このページの目次
第一次世界大戦後の不景気、そして関東大震災と大変な経験をしている中で日本は昭和に突入します。
最初に今回のまとめから。
- 幣原喜重郎…協調外交=日本人が殺されても出兵はしない
- 1927年 昭和金融恐慌…高橋是清の積極財政で収拾
- 田中義一…積極外交、武断外交=積極的に居留民保護
- 張作霖爆殺事件→田中内閣総辞職
- 浜口雄幸内閣…世界恐慌が起こる
- 井上準之助蔵相が金輸出解禁→急激なデフレ→農村貧困化
- ロンドン海軍軍縮条約→補助艦…米:英:日=10:10:7
- 「統帥権干犯」問題…大した問題ではなかった
- 幣原外交も復活…国民は反感「日本人が殺されているのに!」
昭和金融恐慌は大蔵大臣の失言がきっかけ?
1926年が昭和元年なんですが、昭和元年は12月26日からだったので1週間もありません。
で、実質昭和の始まりとも言える1927年、昭和2年に大事件が起こります。
第一次世界大戦後の不景気、そして関東大震災の影響で、諸銀行は多くの不良債権を抱えていました。不良債権というのは、簡単に言えば、貸したけど返ってこないお金です。
で、日本国民としては
「銀行大丈夫? つぶれるんじゃない? お金預けておくのは心配…」
と思っているわけです。
そんな時、こともあろうに大蔵大臣片岡直温(なおはる)が、衆議院予算委員会で「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と言ってしまいました。
経営が苦しいとは言え実際には破綻なんてしていなかったのですが、ただでさえ多くの人が心配しているタイミングだったので、一気に噂が広まって、取り付け騒ぎが起こります。
取り付け騒ぎというのは、銀行に多くのお客さんが押しかけてお金を引き出そうとすることですね。そうすると銀行からお金がなくなっちゃって、悪くすると潰れてしまうということです。
東京渡辺銀行ももともと経営悪化していたのですが、大蔵大臣の失言で「トドメ」を刺された形で破綻しました。
また大戦景気で急成長した鈴木商店も倒産、鈴木商店に融資していた台湾銀行は危機に陥ります。
時の若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣はこれを解決できず、総辞職となりました。
多くの銀行や企業がバタバタと倒れて、危機的な状況だったのですが、次の田中義一内閣で高橋是清(これきよ)が大蔵大臣となり、紙幣を大量に供給。わずか40日で事態を収拾してしまいました。
あの、「表しか印刷しなかった200円札」で有名な時代です。裏は白紙のお札。(笑)
この働きによほどインパクトがあったのか、このあと何度も何度も高橋是清は大蔵大臣に任命されます・・・最後には悲しい目にあってしまいますが。
さて。
こういう大事件があると
「やっぱり大銀行が安心できるよね」
と多くの人は考えますので、大銀行を中心に銀行が整理され、三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行が特に資本を集中し、財閥が力を強めました。
田中義一「日本人を守るのは当然だろう」
田中義一内閣のもとで、初めての普通選挙が行われます。普通選挙法は1925年、加藤高明内閣のころできていましたね。
それが初めて実際に行われます。
で、田中義一は普通選挙によって共産主義が勢力を伸ばしては困るということで、治安維持法に死刑を加えたり、特別高等警察を設置したりしました。
特別高等警察というのは主に共産主義を取り締まる警察です。
田中内閣の積極外交
また、前の加藤・若槻内閣の
- 「幣原(しではら)外交=協調外交」
に対して、
- 「田中外交=積極外交、武断外交」
と言われることが多いです。
これは教科書では「侵略を進めた」と説明されることが多いですが、実際やったことは「居留民の保護」です。
現在と同じで、中国大陸で日本人が多数生活しているわけですが、今と違うのは当時の中国は軍閥が割拠する動乱状態にありました。
それで、日本人が殺されるということが何度も起きましたので、保護のために山東出兵も行っています。
済南事件(さいなんじけん)など、教科書では日本軍が引き起こしたような書かれ方をされることもありますが、実際は日本人が非常に残虐な方法で虐殺されている事件です。
そういう状況を見て
「自己責任でしょ」
なんて、政府は「知らん顔」はできませんので、保護のために軍隊を出したということです。
教科書ではまったく逆の説明をして日本を悪者にしていることがありますが・・・怖い話ですね。
その後「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」が起こります。
日本を悪者に仕立て上げるための東京裁判では、関東軍の河本大作の犯行とされましたが、当時も現在も真相はわからないものです。
どちらにしても、日本と関係が深かった中国の要人が死んでいるのに、その真相がわからないということで昭和天皇の怒りを買い、田中義一はショックのあまり辞任してしまいます。
浜口雄幸内閣…台風が来ているのに雨戸を開けた?
