このページの目次
最初に弥生時代についてまとめましょう。
- 時期…紀元前10世紀~紀元後3世紀
- 稲作本格化※登呂遺跡、田下駄、石包丁、高床式倉庫
- 金属器…青銅器=宝具・祭器、鉄器=実用
- 弥生土器…縄文土器に比べ薄くて堅い、実用的デザイン
- 貧富の差、身分の違いが生まれる
- 争いが増える→環濠集落※吉野ヶ里遺跡
- 1世紀…金印※後漢書東夷伝
- 3世紀…邪馬台国、卑弥呼※魏志倭人伝
弥生時代はいつからいつまで?
弥生時代の始まりは稲作が本格化した時期ということで、紀元前1000年ころと考えられています。
昔は「弥生時代は紀元前3世紀から」と習ったものですが、ずいぶん早まりましたね。^^;
これは、2003年に福岡市や唐津市の水田遺跡から発掘された炭化物を、炭素14年代測定法で調査した結果わかったことです。
遺跡として残るような水田を造っているくらいだから、このあたりから稲作は本格化しているのだろうということです。
単に「始まった」だけなら岡山県の遺跡で6000年前の証拠が見つかっているという話でしたね。
弥生時代の終わりは紀元後の3世紀頃となっています。
紀元前10世紀から紀元後3世紀が弥生時代
と思っておけばいいでしょう。
鉄器と青銅器の用途
「じゃあ金属器はいつごろから?」
ということになりますが、金属器は稲作開始よりずっと後です。
紀元前4世紀頃からではないかと考えられています。
大陸から鉄器と青銅器が伝えられたのがそのころであると。青銅は銅と錫(すず)の合金です。
紀元前4世紀は、中国は戦国時代ですので戦乱を逃れて日本にやってきた人が金属器を持ってきたのかもしれません。
金属器には鉄器と青銅器があるわけですが、鉄のほうが硬いので実用的、青銅は鉄に比べて柔らかいので加工しやすく祭器や宝具に適していたと考えられています。
だから鉄器は工具や武器に使う。
青銅器は銅剣や銅矛は見た目は武器だけど、実用ではなく、儀式で使ったり宝として所持したりしていたと。
- 鉄…実用!
- 青銅…カッコつけ用!(笑)
という感じでしょうか。
銅鏡や銅鐸(どうたく)が祭器や宝具であるというのは想像しやすいですね。
銅鐸ってこんな、お寺の鐘がスリムになったようなやつ。「鐸」というのは手に持って鳴らす鐘のことです。
手に持って鳴らす鐘と呼んでいる割には、何に使ったのかははっきりとはわかっていません。
だから「なにか儀式に使ったんじゃないの?」くらいに思われています。
まあ何かあって弥生時代に大流行したのでしょう。
今の時代だって意味不明に大流行するものもあるので、何の不思議もありません。
ということで弥生時代の特徴として重要なのが稲作と金属器という話でした。
弥生土器がシンプルなわけ
あともう一つ。
弥生土器ですね。
名前の由来は縄文のように模様ではなく、発見された場所の地名です。現在の東京都文京区弥生、東大農学部がある場所でみつかりました。
縄文土器と比べた場合の弥生土器の特徴は、以下のように言われます。
- 高温で焼かれている
- だから薄いわりに堅い
- 単純で実用的なデザイン
- 赤褐色
特に、縄文中期のデザインに凝りまくった火焔土器なんかと比べると、ツルンとしてて単純で面白みがないのが弥生土器です。^^;
こんな感じ。
弥生時代は争いが増えた時代ですので、デザインなんかに凝っている余裕はなくなってしまったんでしょうかね。
すごくデザインに凝った土器を作ってたら
「遊んでんじゃないよ!」
なんて、偉い人に怒られたり。^^;
それから。
農具は木と石が多い
稲作が本格化したということなので、農具にも注目します。
- 田下駄
- 木鍬(きぐわ)、木鋤(きすき)
- 石包丁
- 竪杵、木臼
田下駄というのはこんな感じ。
まあ、板に穴を開けただけに見えますが。^^; これを履いて田んぼに入って、沈まないようにしたわけです。
弥生時代の田んぼは、最初の頃は湿田です。湿田というのは常に水がある田んぼで、水を抜くことができません。湿地をそのまま利用します。
これだと特にズブズブとはまって作業が大変ですので田下駄を履いたというわけです。
で、田んぼに種籾をまきます。田植えはせず、直播きです。
木鍬は木で作ったくわです。木鋤は、まあ木で作ったシャベルみたいなものと思っておけばいいでしょう。
石包丁は磨製石器の包丁ですが、これで稲穂を刈り取りました。穂首刈りと言います。ただ、弥生時代後期には鉄鎌も普及して根刈りが可能になったと考えられています。
竪杵というのは、お餅をつく杵のようにハンマーみたいな形ではなく、ただの棒のような形ですが、真ん中あたりは手で握りやすいように少し細くくびれています。
木臼に稲穂を入れて、竪杵でついて脱穀したというわけですね。
登呂遺跡の高床式倉庫
こういう、稲作の跡が見つかった遺跡としては静岡県の登呂遺跡が有名です。トロですがネコでもマグロでもありません。遺跡です。
登呂遺跡では水田跡や各種農具の他に、稲を蓄えたであろう倉庫の跡も見つかっています。
高床式倉庫というやつ。
なぜ高床かと言うと、地面に密着しているとジメジメして米が傷みやすいし、ネズミなんかにも狙われやすいからです。
高床式倉庫と言うと、倉庫の脚の部分に「ねずみ返し」がついていることで有名ですね。
上の画像でも、脚の付け根の部分に板が取り付けてあるのが見えますが、これがねずみ返しです。
で、その板に「ネズミお断り」と書いてあります・・・・・・ごめんなさいそれはウソです。
ということで。
ここまでは道具や建物の話でしたので、次は社会的な変化について。
なぜ貧富の差、身分の違いが生まれたか?
