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前回、立憲民政党の浜口内閣、第二次若槻内閣のもとで
- 幣原協調外交→大陸で日本人が犠牲になっても強硬手段は採らない
- 井上デフレ財政→農村が悲惨な状態に
というところまでの話でした。
そんな中起こるのが満洲事変です。
ということで最初に今回のまとめ。
- 日本人犠牲→守らねばならない→満洲事変(1931年)※石原莞爾
- 第2次若槻内閣は閣内不一致で総辞職→犬養毅内閣
- 満洲人の希望、日本の利益→満州国建国(1932年)
- 高橋是清蔵相→世界で最も早く大恐慌を乗り越える
- 犬養毅殺害…5・15事件(1932年)=政党政治の終わり
- 斎藤実内閣…国際連盟脱退(1933年)その後贈収賄事件で総辞職
- 岡田啓介内閣…2・26事件(1936年)→高橋是清殺害
- 広田弘毅内閣…軍部大臣現役武官制復活→陸軍大臣が辞めて内閣総辞職
- 陸軍大将林銑十郎が首相に→たった4ヶ月で総辞職=軍部独裁なんて無理!
- 第1次近衛文麿内閣…盧溝橋事件はすぐに停戦
- 日本人への挑発続く…通州事件で日本人虐殺→泥沼化
- 南京占領、「国民政府を対手とせず」→自ら和平の機会を潰す
- 宇垣一成外相の和平工作も潰す
満洲…日本がロシアから取り返し、中華民国へ返還
中国の満洲は、20世紀はじめにはロシアが実質的に支配していたのですが、日露戦争で日本勝利することで、満洲は中国に返還されました。
日本はものすごい負担をして、とてつもない戦死者を出してロシアに勝ったのだから、満洲を中国に返還した上で
「満洲での権益を認めてくれてもいいよね」
というのはそれほど強欲な要求でもないでしょう。
日本はその時、南満州の鉄道やその周辺の炭鉱などの権利を手に入れます。
それで満洲には日本人も渡っていました。
そして日本が資金を注いで開発を進めたので、動乱の中国大陸の中でも満洲は豊かで住みよい土地となりました。もともと満洲で栽培できなかった大豆も、日本人が品種改良することによって栽培可能となったんです。
それで、南の方から多数の中国人も移住してくるようになりました。
ここで出てくるのがソ連、ソビエト連邦です。
ソ連としては、日本と中国が争って、両国が弱ってくれる方が都合がいいわけです。
それで、ソ連は満洲においても、中国人と日本人が衝突するように工作します。それによってまた日本人の命が奪われたりするわけです。
ところが幣原外交が続いていますので本国は協調路線、日本人が死んでも本国からは助けが来ません。そこで満洲にいる日本人が頼るのが関東軍です。
関東軍というのはもともと、日露戦争でロシアから奪った鉄道その他を守るための軍隊です。
で、この関東軍、満洲には1万人しかいませんので、現地の日本人に「家族が殺されたんです、なんとかしてくださいよ!」なんて言われても「中国軍は30万もいるし、うーん・・・」という感じだったんです。
満洲事変…石原莞爾、30倍の敵を一蹴
しかし、日本人の犠牲は増える一方、その上ソ連の脅威にまで気づいた関東軍参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)がついに独断行動に出ます。
柳条湖(りゅうじょうこ)で鉄道爆破、これを中国軍の仕業として瞬く間に満洲を占領してしまいます。たった1万の軍隊で、30倍の相手を、あっというまに倒してしまったということです。
これを侵略と呼ぶことはできません。
「1万人で30万人を相手に侵略するぜ!」なんて言ったら
「オマエ頭ダイジョウブか?」
「マンガの読みすぎじゃないか?」
「サイヤ人か」
なんて言われるのがオチでしょう。
公平に見るなら、追い詰められた挙げ句の行動だったということになります。
この1931年の事件を満洲事変と呼びます。
満州国建国…満洲人の願いと日本の利益
その翌年、満洲の地には満洲国が建国されます。
現地の満洲人の「中国から独立したい」という願いもあり、かつ、満洲族である清の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が日本に保護を求めてきていたということで建国に至りました。
もちろんこれは日本にとっても都合が良いことです、動乱状態の満洲では、ソ連の脅威に対抗できませんので。
東京裁判での溥儀の証言をもとに「満洲国は日本の傀儡だった」と言われるのですが、それはソ連に身柄を確保された状態での「証言」であり、東京裁判の時点ですら信憑性を疑われ判決文には引用されませんでした。
まあそれはさておいても、日本の力で建国できた国なのだから日本の影響が強いことは間違いないでしょう。現在の日本に対してアメリカは非常に影響力が強いですが、それと似た関係か、もう少し強化したくらいでしょうか。
その後、塘沽(とうこ、タンクー)停戦協定が中国と結ばれ、満洲事変は終結します。
でもその前に。
満洲事変が終結する前に、大事件が続発します。
犬養毅内閣…戦前最後の政党内閣
