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前回は第1次近衛文麿内閣のもとで支那事変(日中戦争)が泥沼化したという話までやりました。
ということでまず今回のまとめから。
- 1939年 ノモンハン事件…兵力、装備で劣る日本軍が優勢に戦いを進めた
- 独ソ不可侵条約…「欧州の天地は複雑怪奇」平沼内閣総辞職
- 1939年 第二次世界大戦勃発…阿部信行内閣は大戦不介入方針
- 海軍出身の米内光政が組閣→陸軍と衝突して総辞職
- アメリカ…1933年ルーズベルト大統領就任以来、日本に経済制裁連発
- 第2次第3次近衛内閣…なぜか北部仏印進駐
- 日独伊三国軍事同盟、日ソ中立条約→日独伊ソ4カ国で米英に圧力をかけたい
- 直後、独ソ戦スタート
- 東條英機内閣…ハル・ノート提示→1941年12月8日真珠湾攻撃→大東亜戦争(太平洋戦争)
- 日本はなぜか広大な範囲に兵力分散
- 負けるはずのないミッドウェー海戦で大敗
- 1945年3月東京大空襲、4月沖縄戦、8月原子爆弾投下
- 1945年8月15日 ポツダム宣言受諾
ノモンハン事件…実は大敗北ではなかった
次の内閣は枢密院議長だった平沼騏一郎(きいちろう)が組閣します。
ただ、平沼内閣は近衛内閣を引き継ぐ形だったので政策が変わるわけではありません。近衛文麿も無任所大臣として残っています。
平沼内閣時の大事件としては1939年のノモンハン事件があります。
これは満洲国とソ連が勢力を持っていたモンゴルとの国境で、日ソ両軍が衝突した事件です。
従来は「ソ連の機械化部隊に、兵力・装備で劣る日本軍が大敗した」というのが定説でしたが、ソ連崩壊後の情報公開により、ソ連軍のほうが日本軍よりはるかに多い戦死者を出していたことがわかりました。
つまり兵力でも装備でも圧倒的なソ連軍に対して、日本軍は互角以上の戦いをしたことになります。
でも日本軍の戦死者も多く、また装備の差も見せつけられたということで、停戦交渉ではソ連側は徹底して強気に出ます。そこがまたソ連のうまいところです。
日本側の全権大使も東郷茂徳(とうごうしげのり)という交渉の専門家だったのですけど、交渉の結果は彼いわく
「やっと妥結した。五分五分と言いたいが、向う6、こっちが4だ」
とのこと。
で。
日本がソ連との戦いで苦しんでいる間に、なんと、仲間と信じていたドイツが「独ソ不可侵条約」を結んでしまいます。これは裏切りです。
平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と言い残して内閣総辞職します。
第二次世界大戦勃発…日本は不介入方針
次の阿部信行(あべのぶゆき)内閣の時に第二次世界大戦が勃発します。1939年、ドイツが独ソ不可侵条約での密約基づきポーランドに侵攻したのに対し、英仏がドイツに宣戦布告しました。
ソ連、スターリンから見るとこれまた思うツボです。ドイツと英仏で潰し合いを始めてくれました。あとは日米が戦争を始めてくれれば言うことなしですね。
1939年 第二次世界大戦「いくさくる、第二次大戦」
平将門の乱からちょうど1000年後ですね。
あ。
安倍晋三さんの「安倍」とは漢字が違うので注意。阿部信行です。
第二次世界大戦に対して阿部信行内閣は、大戦不介入の方針を取ります。しかし支那事変(日中戦争)の泥沼は収拾できず総辞職となりました。
昭和天皇「もし米内内閣が続いていたなら…」
次の総理大臣には、海軍大将で温厚な人柄、人望も厚いということで米内光政(よないみつまさ)が任命されました。米内さんは総理大臣に任命されると同時に海軍の現役を退いています。
確かに、いかにも温厚そうに見えます。
米内光政は昭和天皇の信任も厚かったのですが、海軍出身ということで陸軍には嫌われ、また日独伊の三国同盟には反対の立場だったこともあり、陸軍の反発を招いて、軍部大臣現役武官制により内閣総辞職に追い込まれます。
昭和天皇は戦後、
「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争にはならなかったろうに」
とお悔やみになっていたとのこと。
フランクリン・ルーズベルト…何故か日本を目の敵に
ここで、日本の最大の敵となってしまうアメリカに目を移しましょう。
そもそもアメリカは、満洲事変のころは国際連盟が対日制裁しようとしても、それに協力しませんでした。
なぜならアメリカは日本と争う理由がないからです。中国に利権を持っていたわけではないので、太平洋の向こう、地球の裏側とも言える場所で日本が何をやっていようが、基本的には知ったこっちゃないわけです。
フィリピンはアメリカの植民地でしたが、アメリカはすでに将来の独立を認めていたので、アメリカにとって「死守すべき土地」でもありません。
もし日本と戦争になったとしても、太平洋を越えて日本を攻めに行くなんて、リスクとリターンを考えればバカバカしくてやってられません。元寇の時のモンゴル軍の比じゃありません。
日本の陸海軍は、少なくとも個別の戦闘レベルでは「世界最強」と考える人が多かった時代です。リスクばかり大きく、大して得にもならないのに日本を攻めるなんて馬鹿げています。
それなのに・・・1933年、フランクリン・ルーズベルトが大統領になると、なぜか対日制裁が始まります。そして、とうとう日本が戦いを仕掛けてくるまで、石油輸出禁止をはじめ、次々と経済制裁を打ち出します。
「なぜ日本が強大なアメリカと戦争を始めたのかわからない」とはよく言われることですが、これは実はアメリカにこそ当てはまってしまうんです。なぜ日本と戦争を始めたのかわからない。
ここで考えなければならないのは、日本とアメリカが戦争を始めれば、一体誰がいちばん得をするかです。
中国? それはそうですが、その中国も日本と戦争「させられて」いますね。一体誰に?
