縄文時代のまとめ~世界最古の土器

では最初に縄文時代についてまとめておきましょう。

  • 時期…16000年前~3000年前
  • 氷期が終わって温暖化
  • 縄文土器の使用が最大の特徴
  • 磨製石器、骨角器も使う
  • 竪穴住居に住む
  • 土偶…お祈りに使った?
  • 抜歯…儀式?
  • 大森貝塚…モースが発見
  • 三内丸山遺跡…長期間続いた大規模集落跡

縄文時代はいつからいつまで?

縄文時代の始まりは、およそ16000年前となっています。

まあね、私が子供の頃は「1万年前から」とか習っていたので、また新しい発見があれば変わるかもしれませんが・・・

縄文時代と言えば「土器の出現」ですね。土器が作られるようになってからが縄文時代。

「縄目の文様」がつけられているから「縄文」という名前になりました。じゃあお花畑が刻まれていたら「お花畑時代」なんて素敵な名前になったのでしょうか?(笑)

それはさておき。

世界最古の土器

今のところ、青森県の大平山元遺跡16500年前の世界最古級の土器が見つかっているということで、そのあたりからを縄文時代と考えています。

世界最古「級」とはまた歯切れの悪い話ですが、中国でもっと古い土器がみつかったかもしれないからです。

「かもしれない」というのは、日本の専門家にはその土器を見せてもらえないし、現在は現物は「盗まれた」とのことで確認しようがないからです。

そんなことはさておき。

およそ16000年前に縄文時代は始まりました。

で、縄文時代の終わりは弥生時代の始まりなので約3000年前、紀元前1000年ころです。

これもねぇ、私が子供の頃は紀元前300年とか習ったんですけどねぇ、ずいぶん変わりましたね。

つまり縄文時代は16000年前~3000年前ということになります。

縄文時代の6区分と縄文土器の特徴

まあ長いですので、縄文時代をさらに6区分することも多いです。

  • 草創期…16000年前~
  • 早期…12000年前~
  • 前期…7000年前~
  • 中期…5500年前~
  • 後期…4500年前~
  • 晩期…3300年前~

という区分がありますが、学者さんによってちがうのでそれほどはっきりした区分でもありません。

6つとか・・・おぼえにくいですね。^^; 前中後だけならいいのに。(笑)

前中後の前に2つ、後に1つくっついてると覚えておけば良さそうです。

この6区分は土器の特徴によって分けられています。

特徴を単純に説明すると、

草創期…丸底

早期…尖底(とがった底)

 

前期…平底

中期…複雑なデザイン※火焔土器

後期…用途に応じたデザイン※注口土器

晩期…西日本は単純、東日本は凝ったデザイン※亀ヶ岡式土器

こんな感じです。もちろん、全部が全部そうだというわけではありません。各時期色々なデザインがあります。

縄文土器全体の特徴としては、

  • 低温で焼かれている
  • 厚手で黒褐色

とよく言われます。あの、「低温」と言っても、「弥生時代に比べれば」という話です。火で焼くことに変わりありませんので手を突っ込んだりすると大やけどします。(笑)

