昭和時代(占領下)のまとめ~マッカーサーからサンフランシスコ平和条約まで

戦中最後の内閣は海軍大将の鈴木貫太郎が組閣しました。戦争を終わらせるための内閣で、1945年8月15日、ポツダム宣言受諾となります。

ということで最初に今回の内容のまとめ。

  • 【鈴木貫太郎内閣】
  • 1945年8月15日 ポツダム宣言受諾
  • 【東久邇宮内閣】
  • 連合国軍による占領、GHQの間接統治※マッカーサー
  • 【幣原内閣】
  • 五大改革指令…婦人解放、労働組合育成、教育の自由主義化、圧政的諸制度の撤廃、経済の民主化
  • 1945年 普通選挙法「20歳以上のすべての男女に選挙権」
  • 労働組合法
  • 天皇の人間宣言…新聞がそう書いただけ
  • 財閥解体
  • 東京裁判
  • 【第1次吉田内閣】
  • 1946年11月3日 日本国憲法公布
  • 労働関係調整法、労働基準法
  • 自作農創設特別措置法→農地改革
  • 【第2次~5次吉田内閣】
  • 1949年 中華人民共和国成立
  • 1950年 朝鮮戦争
  • 警察予備隊設置
  • 1951年 サンフランシスコ平和条約&日米安全保障条約

ポツダム宣言の内容

ポツダム宣言とは以下のような内容です。

1.アメリカ・中華民国・イギリスは、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
5.我々の条件は以下の通りで譲歩はしない。
6.日本国民を欺いて世界征服に向かわせた勢力を永久に排除する。
7.それが実現し新しい秩序が確立するまで日本を占領する。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきで、日本の主権は四大島と我々が決める諸小島に限定される。
9.日本軍は武装解除され、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる機会を与えられる。
10.戦争犯罪人を処罰する。民主主義的傾向の復活を強化する。人権尊重を確立する。
13.全日本の即時無条件降伏を求める。

ポツダム宣言を発したのは米英中です。発せられたのは7月なので、日ソ中立条約のあるソ連は当初は隠れておいて後で加わってきます。

「カイロ宣言」と書かれているのですがその内容ははっきりとはわかっていません。

よく「無条件降伏」と言われますが、無条件降伏を求められているのは日本国ではなく日本の軍隊だけです。

ポツダム宣言受諾で大任は果たしたということで鈴木内閣は総辞職。

マッカーサー来日、間接統治スタート

次は挙国一致体制を作りやすい人として、陸軍大将で皇族東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が首相となります。日本史上唯一の皇族首相です。

東久邇宮内閣の時に占領が始まります

ダグラス・マッカーサーを最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に置かれ、GHQの間接統治という形式でGHQの指令を実行に移していきます。

しかし、政治犯・思想犯の釈放については、共産主義者を解放することで革命につながるのではないかという恐れから、実行することができませんでした。それで東久邇宮内閣は2ヶ月足らずで総辞職となります。