それはもう、ユーラシア大陸の東西から挟み撃ちにされては困る国、ソ連です。
戦後の調査で、近衛文麿側近、ルーズベルト側近、ともに多数のソ連からの工作員、要するにスパイが紛れ込んでいたことがわかっています。尾崎秀実(おざきほつみ)は有名ですね。
ソ連のスターリンとしては、西で米英仏独、東で日米中が潰し合ってくれれば・・・まさに笑いが止まらないわけです。アメリカなんてあっちもこっちも行かされて大変ですね。
ということでまた日本に戻りましょう。
なぜまた近衛内閣なのか?
このアメリカからの挑発が強まってくる時期に出てくるのが・・・なぜかまた近衛文麿さんです。
1940年から、第2次、第3次近衛内閣と続きます。
支那事変を泥沼化させた印象のある近衛さんがなぜまた総理大臣なのか。それが現在から見ると不思議です。
- 中国に対して強硬で国民に人気があった
- 「新体制」が必要という強い信念を持っていた
- 持論を文章の形で発表していて知的な印象があった
- 誰も総理大臣なんてやりたくなかった(笑)
以上のような理由が考えられます。
「新体制」運動というのは、当時の日本はいろいろな勢力が分立して、「国を挙げて困難に立ち向かう」なんてことはできそうになかったので、いろいろな勢力を解体して一つにまとめようという運動です。
その一環として全政党解散、「大政翼賛会」という一つの組織にまとまるということが行われましたが、日本では一党独裁に対する反発は強く、政治的にも経済的にも新体制運動は頓挫しました。
その後日本は「なぜか」北部仏印、現在のベトナム北部に侵攻を開始します。そんなところ攻め込んでも大して得るものはないはずですが攻め込みます。石油がほしいならインドネシアに行けばいいのに。
あ、仏印というのは「フランス領インドシナ」の略です。
これもやはり、ソ連の工作と考えると、納得は行きます。ソ連から見れば日本の北進は困りますが、南進して勝手に疲弊してくれれば万々歳です。
また、日独伊三国軍事同盟が結ばれます・・・ちょっと前にドイツに裏切られて「欧州の天地は複雑怪奇」なーんて言って平沼内閣が総辞職したばかりなのに。
ただ、アメリカはなぜか日本に強硬な態度を取るし、イギリスの中国利権は侵してしまっているし、ということで、「日独伊にソ連を加えて米英に対抗するしかない」と考えられたようです。
ドイツとソ連って・・・仲間はちゃんと選ばないといけませんね。^^;
その流れで、1941年には日ソ中立条約が結ばれます。まあ御存知の通り、後で思いっきり破られるわけですけど。仲間はちゃんと(略
このたった二ヶ月後に、ソ連はドイツと戦争を始めます。またしても「欧州の天地は複雑怪奇」。
「約束したからみんな仲間だよね!」
って、日本人だけが考えていたんですね。(悲)
そうこうしながらも日本はアメリカとは何とか話し合いで決着をつけようとしますが、アメリカはどんどん強硬な態度になっていきます。
結局、「交渉による解決は無理」と考えた近衛文麿は、健康状態が悪化していたこともあり、内閣総辞職します。
東條英機内閣…大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
次の首相には陸軍大将で皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が候補として挙げられました。陸軍大将かつ皇族の首相であれば、国内諸勢力がまとまりやすいだろうという考えからです。
でもこんな難しい国際環境で、万が一にも皇族の首相が失敗して皇族に非難が集まるなんてことは許されませんので、1941年10月、当時陸軍中将だった東條英機(とうじょうひでき)が総理大臣となります。彼なら陸軍を抑えることも可能だと考えられたからです。
昭和天皇から東條英機に言い渡されたことは「何としても戦争は防いでほしい」ということでした。
しかしアメリカからハル・ノートが提示されます。
これには、
- 日本は大陸から全面撤退すること
- 日独伊三国軍事同盟は破棄すること
- 汪兆銘政府を見捨てること
などが含まれていたため、日本はさらなる交渉を試みますが、まったく話し合いにならず。ちなみにこのハル・ノートは、今ではソ連工作員が起草したものであることがわかっています。