まず満洲事変が起こった時の第2次若槻内閣は、問題を解決できないまま総辞職となりました。
ということで次は野党だった立憲政友会の総裁である犬養毅(いぬかいつよし)が首相となります。
高橋是清…世界で最も早く世界恐慌を乗り越える
そして、昭和恐慌を乗り越えるためにも、大蔵大臣として高橋是清が再び登場します。国民の心も政党から離れていたので、ここで人気の高い「達磨さん」高橋是清は政権にとっては最重要人物であったことでしょう。
高橋是清は期待に答えて、世界で最も早く大恐慌からの立ち直りを実現しました。その結果、立憲政友会は1932年1月の選挙では大勝利を収めます。
満洲国は承認せず
ただその後、関東軍の支援を受けた溥儀によって満州国建国が宣言されます。
これが国内で問題になりましたが、犬養内閣は満洲国を承認しませんでした。
これを「軟弱外交」と捉えて反感を持ったのか、それとも政党政治自体が気に入らなかったのか定かではありませんが、1932年5月15日、犬養毅は一部の暴走した軍人により射殺されてしまいます。5・15事件です。
「話せば分かる」
「問答無用」
というのが有名ですが、犬養さんは頭を撃たれた直後も
「今の若いもんをもう一度呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」
と言っていたというのでとんでもない人ですね。普通頭撃たれたらそれどころじゃないでしょう。
この後、犬養毅は亡くなり、政党には内閣総理大臣をやれるような人物がいなくなってしまった・・・と元老の西園寺公望は考えました。
それで海軍穏健派の長老だった斎藤実(まこと)が選ばれ、諸勢力から人材を集めた「挙国一致内閣」が作られました。
これによって「5・15事件が政党政治を終わらせた」と言われます。
斎藤実内閣…最悪の選択?国際連盟脱退
斎藤実内閣の重要人物は、前内閣から引き続き高橋是清です。高橋是清によって、経済的には立ち直ることができます。
問題は満洲国の扱い。
斎藤実内閣は満洲国を承認します。
それについて、中華民国が国際連盟に訴えたため、国際連盟からリットン調査団が派遣されます。
リットン調査団の調査結果は
「満洲国成立が正当なものかどうかは今のところ私達にはわからない。だから満洲国は独立国と認めず国際管理のもとに置くべきだ。ただし日本が持っている満洲権益は正当なものと認められる」
という内容でした。
これは、満洲国独立は認められないけど、日本の満洲権益は認めると、他でもない国際連盟が言ったことになります。
満洲権益を「国際連盟のお墨付き」にできたわけです。
だけど一般国民にはそれを理解しない人も多く、世論は「満洲国が認められないなら連盟なんかやめちまえ!」ということで盛り上がってしまいます。
斎藤内閣も結局、国際連盟脱退という最悪の選択をしてしまいます。1933年の出来事です。奇しくもヒトラーが首相になったのと同じ年。
ここから日本はどんどん苦境に落とされていくことになります。
国際連盟脱退では松岡洋右(ようすけ)の名前が新聞にデカデカと出たので、連盟脱退を進めた張本人のように誤解されることもありますが、松岡洋右は最後まで何とか、日本を連盟にとどめようと努力した人です。
その後、贈収賄事件が起こり、裁判では被告全員無罪となりましたが政権批判の世論はやまず、斎藤実内閣は総辞職となりました。
岡田啓介首相に似ていたばっかりに…
次に総理大臣になるのは岡田啓介です。斎藤内閣で海軍大臣だった軍人さんです。斎藤内閣に失敗があったということではなかったので、似たような内閣が作られたわけです。
でも岡田内閣時もまたとんでもない事件が起きます。
当時陸軍は、皇道派と統制派で派閥争いをしていて、皇道派が負けてしまいました。
それで皇道派の一部の青年将校が暴走し、政府要人を暗殺してしまいます。1936年の2・26事件です。
「君側の奸を除き、天皇親政を実現したい」
「それによって農村の貧しい人を救いたい」
そんな思いもあったようです。故郷で少女が売られたりしているわけですから。
ここでは義理の弟さんが首相に顔が似ていたということで間違えて殺され、岡田首相自身は難を逃れます。
ただ青年将校たちはいちばん殺してはいけない高橋是清蔵相を殺してしまいます。彼らの故郷である農村を必死に救おうとしていた政治家です。
こうなるともう、「昭和維新、尊皇斬奸」でもなんでもなく、単なる馬鹿な暴走となってしまいます。
青年将校らは「天皇親政実現のため」と考えていたようですが、当の天皇陛下が激怒し、
「誰も動かないなら朕自ら討伐する!」
とまで仰ったので、クーデターはその後あっという間に鎮圧されました。
そりゃそうでしょう。「天皇親政実現のため」と言っていた青年将校が天皇に激怒されては一瞬で戦意喪失です。
ということは、もしこの時、昭和天皇が逆のことをしていたら、天皇独裁となっていたかもしれないということ。つまり天皇陛下は自ら独裁を御否定なさったということですね。
岡田内閣はこの責任をとって総辞職します。
広田弘毅内閣…軍部大臣現役武官制復活