幣原内閣…五大改革指令を受け取る

続いて、幣原外交でおなじみの幣原喜重郎が組閣します。

ここで政治犯は釈放され、特別高等警察と治安維持法は廃止となります。

この時点ではまだマッカーサー周辺は「日本が共産主義化してもいい」と考えていたようです。

また、マッカーサーから「五大改革指令」が言い渡されます。五大改革指令とは以下のとおりです。

  • 婦人解放
  • 労働組合育成
  • 教育の自由主義化
  • 圧政的諸制度の撤廃
  • 経済の民主化

婦人解放とは具体的には婦人参政権の実現です。これまでは「普通選挙」と言いつつ女性には選挙権も被選挙権もありませんでしたので。

1945年に早くも新選挙法ができて「20歳以上のすべての男女」に選挙権が認められます。翌46年の選挙では39人の女性国会議員が誕生します。

労働者の権利保護については、労働組合法(1945年)、労働関係調整法(1946年)、労働基準法(1947年)の労働三法が作られます。

天皇の人間宣言なんてなかった

また、幣原内閣の時、「天皇の人間宣言」が行われたと教科書に書いてあったりしますが、実際にはそんなものはありませんでした。

あったのは以下のようなお言葉です。

明治天皇が明治のはじめにあって、国の方針として五箇条のご誓文を給われた。(中略)我が国は、未だかつてない変革を成そうとしている。私自らが率先し、天地神明に誓って、このような国是を定め、万民保全の道に立つので、国民もこの趣旨に基づき、一致団結して努力して欲しい
私と国民との結びつきは、相互の信頼と敬愛とによるもので、神話や伝説によって生まれたものではない。天皇を現御神(あきつかみ)とし、日本国民を他の民族より優れたものと見なして、世界を支配するという架空の観念に基づくものではない。

以上のとおりその趣旨は

「日本にはもともと五箇条の御誓文があり、民主的だったのだから、それに基づいて一致団結して努力していこう」

ということ。

後半部分も「今まで天皇は神様って言ってたけど、実は人間だったんだ」などという内容ではありません

昔から天皇と国民は「相互の信頼と敬愛」によって結びついているわけで、だからこれから国を立て直すために一緒にがんばっていこうという内容です。

これを後でマスコミが「人間宣言」と呼んでしまって、誤解が生じ、それがなぜか広まってしまったわけです。

財閥解体…財閥が戦争をすすめるわけないのに

経済の民主化の一環として財閥解体も行われます。

これはGHQが「資本の独占は民主的ではない」「大財閥が軍国主義と結びついていた」と考えて「財閥をバラバラに切り刻んでしまおう」としたものです。

ただ、日本の財閥が結びついていたのは軍部ではなく政党であり、また、平和でなければ安心して商売もできないわけだから「軍国主義と結びついていた」というのには無理があります。

また財閥側もやられっぱなしではなく、経済力に物を言わせてGHQに働きかけたので、財閥解体は中途半端なもので終わっています。

この財閥解体というのも、日本を共産主義化しようとしているように見えて仕方ありません。

プレスコード…言論の自由はない

またプレスコード(日本に与うる新聞遵則)によって言論は統制されましたが、これなどは「民主化」に逆行するものです。

公職追放令によって、占領政策に都合の悪い人物も職を奪われます。

憲法改正マッカーサー草案を見て幣原さんは泣いた

国の最高法規である憲法も改正されます。

当初、憲法改正についてはマッカーサーからの命令ではなく示唆でしたので、日本側で、松本烝治(じょうじ)や美濃部達吉など法律の専門家の手で改正案が練られていました。

しかしその後マッカーサーは方針を変え、GHQの手によるマッカーサー草案を示します。

憲法の専門家によって練られていた日本側の案に対し、マッカーサー草案は、憲法学を学んだ人など一人もいないGHQ民政局で、たった1週間で作られたものでした。

誰も憲法のことなんてわからないけど、マッカーサーに命令されたので、図書館で調べつつ1週間徹夜して憲法らしきものを仕上げたということです。まるで大学生のレポートのようです。