縄文人の生活

次は縄文人の生活の様子について見ていきましょう。まずは住居からです。

竪穴住居

縄文時代になると「竪穴住居」が一般的になります、「堅穴」ではなくて「竪穴(たてあな)」です。「竪穴式住居」ということもあります。

なぜわざわざ穴を掘ったかと言うと、「現代の家のような垂直の壁を作るのは大変だから」という説があります。

だから地面に縦に穴を掘って、穴の壁をそのまま家の壁としたということです。で、穴にかぶせるように屋根を作るというわけ。

磨製石器、弓矢、骨角器

次に縄文時代の道具についてですが、土器はもう説明したので土器以外の道具について。

まず、石器は相変わらず用いられますけど、磨製石器が増えます。

磨製石器は打製石器のように黒曜石などの石を打ち割っただけでなく、割った後に研磨して形を整えてあるものです。

それで、縄文時代は日本における新石器時代だと言われます。

日本では鏃(やじり)として使った石器で、世界最古のものが見つかっています。弓矢を発明したのは日本人かもしれないというわけです。

なぜ弓矢が必要になったのかと言うと、狩りで狙う獲物が小型化したからです。

氷期が終わって間氷期に入り、縄文時代は旧石器時代より暖かくなります。

それで、寒さに適応していたナウマンゾウやオオツノジカはいなくなって、それより小型ですばしこい動物が増えます。

そういう動物に対して、槍とか斧とか持って追いかけても追いつけるはずはありませんので弓矢で狙う、というわけ。

そういう狩りをするために、犬を飼うようにもなりました。ペットとしては猫よりも犬のほうがずっと古いんですね。

骨角器も盛んに用いられます。文字通り骨や角を素材とした道具です。釣り針なんかを土器や石器で作るのは至難の業ですが、骨角器なら簡単です。

網につけるような錘(おもり)も見つかっています。土錘、石錘というものです。素材は土または石ですね。だから網を使って漁をしたんじゃないかと考えられます。

以上のような道具を使って、基本的には狩りや漁、採集で生活していたと考えられています。

土偶

さて、縄文時代と言えば土器だと最初に言いましたが、縄文時代の土器と言えば忘れちゃ言えないのが・・・そう、みんな大好き土偶ですね。

こんな・・・

メガネを掛けたような土偶がすぐ思い浮かぶんじゃないでしょうか。遮光器土偶というやつですね。

宇宙人に見えるかもしれませんが地球人の女性です。(笑) いや、そう言われているだけなんですけどね。縄文美少女がこんな外見だとちょっとショックですね。(笑)

おまじないとかお祈りに使うために作られたんじゃないかなんて言われますが、本当にデザインは多種多様ですので、用途も色々あったんでしょうね。

子供が遊ぶために作った土偶なんてのもあってもよさそうです。

不思議なことに、土偶ってほとんどが女性をかたどったもので、男性土偶って希少なんです。日本人は昔から女性を崇めていたんでしょうか。(笑)

信仰

縄文時代の信仰として「アニミズム」という言葉が出てきますね。日本語では「自然信仰」とか「精霊信仰」とか言います。

まあ、自然のあらゆるものに霊が宿っているという信仰です。

土偶などが見つかることからそういう信仰があったんじゃないかと言われていますが、はっきりしたことは当時の人に聞かなければわからないでしょう。(笑)

でもそこから日本の「八百万神信仰」につながるといわれると納得したくなります。

信仰とも関係ありますが「屈葬」というのも出てきます。これは死んだ人の手足を折り曲げて葬るという方法です。

これは死者の霊があっちこっちにいって迷惑をかけないようにするためなんて説がありますが、それだとちょっとひどい話ですよね。

だって、死んだ後は死体にずっと縛り付けておいてやろうという考え方ですから。

なので、赤ちゃんの姿を真似ることで再生を願ったという説もあります。こっちのほうが優しい世界ですね。

まあ手足折り曲げたほうが場所を取らないからという単純な理由も考えられますけどね。

抜歯

あと、不思議なことに「抜歯」の風習も始まります。

なぜそんなことをしたのか、真実は当時の人にしかわかりませんが、成人の儀式をはじめとして、結婚とか家族の死去とか、事あるごとに儀式として歯を抜いたんじゃないかと考えられています。

当時は歯を抜くということ自体命がけだったでしょうし、食べ物も硬かったはずなので満足にものを噛めなくなって、寿命が縮む、ということもあったでしょうに、まったく謎ですね。

縄文時代の遺跡

では次、縄文時代の遺跡です。

大森貝塚

まず有名なのがなんと言っても大森貝塚。

明治時代はじめ、エドワード・モースが新橋横浜間を走る蒸気機関車の中から見つけたというあれです。視力いいですね。(笑)

まー、それまでは日本人は誰も気づかなかったものを、モースさんは汽車の中から見つけちゃったわけです。「あ、貝塚だ」って。面白いですねぇ。

貝塚というのは貝殻がたくさん見つかるからそう呼ばれます。でも貝の巣っていわけじゃありません。「ゴミ捨て場」です。

当時の人が捨てたゴミを調べればどんな生活をしているかわかるというわけですね。今でも探偵さんがゴミを調べたりするのと一緒です。

貝塚でポテトチップスの空袋が大量に見つかったら、

「ああ、縄文人はポテチ食べまくってたんだな」

とわかるわけです。(笑)

