このページの目次
大正時代は15年しかないんですが、ものすごくたくさんのことがつまっています。
ということで最初にまとめ。
- 【明治末…桂園時代】
- 桂太郎(藩閥軍閥)と西園寺公望(政党)
- 交互に政権→大変な時代を乗り切る
- 【大正政変】
- 軍部大臣現役武官制の利用→第2次西園寺内閣総辞職→第3次桂内閣
- 尾崎行雄、犬養毅…「閥族打破」「憲政擁護」=第一次護憲運動
- 桂内閣総辞職=大正政変
- 次の山本権兵衛内閣もシーメンス事件で総辞職
- 【第一次世界大戦】
- 1914年 バルカン半島「ヨーロッパの火薬庫」でサラエボ事件
- 英仏露「三国協商、連合国」VS独墺「同盟国」
- 日英同盟で日本も参戦→山東半島や南洋諸島のドイツ権益を奪う
- 中華民国に二十一カ条の要求
- ロシア革命でロシア離脱
- アメリカ参戦
- 日米→シベリア出兵
- 【大戦景気】
- ヨーロッパは戦争→日米は輸出を伸ばす→好景気
- 成金
- 蒸気力から電力へ
- 化学工業発展
- 四大工業地帯成立
- 物価とくに米価上昇→米騒動、労働運動
- 原敬…日本初の本格的政党内閣
- 【ヴェルサイユ体制、ワシントン体制】
- 1919年 ヴェルサイユ条約
- ドイツ…莫大な賠償金その他の負担
- 日本…アジア太平洋のドイツ権益継承
- アメリカ大統領ウィルソンの提案で国際連盟設立
- 人種差別撤廃…ウィルソンが反対
- 1921~22年 ワシントン会議
- 四カ国条約
- 九カ国条約
- ワシントン海軍軍縮条約
- 【大正デモクラシー】
- 護憲運動…犬養、尾崎
- 政党内閣…原敬内閣
- 民本主義…吉野作造
- 天皇機関説…美濃部達吉
- 普通選挙法…加藤高明内閣
- 婦人運動…平塚らいてう、市川房枝
- 【戦後恐慌】
- 大戦が終わると輸入超過に逆戻り
- 1923年 関東大震災
- 虎ノ門事件…裕仁親王狙撃
桂園時代…政権キャッチボールで大変な時代を乗り切る
で、大正時代に入る前に、ちょっとだけ明治末の話をしておかねばなりません。
明治末は「桂園時代(けいえんじだい)」と呼ばれます。「けんえん」ではなく「けいえん」。
- 桂太郎…長州閥、陸軍閥←山縣有朋
- 西園寺公望…立憲政友会←伊藤博文
この二人で交互に内閣総理大臣を務めたから、名前の一文字ずつをとってそう呼ばれます。
桂→西園寺→桂→西園寺→桂
桂さんは3回、西園寺さんは2回。
で、桂さん3回目が大正時代の始まりです。
ご覧の通り桂太郎は藩閥・軍閥が後ろ盾で、長州出身で陸軍のトップの山縣有朋(やまがたありとも)がバックにいます。
※桂太郎さんです
それに対して西園寺公望(さいおんじきんもち)は立憲政友会という政党が基盤。西園寺さんはとっても家柄の良い公家出身なんだけど、政党基盤というところがすごい。
※西園寺公望さんです。
ちなみに立憲政友会は伊藤博文が作った政党です。
初期議会で政府と政党が対立ばっかりしてましたよね。それで伊藤博文は
「政党をうまく活用しないと政治は進まないな」
ということで立憲政友会を作りました。西友じゃありませんよ、漢字間違えないように。^^;
それでなんでこんな政権キャッチボールをしたかと言うと、大変な時代だったからです。
第一次桂内閣の時に義和団の乱、日英同盟、日露戦争と続きます。
だから藩閥VS政党とかやってる場合じゃなく、
「協力できるところは協力しましょう」
「その代わり、任期満了したら政権を相手に渡しましょう」
という暗黙の了解で、政治を安定的に進めたというわけ。
だけど御存知の通り、1909年に伊藤博文がハルビンで殺されますので、力のバランスが崩れます。
第一次護憲運動
第二次西園寺内閣の時、陸軍が軍拡予算を要求してきますが、西園寺内閣はこれを拒否。
陸軍は陸軍大臣の上原勇作を辞任させ、かつ後任を出さなかったので内閣が成立しないことになり、西園寺内閣は総辞職することになります。