この試案を見た日本側は愕然としました。

当時の首相の幣原喜重郎はこれを見て

「センチメンタルな少女が書いた共産主義の作文か」

と感想を漏らしたそうです。

吉田茂の側近だった白洲次郎(しらすじろう)も「中学生の落書き」と言ったとか。

日本側は仕方ないのでマッカーサー草案を元にGHQと審議を繰り返して草案を「目も当てられない」状態から「なんとか見られる」形まで持っていきます。

第一次吉田内閣

このあと、新選挙法下での初の選挙が行われ、幣原喜重郎は日本進歩党に入党して政権基盤としようとしますが他党の反発にあい、総辞職します。

第一党は日本自由党で、党首は鳩山一郎だったのですが、鳩山一郎はソ連の国際法違反やアメリカの原爆投下を批判したため公職追放されます。

それで1946年5月からは第1次吉田茂内閣となります。はい、麻生太郎さんのお祖父ちゃんですね。

この吉田内閣の時に、憲法草案は枢密院や国会で修正を加えられ、1946年11月3日に日本国憲法公布、翌年の5月3日に施行となります。

農地改革…自作農を増やそう

吉田内閣において自作農創設特別措置法が作られ、農地改革が行われます。

これも経済の民主化の一環で、広大な土地を持っていた地主から、政府が強制的に土地を買い上げ、それを土地をもたない小作人に安く売り渡すというものです。

非常に安価に売り渡されたので小作人としては嬉しいですが、地主から見ると民主的とは言えなかったでしょう。政府から財産権を侵害されたわけですから。

東京裁判という儀式

また、第1次吉田内閣発足の少し前から東京裁判(極東国際軍事裁判)が始まります。「裁判」ということですが、勝った国が負けた国を裁くわけだから公平なものにはなりません。結局のところ「日本=悪者」と決めつけるための儀式でした。

この東京裁判では7人の日本人が絞首刑となりました。

日本国憲法下最初に指名された総理大臣は意外にも…

1947年4月の選挙で、吉田茂の日本自由党は敗れ、なんと日本社会党が第一党となります。吉田茂は「憲政の常道」に従い、潔く政権を譲ります。

そうして日本社会党の党首、片山哲が内閣総理大臣となります。

意外ですが、日本国憲法に基づいて指名された最初の総理大臣は日本社会党の人だったんです。

連立内閣として発足、国家公務員法を作ったり、労働省を作ったり、自治体警察を設置したりしました。

社会党ですので社会主義的な政策としてエネルギー産業の中心である炭鉱の国家管理を行おうとしましたが、これには反対も多く、政権内部でも対立が高まって1948年2月に総辞職となりました。

芦田均内閣…閣僚に逮捕者

引き続き、副総理だった芦田均(あしだひとし、民主党)によって連立内閣が作られます。

しかしこれに対しては吉田茂が「憲政の常道に反する」と批判し、その上、贈収賄が疑われる事件が起こり閣僚が逮捕されるなんてことになったので、芦田内閣は1948年10月に早くも総辞職となります。

吉田茂長期政権

一方で、吉田茂の日本自由党は、民主党を抜けた幣原喜重郎や田中角栄が作っていた民主クラブと合併して民主自由党となり、芦田内閣のあと、第2次吉田内閣の与党となります。

ややこしいですが。このときは自由民主党ではなく民主自由党です。^^;

これ以後、第5次吉田内閣が終わる1954年12月まで、ずーーっと吉田茂さんが総理大臣です。この吉田内閣の時に、アメリカと日本の関係は大転換することになります。

やっと気づいたアメリカ

アメリカとしては、1945年に「文明の敵」である日本とドイツを倒し、世界の「平和と安全」を守る国際連合も作って「これで平和だ! ハッピー!」という気分でした。

中国では、日本の勢力が消滅したあと、即座に国民党と共産党が戦いを始めますが、アメリカとしては「勝手にやらせとけば?」という感じで、国民党への支援を打ち切ります。

でも次第にアメリカも気づき始めます。

「ちょ、待って、気がついたら東ヨーロッパも東アジアも、全部ソ連の共産主義に奪われてるじゃん!」

ここに来てやっと、本当の敵はソ連だと気づいたのです。それで慌てて、1947年に「共産主義を封じ込めよう!」というトルーマン・ドクトリンが発表されます。

しかし気づくのが遅かったのか、ソ連の支援を得た毛沢東の共産党が国民党に勝利し、中国大陸には共産主義の中華人民共和国ができます。1949年のことです。

蒋介石国民党は台湾に逃れます。

同じ1949年にアメリカは北大西洋条約機構(NATO)を作って、西ヨーロッパをソ連の脅威から守ろうとします。

でもアジアはどうする? 中国はもう共産主義となってしまったし、韓国はまったく頼れないし・・・

朝鮮戦争勃発、韓国滅亡の危機

そんな中さらに、1950年、朝鮮戦争が勃発します。

朝鮮半島は日本の勢力が消えたあと、北緯38度を境に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国に分かれていました。