まあさすがにポテチの袋は見つかりませんでしたが。

貝殻が大量に出てきたということは貝をたくさん食べてたんだということが推測できます。貝って今はけっこう高いですからね。縄文人は意外に食生活豊かですね。

鳥浜貝塚

「当時の生活がわかる」という点では、福井県の鳥浜貝塚も有名です。保存状態が良かったので「縄文のタイムカプセル」なんて呼ばれています。

ここもマグロとかカツオとかブリとかタイとかの骨や鱗が見つかっていて、いいもの食べてたんだなぁ、という感じです。なんかおなか空いてきましたね。

フグの骨も見つかってるそうですが・・・味はそりゃ美味しかったでしょうけど、毒は大丈夫だったんでしょうかねぇ。食べたんじゃなくて毒を利用していたとも考えられますね。

三内丸山遺跡

あと、縄文時代に関しての「常識」を覆した遺跡として三内丸山遺跡があります。

三内丸山遺跡は縄文時代にしては非常に大規模な集落跡なんです。

縄文時代と言えば、「多くても十数人くらいで移住生活してたんだよね」というのが常識だったわけですが、三内丸山遺跡は、

  • 最大で500人程度
  • 同じ場所で1000年以上

という、縄文時代にしては空間的にも時間的にも非常識に大規模でした。

5100年前から3800年前まで、1300年も続いたと考えられています。

縄文時代に、1300年も同じ場所で集落が続いてるって、すごくないですか?

今から1300年前って言うと奈良時代の始まりですが、奈良時代から現在まで同じ場所に同じ村がずっとあります、とそんな感じでしょ?

すごいですよねぇ。

しかも、「縄文時代の人って農業知らないんだよね」と思っている人が多い中、クリを始めとしていろいろな作物を栽培している跡も見つかりました。

大建造物の跡も見つかって、高度な建築技術を持っていたこともわかりました。

ということで三内丸山遺跡が見つかったときは、みんなびっくりしたというわけ。

縄文時代に稲作は始まっていた

私が子供の頃の教科書には、稲作は紀元前3世紀頃始まって、そこが弥生時代のスタートになったと説明されていました。

ところがその後、もっと前から稲作をやっていたという発見が相次ぎ、現在では弥生時代の始まりは紀元前1000年頃という説が有力になってきました。

稲作はどこから伝えられたか

また、昔の教科書には、稲作は中国大陸から直接伝わったか、あるいは朝鮮半島を経由して伝わったかのどちらかだと書かれていました。

ところが最近の研究では、遺伝子を対象にした調査が可能になり、朝鮮半島から稲作が伝わったという説はなくなってしまいました。

朝鮮半島の稲作は、中国側からと日本側から、つまり北と南から伝えられたものだということがわかりました。

朝鮮半島から伝えられたのではなく、逆に日本から朝鮮半島に伝わったということです。

さらに。

既に6000年前から稲作をしていた

弥生時代の始まりは紀元前1000年頃になったという話でしたが、稲作自体はもっと前からやっていたことを推測させるものもみつかりました。

岡山県の朝寝鼻貝塚(あさねばなかいづか)で、6000年前の地層から稲のプラントオパールが見つかりました。

プラントオパールというのは植物の一部がガラスのように変化して残っているものです。

ただこれ、量が少なかったので

「たまたままぎれこんだんじゃないの?」

という疑念も拭えませんでした。

ところが同じ岡山県で、今度は彦崎貝塚の6000年前の地層から「大量の」プラントオパールが見つかりました。

こんな量が偶然一箇所に集まるなんてありえませんので、もう6000年前に日本人は稲作をやっていたと考えざるを得なくなりました。

それどころか。

12000年前の地層からプラントオパールが!

鹿児島県では12000年も昔の地層から、稲のプラントオパールが見つかってしまいました。

12000年前!

これだともう、縄文時代はじめの頃から稲作をやっていたのかという話になります。ただこちらは量が大したことないので、それほど確信は得られなかったようです。

私が子供の頃は「紀元前300年ころから」なんて習ったものですけど、それが1万年も繰り上がってしまうかもしれないなんて話です。

「じゃあ弥生時代の始まりはどうなるの?」

ということになりますけど、6000年も昔はまだ「主食」と言えるほど栽培していないとの推測から、今のところは

「最も早くて紀元前1000年頃から弥生時代」

ということになっています。