その後ルーズベルトは「最後的警戒命令」「戦争警告」を出し、戦争準備を進めます。
「日本の不意打ち」なんて都市伝説もありますが、ルーズベルトは「準備はできている。早くかかって来い!」とやる気満々です。不意打ちなんて不可能。
そして結局、日本は挑発に乗り、開戦を決定します。
この時、東條英機は皇居に向かい、涙を流しながら謝罪したそうです。
1941年12月8日大東亜戦争(太平洋戦争)の始まりです。
が。
ここでまた不思議なことが起こります。
日本はハワイの真珠湾を攻撃します。
日本はアメリカ植民地だったフィリピンを奪って、そこでのんびり待っていればよかったはずです。そして長距離移動で疲弊したアメリカ軍を叩くのです。日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅したように。
太平洋を横断して攻めにいくなんて、消耗が激しいから攻め手が不利なことは明らかです。
なのに日本はわざわざその不利な作戦を実行します。
「燃料タンクを攻撃しなかった」「地上施設を攻撃しなかった」ということがよく批判されますが、それはやはりわざわざハワイまで出向いていって攻撃を加えること自体に「無理があった」ということなのかもしれません。
現場としては「これ以上の深追いは危険だ」という判断です。
海上戦力に大打撃を与えることができただけでも奇跡的大成功と言う人もいるくらいです。
でも・・・その後も日本は「なぜか」似たような無理を重ね、地球の表面積の4分の1もの範囲に兵力を送ることになります。
これでは兵力は薄く分散され、そのうえ満足に補給できるはずもなく、日本兵は戦闘での死者よりも、餓死や病死のほうがはるかに多いという結果となってしまいました。
また、1942年のミッドウェー海戦では、日本ははるかに優勢な戦力で戦いに望みました。何度シミュレーションしても日本が勝つ、負けようがない、そんな戦闘でしたが大敗北を喫して多くの軍艦を失います。
日本が意味不明なほど戦力を分散してしまったので、アメリカはそのぶん楽になります。重要な場所に戦力を集中して、一つ一つ落としていけばいいわけです。
ノモンハン事件に見られるように、装備と兵力ではるかに劣っても優勢に戦ってしまうほど日本軍は強かったのですが、これほど無理を重ねてしまっては、勝てるものも勝てなくなってしまいます。
それに対して、アメリカは合理的で、勝つためには手段を選びません。
重要拠点をじわじわと奪還し、民間人を容赦なく爆撃対象とし、最後は原子爆弾の実験台にも使います。
アメリカは
「原子爆弾を使わなければ戦争を終わらせることができなかった。だから被害を最小限にするために使った」
と弁明し、日本人としては「嘘つけ! 実験だろ!」なんて言いたくなるわけですが・・・完全に嘘とも言いきれません。
なぜなら、それくらい当時の日本軍は恐れられていたからです。「これくらいやらないと、あいつらは諦めない、油断すると逆転される」と恐れおののいていたアメリカ人がいたとしても不思議はありません。
ただ、だからといって核兵器を使って民間人を大量虐殺することが許されるわけではありません。
日本は何とか和平交渉を進めるために、ソ連を頼ります。よりによって、日米の戦いが長引くことをいちばん願っているスターリンを頼るのだから、戦争終結が遅れてしまうのも無理もありません。
そうして戦争終結が遅れる間に・・・
1945年3月には東京大空襲。最高効率で民間人を殺せるよう、綿密に計算された上で無数の焼夷弾が投下されます。
4月、沖縄戦。
8月6日、広島へ原爆投下。
この直後、「そろそろ日本も十分弱ってくれたから大丈夫かな」ということでソ連が日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告します。
8月9日、長崎に原爆投下。
わざわざ広島で「成功」した原子爆弾ではなく仕組みの違う原子爆弾を長崎で使っているあたり、「実験」の意図を読み取れます。
最終的には昭和天皇の御聖断により、ポツダム宣言を受諾することになります。1945年8月15日です。