まずよく言われることですが稲作が本格化することで貧富の差や身分の違いが生まれたということ。
米は蓄えることができますし、たくさん収穫できればそのぶんたくさん蓄えられます。また良い土地を持っているかいないかという違いも大きいです。
そういうところから良い土地をたくさん持っていて米をたくさん蓄えられる人たちとそうでない人たち、貧富の差が生まれます。
また、良い土地を見つけたらそこから離れたくないですから、定住する人が増えます。
多くの人が一箇所に集まって定住するようになると、指導する人と指導される人という立場の違いが生まれます。
それが強く出れば指導ではなく「支配」ということになるでしょう。
そしてその立場の違いが、世代が変わっても固定されるようになると「身分の違い」ということになります。
弥生時代は争いが増えた時代ですので、「強力な指導者」を求める人も多かったでしょうから、身分の違いも生まれやすかったでしょう。
お墓も変化する
弥生時代にはいろいろな形のお墓が作られていて面白いですが、お墓にも身分の違いを思わせるようなものがあります。
大きなカメに死者を入れて葬るものを甕棺墓(かめかんぼ)と言います。例によって、手足を折り曲げた屈葬の形で中に人を入れます。
甕棺などで埋葬した上に、大きな石を組み合わせて墓石としたものを支石墓と言います。今の墓石と違ってテーブル状に組み合わせたりします。
お墓のエリアを四角形(方形)の溝で囲んだものを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と言います。一つの方形周溝墓に複数の人が葬られていたりするので家族用なんじゃないかと考えられています。
大型の方形周溝墓も見られるようになり、身分の違いを感じさせます。
弥生時代の終わりには、さらに身分の違いを思わせるような大型墳丘墓も見られるようになります。
争いに備えた集落…吉野ヶ里遺跡
次は争いについて。
何から争いが増えたことが推測できるのかを挙げてみます。
- 防衛を考えた集落の跡が見つかる
- 戦いで傷つけられたと思われる骨が見つかる
- 後漢書東夷伝や魏志倭人伝の記述
主にこの3つです。
防衛を考えた集落には環濠集落や高地性集落があります。
環濠集落というのは周りを濠(ほり)で囲った集落です。
佐賀県の吉野ケ里遺跡が有名ですが、吉野ヶ里遺跡には物見櫓のあともあったりして完全に敵襲を警戒した作りになっています。^^;
あ、「よしのげり」じゃなくて「よしのがり」ですよ!
高地性集落というのは単純に高いところに作った集落で、地形的にいかにも戦いに備えている集落です。
ただ、明らかに稲作には不便ですので、非常事態のときだけ使ったのかもしれませんね。
争いが増えた原因としては
土地が重要になったから
ということが言われます。稲作には水も含めて良い土地が必要で、その土地を奪い合ったというわけです。
弥生時代と言うと、中国では春秋戦国時代、秦、漢の時代で戦乱も多かったので、その争いの影響もあったかもしれませんね。
で、その中国です。
漢書、後漢書、魏志
弥生時代は、国内には文字記録が残っていませんので中国の史料に頼ることになります。
無料で記録してもらっているのだから(笑)、多少不正確でも、想像が混じっていても文句は言えません。^^;
大事なのは以下の3つの歴史書です。
- 漢書地理志…BC1世紀頃の日本の記録
- 後漢書東夷伝…AD1~2世紀頃の日本の記録
- 魏志倭人伝…AD3世紀頃の日本の記録
つまりこの3つで-1、1、2、3世紀の日本の記録が見られるということです。まあ、書かれている中身は少ないけど。
漢書地理志には、楽浪郡よりさらに向こうの海上に倭人(わじん)=日本人が住んでいて100あまりの国に分かれていると書かれています。
弥生時代、日本には無数の集落があったでしょうが、その中でも100あまりが「くに」と呼びうるような規模まで成長したということです。
金印もらって何が嬉しいの?