この後、諸勢力のバランスを取るために摂関家出身で貴族院議長でもある近衛文麿に白羽の矢が立ちますが、近衛は自信がないことを理由に固辞。
それで他の候補はということになり、かねがね
「私の在任中に戦争は絶対起こさせない」
と言っていた外交官出身で外務大臣も経験していた広田弘毅(ひろたこうき)が首相に選ばれます。
しかしここで陸軍が組閣に干渉し、陸軍の影響の強い内閣が出来上がります。その結果、広田弘毅内閣において、軍部大臣現役武官制が復活します。
また日独防共協定を結びます。ヒトラーのドイツと手を結ぶわけで、「確かに強いけど、信用できるの?」といったところですね。^^;
軍部大臣現役武官制は軍部独裁にはつながらなかった
その後、陸軍が早速軍部大臣現役武官制を「活用」して広田内閣は総辞職、陸軍大将の林銑十郎(せんじゅうろう)が首相となります。
これをもって「軍部独裁スタートだ!」という話もありますが、まったくそんなことはありませんでした。
林首相は衆議院にひたすら妥協して予算を通してもらいます。そして予算が通った直後、手のひらを返したように衆議院を解散させます。当時これを「食い逃げ解散」と呼びました。
そうして選挙となるわけですが、衆議院のメンバーは変わらず。林首相の目論見は外れたわけです。そして林内閣はわずか4ヶ月で総辞職。
つまり、選挙の結果で陸軍大将の内閣も簡単に潰されたわけですね。これを軍部独裁と呼ぶことはできません。むしろ、今よりも民主的かもしれない。
近衛文麿内閣の不可思議…自ら支那事変の泥沼へ
そしてとうとう断りきれなくなったのか、近衛文麿(このえふみまろ)が首相となります。もうほんと、総理大臣やりたい人がいないんですねぇ。^^;
この、第1次近衛内閣の時に、日中戦争が始まったと言われます。
1937年に中国の盧溝橋(ろこうきょう)で発砲事件があり、そこから日中戦争に発展したという話。
でも実態は「戦争」というものではなく、中国が挑発として日本人を殺し、それに日本軍が対応するという事件の繰り返しです。だから当時は日中戦争と呼ばれず「北支事変(ほくしじへん)」途中から「支那事変(しなじへん)」と呼ばれました。
戦争をやっているという実感がなかったわけです。
盧溝橋事件も、発生から4日後に早くも停戦協定が結ばれています。
その後も日本人が殺される事件は続き、通州事件(つうしゅうじけん)という最悪の事件も起きています。これは文章で説明するのが嫌になるような残酷な事件で、多くの日本人少女も犠牲になっています。
そんなことをされては世論が「支那を許すな!」と沸騰するのも無理はありませんが、なぜこれほど中国が挑発を繰り返すのかと言うと、やはり後ろでソ連が動いているからです。
ソ連としてはヨーロッパとアジアから挟み撃ちにされるのは避けたいので、日本と中国が戦ってくれたほうが都合がいいわけです。
ソ連のスターリンは人道的にはとんでもないやつですが、国を守るということはうまくやっているということですね。
その策略に、このころの日中は踊らされている感があります。
日本はしっかりした戦略もなく、ズルズルと戦いを続けていくことになります。まさに泥沼。
なぜか和平工作を潰す近衛文麿
近衛文麿首相は何をしているのかと言うと、中華民国代表の蒋介石(しょうかいせき)との首脳会談を直前になってキャンセルし、首脳会談の提案者である石原莞爾に
「この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」
とまで言われてしまいます。
近衛首相は当初は「不拡大方針」を唱えていましたが途中からそれも捨ててしまい、交渉相手として残しておくべきだった中華民国の首都南京も陥落させます。
一方で泥沼化を予見し、不拡大を主張していた陸軍の石原莞爾は左遷されてしまいます。
その後、陸軍主導で和平工作が進められていました。
しかし近衛首相は、和平打ち切りを決定、「近衛声明(第一次)」として有名な「国民政府を対手とせず」方針を発表します。これによって和平相手を自ら消してしまうことになります。
これのどこが「軍部の暴走」なのでしょうか。むしろ軍部は冷静で、総理大臣が暴走しています。^^;
さらにさらに。
その後、陸軍大将の宇垣一成(うがきかずしげ)が「国民政府を対手とせず」方針撤回を条件に外務大臣となり、和平まであと一歩まで話を進めますが、なぜか近衛首相は蒋介石が飲めないような厳しい条件を付け加えて和平工作をぶち壊します。
その後、蒋介石と対立していた汪兆銘(おうちょうめい)を傀儡政権にたてて、汪兆銘と和平を結ぼうとしますが、これに従う中国有力者は少なく、失敗に終わります。
その後、新体制運動のために新党を作ろうとしましたがうまくいかなかったということで内閣総辞職します。
なんだか、子供の頃学校で習ったこととは逆で、必死に和平をまとめようとしている陸軍を、総理大臣が片っ端からぶち壊しているように見えますが・・・いったいどんな事情があったのか。
現在では、近衛文麿の側近にソ連の工作員、スパイが紛れ込んでいたことがわかっていますので、彼らがうまく立ち回ったということなのかもしれません。