なぜそうなるのかというと、当時は軍部大臣は現役の軍人であることが条件だったからです。「軍部大臣現役武官制」といいます。陸軍、海軍が推薦してくれないことには陸軍大臣、海軍大臣を決められません。
今みたいに総理大臣が他の大臣を全部決めるわけじゃないんです。
そのうえ、軍隊を指揮する「統帥権(とうすいけん)」は天皇大権の一つで「独立」とされていました。だから天皇の了解を得られれば、総理大臣の意向を無視して軍部大臣を辞めさせることもできたわけです。
ということで第二次西園寺内閣はつぶれて第三次桂内閣となります。これが1912年、大正元年の出来事。
これに対して、当然ながら政党側から反対運動が起きます。
立憲国民党の犬養毅(いぬかいつよし)と立憲政友会の尾崎行雄(おざきゆきお)らが中心となって
「憲政擁護」「閥族打破」
をスローガンに、倒閣運動を繰り広げます。第一次護憲運動といいます。
「憲法に基づいた政治をしよう!」
「軍閥、藩閥勢力なんて倒してしまえ!」
ということです。
さすがにこれには賛同者も多く、第三次桂内閣は2ヶ月もたずに総辞職となりました。護憲運動によって桂内閣が総辞職に追い込まれた事件を大正政変と呼びます。
あ、ちなみに尾崎行雄は衆議院議員を60年以上も務めて、「憲政の神様」という異名がありますね。^^
国民の運動で内閣を倒してしまったということで、この第一次護憲運動が「大正デモクラシー」のスタートとなりました。
デモクラシーというのは「民主主義」と訳されますが、当時は「民主主義」なんて言葉は使えませんので、そのままデモクラシーといいます。
「民主」だと「国民が主人」という意味になって「天皇主権」に反するのでそんな言葉は使えないのです。
第一次山本権兵衛内閣…バランスを取る!
桂太郎が総理大臣を辞めたあとは山本権兵衛(ごんべえ、ごんのひょうえ)が総理大臣になります。
西園寺公望さんと比べると、山本権兵衛さん、すごく身近に感じるお名前です。^^
で、山本権兵衛は薩摩出身で海軍大将。
「え? また藩閥軍閥? ダメじゃん」
と思ったかもしれませんが、山本権兵衛は立憲政友会、つまり政党と協力関係を結びます。
つまり、政党と藩閥軍閥の間を取り持てるような立場に立ったということです。バランスを取る!
で、山本さんは政党に少し譲歩して、軍部大臣現役武官制を改正し、
「現役じゃなくてもオッケー」
ということにします。つまり引退した人であっても、大将か中将であれば陸軍大臣や海軍大臣になれることにしました。
でも間の悪いことにシーメンス事件が起こります。
これは海軍の高官が、ドイツのシーメンス社から賄賂を受け取っていた、さらにイギリスのビッカーズ社からも受けとっていた、という事件です。
山本権兵衛は海軍出身なので「あんたにも責任があるよね」なんて批判が集中し、内閣総辞職となりました。
第一次世界大戦…日本は戦場から遠いので
次に総理大臣になるのが大隈重信です。まあ2回目なんですけど。
大隈重信内閣の時に、第一次世界大戦が起こります。
第一次世界大戦はヨーロッパが戦場です。
当時ヨーロッパは2グループに分かれていました。
- 三国協商…ロシア、フランス、イギリス
- 三国同盟…ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア
オーストリア・ハンガリーは当時は一つの国です。
ロシアとイギリスが手を組んでるんですね。ロシアと対抗するために日英同盟なんて組んだはずなのに。これだから国際政治は「わけがわからないよ」と言いたくもなります。
で、ロシアとオーストリア・ハンガリーはバルカン半島に勢力を伸ばそうとしていました。
それでバルカン半島は揉め事のもと、「ヨーロッパの火薬庫」なんて呼ばれていました。
サラエボ事件から連鎖的に宣戦布告