後漢書東夷伝では倭にある奴(な)という国の王が漢皇帝に朝貢してきたので印綬を与えたと書いてあります。西暦でいうとAD57年のことです。
この印が、江戸時代に福岡県の志賀島(しかのしま)で見つかった「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印です。
金印に彫られている文字を見ると、漢が日本をどう思っていたのかがわかります。
漢の倭だから、倭は漢の支配下にあるという扱いです。その倭の中にあるさらに小さい国の奴の国王だと、皇帝が認めてやるよ、という証が金印です。
ちなみに印にはオリンピックメダルよろしく金銀銅とあって、金が最高級で銅とは天地の差があると言われます。
朝鮮半島の国々でさえ金印はおろか銀印ももらっていないので、いかに漢が日本を重視していたかがわかります。
以上のように皇帝の「臣下」となって支配を認めてもらうことを「冊封(さくほう、さっぽう)される」と言います。
皇帝に認めてもらうことで、奴国王は周りの国々に対して優位に立てたのでしょう。
「へっへー、オレのバックには皇帝がついてるんだぜ? そのオレ様に逆らうの?」
という感じですね。(笑)
また、金印をもらってちょうど50年後の西暦107年には、倭国王の帥升(すいしょう)という人が、漢の皇帝に160人もの生口(せいこう)=奴隷を献じたと書かれています。
また、時代が飛びますが2世紀後半には「倭国大乱」と書かれています。日本での争いが激化したということなのでしょう。
邪馬台国の女王卑弥呼
そして次が有名な魏志倭人伝。
魏志というのは魏呉蜀の三国志の一部です。三国志の中の魏の歴史の記録、そのまた一部の倭人伝ということ。
これには卑弥呼を女王とする邪馬台国が30あまりの国をまとめていると書かれています。
また卑弥呼も西暦239年に魏に朝貢し、金印や銅鏡をもらったことが書かれています。「親魏倭王」という称号をもらったとのことですが、こちらの金印はみつかっていません。
卑弥呼が死んだ後は男性が王となったけど、その途端に争いが激しくなったので壱与(いよ)という卑弥呼の親族の少女を王にすると、争いが収まったとも書いてあります。
壱与はこの時13歳だということなので、今でいうと中学1年生ですね。日本人は大昔からロ(略
さておき。
邪馬台国が弥生時代の最後を飾った後は、古墳時代(大和時代)となりますが、邪馬台国と次の大和政権のつながりは定かではありません。
これは「邪馬台国がどこにあったかわからない」ことも一因となっています。
魏志倭人伝の記述のとおりだと、海の中に邪馬台国があったことになってしまうので、まさかムー大陸というわけにもいかないし、学者さんは困ってしまいます。
とりあえず九州説と近畿説がありますが、弥生時代にはどちらの地域にも強い国が存在したという記録もありますので、どっちがどっちだか、ますますわからないというわけ。
弥生時代の変化の理由、教科書には書かれていない説
縄文時代までは日本人は極めて平和に暮らしていたと考えられています。
たとえば2016年に発表された山口大学と岡山大学の共同研究の結果によると、縄文時代の「暴力死亡率」は1.8%で、これは他国や他時代の平均と比べると5分の1以下です。
日本人は1万年以上の長きにわたり、平和に暮らしていたことになります。1万年以上ですよ! これが本当なら日本人の「平和主義」はもうDNAに刻み込まれていると言ってもいいほどです。
それが、弥生時代になって、稲作が本格化したからと言って、突然変わるのは不自然だと考える人も多いです。
それで、稲作とは別のずっと大きな要因があったのではないかという説があります。
弥生時代は、中国の春秋戦国時代から秦漢、三国時代と争いの多い時代と重なっています。
大陸では何百年も戦乱を繰り返しているのだから「戦うのが普通」という人が多くても何の不思議もありません。
それで大陸から・・・平和的な縄文人とはまったくちがう「好戦的」な人々が移ってきて、その影響で日本でも闘いに備えなければならなくなった、という説です。
そして日本でも争いが増え、
- 強い指導者が必要だから身分の違いが生まれ
- 集落の設計も防衛を意識したものに変わり
- 土器だってデザインに凝っている場合じゃなくなった
というわけです。
どの説が正しいのかは、これからの研究を待つしかありませんが、説得力のある説ではありますね。