皇に献上したとされています。

ここで仏教受容派の蘇我氏と反対派の物部氏が対立しますが、蘇我氏が勝利します。

儒教も仏教も、現在に至るまで、日本人の生き方に影響を与え続けています。

あ、上記は「公式」に伝えられた時期であって、非公式にはもっと前から伝わっていたと考えられます。

伝統的な信仰は?

仏教を受容して伝統的な信仰はなくなったのかというとそうではなく、豪族たちが「氏神」を祀るために神社を作りますので、神社が増えてきます。

また呪術的なことも相変わらず行われていて、鹿の肩甲骨を焼いてひび割れを見て占う太占(ふとまに)なんてあったそうです。

裁判では盟神探湯(くかたち)という方法もあったと言われています。これは、争っている者同士の手を熱湯に入れさせるという豪快な裁判法です。(笑)

それでどうなるかというと、正しい方は神様に守られて手をヤケドしないはずだというわけです。

でもまあ、手を入れる前にウソついてた方は白状するでしょうね。(笑) だから意外と合理的なのかもしれません。

古墳が作られた本当の理由?

ここからは教科書の範囲を超える話。

そもそも古墳は墓として造られたわけではないという説があります。

なぜそんな説があるのか?

たとえば仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳は、古墳としては最大のものです。

一方で、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれるほど、人民思いの天皇だったと伝えられます。

人民の困窮を見て、3年間課税をストップしたなんて話が有名です。

その人民思いの天皇が、自分の墓を作るために、しかもあんな大きな墓を造るために、多くの人民を使役するだろうか?という疑問が持たれるからです。

どうも、納得がいかない。

お墓ではなかった

そこで、古墳はそもそも古墳=墓として造られたのはなかったという説が出てきます。

じゃあ何のために作ったのかというと・・・

仁徳天皇は、国を豊かにするために開墾や灌漑・治水工事を盛んに行っています。

そうすると「不要な土砂」がたくさん出てきます。

その、不要な土砂を決められた場所に積み上げていった結果、古墳のもととなる小山ができたというわけです。

で、ただ適当に積み上げるだけではいつ崩れるかわからないので、決められた手順に従って積み上げて成形もしたと。

だからこそあんな形で、特に大きな古墳の周りには崩れたときに備えて堀があったりします。

仁徳天皇は開墾を盛んに進めたからこそ、最大の盛り土ができました。

それで仁徳天皇が亡くなった後は、その業績の証である最大の盛り土の上に葬られて、いつでもどこからでも手を合わせられるようにした、というわけです。

大仙陵古墳の周りに、誰のものかわからない大小の古墳がたくさんあるのは誰も葬られていないからで、古墳ではなくただの盛り土だということ。

やがて古墳が造られなくなるのは、灌漑工事を進めた結果、用水路が各地に増えて、余った土砂を舟で運ぶことが簡単になったからです。

他の場所に運んで堤防を造ったり埋め立てに使ったりできるようになったと。

古墳は最初から古墳=墓として造ったというより、開墾の結果、という方が説得力がありますね。