ところが1950年の6月、金日成(きんにっせい、キムイルソン)率いる北朝鮮軍が、突如として北緯38度線を越えて大韓民国に侵攻します。

ソ連から最新の戦車を貸与された北朝鮮軍に対し、韓国軍はなすすべもなく敗走半島南端の釜山(プサン)まで追い詰められ韓国滅亡は目前となります。

そりゃソ連の戦車の装甲を貫ける武器がまったくないんじゃどうしようもありません。

この時、日本にいるアメリカ軍も韓国軍支援のために参戦しますが大敗北を喫し、多数の戦死者を出しています。

その後、国際連合は安全保障理事会で北朝鮮の武力制裁を決議します。

ソ連は拒否権を発動することができるのですが、欠席することで拒否権は使いませんでした。これはもちろん、アメリカに泥沼の戦争を戦ってもらうためです。

警察予備隊…日本、再軍備

また、日本にいるアメリカ軍が朝鮮半島に出撃するわけだから日本の防衛や治安維持にあたる軍事力が足りなくなるということで、日本を再軍備させることにします。

それで1950年、マッカーサーの要望で警察予備隊が作られることになります。これが2年後に保安隊となり、更に2年後に自衛隊となります。

警察予備隊は、当初はその名にふさわしく軽装備の集団でしたが、朝鮮戦争の戦況が悪化するにつれて重装備となっていきました。

朝鮮戦争には国連軍が参戦しますが、中身はほぼアメリカ軍で、マッカーサーが指揮をとります。

毛沢東「ダグラス君、逆転できたと思った?」

最初はそれでも苦戦しましたが、戦力が整ってくるにつれて盛り返し、半島南端に追い詰められていた韓国側が、逆に半島北端まで追い詰めるほどになりました。

しかしこれは毛沢東が計算に入れていて、韓国側の補給線が伸び切ったところで今度は中国軍が参戦してきます。それによって韓国側は南へ南へと押し戻されます

これを見たマッカーサーはアメリカ本国に増援を要請、原子爆弾の使用まで主張するようになりますが、これを巡ってトルーマン大統領と衝突し、解任されてしまいました。

マッカーサー「これじゃあ日本の仕事を引き継いだだけじゃないか」

その後、マッカーサーは以下のように語っています。

「アメリカは日本勢力を中国大陸、満洲、朝鮮から駆逐し目標を達成したと思っていた。ところが実際は、過去半世紀に渡って日本が直面し対処してきた問題をアメリカがそのまま引き継いでしまっただけだった」

結局、「日本がいなくなった途端に」中国はソ連の影響で共産主義化し、大東亜戦争中でさえ比較的平和だった朝鮮半島も多くの人が虐殺されるような惨状を呈してしまいました。

今更気づいても遅いわけですが、アメリカは何とか日本の力を利用できないかと考えるようになります。

日本の独立回復…日本をアメリカの仲間として再強化すべし

となるといつまでも占領を続けているより、独立させた上でアメリカの仲間として最強化したほうが効率が良いです。

占領当初は、日本を無力な国にすることが目標でしたが、今や日本に再び立ち上がってもらわなくてはならなくなったのです。もちろん、アメリカの仲間として。

日本側としては当然ながら、独立が回復できるならそれにこしたことはありません。

ということで1951年サンフランシスコ平和条約が締結され、日本は晴れて独立を回復することになります。

これにはアメリカの意図が働いているのでソ連はもちろん賛成しません。また、中国は中華人民共和国と中華民国、どちらが代表かわからない状態ということで呼ばれませんでした。

アメリカは日本を利用したいわけだから、ただでは独立させてくれません。

サンフランシスコ平和条約と同時に日米安全保障条約を結び、アメリカ軍が日本にとどまることになりました。

平和条約は翌1952年4月28日に発効、日本は独立を取り戻すことになりました。