次は浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣ですが、
「台風が来てる時になんで雨戸を開けるんだよ!」
と批判された内閣です。^^;
何があったのかと言うと、1929年、浜口内閣が成立したすぐあとにアメリカで世界恐慌が始まります。台風がやってきたということです。
世界恐慌→昭和恐慌
でも、そんなタイミングで、井上準之助大蔵大臣は、金本位制復帰&金輸出解禁(金解禁)を実施してしまいます。雨戸を開けてしまったということです。
金本位制に復帰したので、日本円と金を決まった額で交換できるようにしたわけですが、その額が実情に即していなかったので、輸出を解禁した結果、大量の金が海外に出ていってしまいました。
金本位制なので、「国内の金の量が減る=貨幣の量が減る」ということになります。勝手にお金を印刷することもできません。
それで日本は「昭和恐慌」となってしまいます。
ここちょっと、ゴッチャになりやすいです。
- 1927年 昭和金融恐慌←大蔵大臣失言がきっかけのやつ
- 1930年 昭和恐慌←世界恐慌にまきこまれたやつ
まぎらわしいので、昭和金融恐慌の方は「昭和」を省略して単に「金融恐慌」ということも多いです。
なぜこんなタイミングで金解禁をやってしまったかということですが、以下のような理由が挙げられます。
- 国内産業に負荷をかけることで淘汰(=産業合理化)しようとした
- 来るロンドン海軍軍縮会議のために欧米と足並みをそろえた
ただ2つ目の理由は弱いですね。ロンドン会議への日本の参加はイギリスとアメリカが強く望むところでしたし、世界恐慌の影響で、1931年のドイツ、イギリスを皮切りに各国次々と金本位制をやめていきますので。
結局、最悪のタイミングでの金解禁の結果、産業合理化ではなく壊滅的ダメージを与えてしまいます。
金本位制なので金(ゴールド)が減ればお金(マネー)が減ります。となると物価は下がります。デフレですね。
そして、生糸や繭、米の価格が暴落して特に農村が大きなダメージを受けます。村の役所が貧しい農家の娘さんを売る仲介をするなどというひどい状況になってきます。
自分の村の悲惨な状態を見て、若い軍人がどう思うか、ということですね。「妹が売られる」「幼馴染が売られる」という状況を。
さて。
ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題
そんな中、ロンドン海軍軍縮会議が開かれます。
これはイギリスとアメリカが手を組み、
「ここに日本を引き入れれば何とか国際的な安定は保てるな」
ということで企画したものです。
ワシントン海軍軍縮条約ではしっかり参加していたイタリアとフランスが、ロンドンには部分的にしか参加していません。
つまりイギリスとアメリカは、イタリアとフランスを無視してでも、日本を引き入れたかったんです。当時はそれほど、「日本は強い」と認識されていました。
ワシントンでは1万トン以上の主力艦でしたが、ロンドンでは補助艦の保有比率が定められます。
結果、
米:英:日=10:10:7
と決められました。厳密には日本はちょっと妥協して、70%ではなく69.75%です。そこがギリギリの妥協ラインとなりました。
これは、英米からすると
「日本が我が国の7割以上補助艦を持つと我が国は勝てない」
という考えがあるからで
日本としても
「英米に勝つためには7割必要」
という考えがあったからです。
「7割持てば日本が勝つ」と英米日の3国とも考えているわけだから、日本の海軍はそれくらい強かったということですね。
ということで「ほぼ7割」確保できたので、政府としては上々の結果でした。
でもこれに対して「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」問題が起こります。
統帥権というのは軍を指揮する権限で天皇大権の一つです。
で、条約によって軍艦の数を制限するのは、この統帥権を侵害することになるんじゃないかと・・・言う人がいたわけです。
特に誰が騒いだのかと言うと、野党の政友会の人たちです。
つまり今でもよくある話で、野党の人としては
「何か政府を批判するネタはないか・・・」
と必死に探した挙げ句「これだ!」と思ったのが「統帥権干犯」というネタです。
だから時々言われるように海軍が強硬に主張したわけではありません。
大日本帝国憲法では「外交大権」も天皇大権の一つなので統帥権と同じ「天皇の権限」です。また統帥権はあくまで「軍を指揮する権限」であって条約の内容を左右する権限はないので問題にはなりません。
ここで軍部の発言力が強まるとすれば、統帥権干犯問題自体が原因ではなく、大変な時代にそんな「揚げ足取り」ばかりしている政党から国民が離れ、軍部を支持するようになってしまうことが原因でしょう。
幣原外交&昭和恐慌→国民の不満高まる
浜口内閣の外務大臣は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)で、有名な幣原外交=協調外交の人です。
それで、中国大陸で日本人が殺されたりしても「軍隊を送って居留民保護」ということはしなかったので、この点でもやはり、国民の心は政党から離れてしまいます。
だって、日本人が殺されているのに「遺憾に思います」とか発表するだけでは・・・さすがに国民は怒ります。
となると、国民の中には過激な考え方をする人も出てきますので、浜口首相は東京駅で銃撃され、職務困難となって総辞職することになりました。
浜口首相は負傷したにもかかわらず職務遂行しようとして無理がたたったためか、総辞職から4ヶ月後に亡くなっています。
憲政の常道とは
浜口首相が退陣したあとも、同じ立憲民政党の内閣が続きます。第二次若槻礼次郎内閣です。
なぜ同じ政党が続いたのかと言うと、浜口首相が辞めるきっかけになったのは銃撃であり、そのような暴力によって政権が交代させられることは認められないからです。
つまり「憲政の常道」は守られたわけ。
憲政の常道とは、
- 与党内閣が失政によって総辞職→野党第一党の党首が次の首相として元老が天皇に推薦
- その際、選挙が行われて国民の意見が問われる→だいたい新政府の与党が勝つ
- 選挙に負けた場合、衆議院の協力がないから満足に政治できない→結局総辞職に追い込まれる
- 結果、衆議院で多数を占めた政党が政権を担当することになる
- テロなど不当な方法で内閣が潰された場合は、引き続き与党から首相が選ばれる
という政治上の慣習です。
それで今回の場合は不当な方法で首相が職務困難となったのだから、与党は変わりません。
外務大臣は幣原喜重郎、大蔵大臣は井上準之助ということで、「協調外交」「緊縮(デフレ)財政」という国民が特に不満を持っていた政策2つは続きます。
- 協調外交…中国大陸で日本人が殺されても出兵はしない
- 緊縮財政…金解禁による金流出のため貨幣を増やすことはできない
ということで中国大陸でも国内でも、苦しむ人が増えてしまいます。