そしてその火薬庫に火をつけてしまう事件が起こります。1914年のサラエボ事件です。バルカン半島のサラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されてしまいます。
犯人がセルビア人だったということで、オーストリアはバルカン半島にあるセルビアに宣戦布告。
それに対して、ロシアがセルビアを助けるということで戦争に参加。
それを見たドイツも戦争に参加、ドイツは背後を突かれると嫌なのでフランスとベルギーにも宣戦布告。フランス、ベルギーにとってはいい迷惑。
それを見たイギリスはドイツに宣戦布告。
整理しましょう。
- サラエボ事件
- オーストリア「皇太子のかたき!」→セルビア
- ロシア「セルビア援護!」→オーストリア
- ドイツ「オーストリア援護!」→ロシア、フランス、ベルギー
- イギリス「ドイツやりすぎ!」→ドイツ
こんな感じで戦いを仕掛けていきます。
なんかドミノ倒しのように次々と戦争に参加して第一次世界大戦スタートとなってしまいました。
ちなみに単純な覚え方ですが、1894年から10年おきに戦争が起きていると覚えておくといいです。
- 1894年 日清戦争
- 1904年 日露戦争
- 1914年 第一次世界大戦
イタリアは三国同盟でしたが、「オーストリアが侵略したから悪いんでしょ」という理由で当初は参戦せず、あとになってオーストリアに対して宣戦布告します。同盟を裏切ったわけです。
では日本はと言うと、日英同盟を理由に三国協商=連合国側で参戦します。これはイギリスの要請があったからで、「ヨーロッパが忙しい隙に何か横取りしてやろうぜ」ということではありません。
意外かもしれませんがロシアは味方、ドイツは敵。第二次大戦と逆ですね。
そうして、中国大陸の山東半島や青島(ちんたお)、また赤道以北の太平洋の島々など、ドイツが支配していた地域を奪っていきます。
ここ、山東半島で、前に問題になった遼東半島のちょっと南ですね。
中国に対しては二十一箇条の要求を突きつけます。そうして、日本がドイツの権益を受け継ぐことその他いろいろを認めさせます。
ちなみにこのとき中国は「中華民国」となっています。1911~12年に辛亥革命(しんがいかくめい)が起こり、清は滅びました。
日本では1912年というと、護憲運動で桂太郎内閣総辞職でしたが、中国ではそれどころでなく、長く続いた清王朝が滅んだというわけ。
話を第一次大戦に戻しましょう。
ロシア「いちぬけた!」
第一次世界大戦はそもそもオーストリアとロシアのバルカン半島での対立から大きくなっていくわけですけど、一方の主役とも言えるロシアが1917年に戦争から離脱してしまいます。
まあ日露戦争の時点で、ロシア国内はだいぶ怪しい状況になっていたのですが、1917年にとうとうロシア革命が起きまして、ロシア帝国は滅んでしまったんです。
日本で警官に斬りつけられたけどケガだけですんだニコライ2世ですが、自国民に一家皆殺しにされてしまいました。
で、ロシアは第一次大戦から「一抜けた」ということになりました。
となると・・・ドイツは嬉しいですね。背後を気にせず、フランスとイギリスの方へ戦力を集中できます。
でも、ドイツは同じ年、無制限潜水艦作戦を実行してしまいます。これで、大西洋を航行する中立国の船もターゲットとします。そして、よせばいいのにアメリカの船を沈めてしまいます。^^;
それでせっかく中立だったアメリカを、敵として大戦に呼び込んでしまいました。瀕死だったロシアにかわって元気100倍アメリカの参戦です。
そして各国はこう考えます。
- 英仏「ドイツの背後で戦って注意を引いてほしい」
- アメリカ「頼まれては仕方ない」「帝政ロシアを倒した革命政府を利用したい」
- 日本「頼まれては仕方ない」「共産主義の波及は困る」「満州権益を守りたい」
ということで1918年「ロシアに取り残されたチェコ軍を救う」という名目で、日米を中心とする軍隊がシベリア出兵を行います。
ただ日本は積極的だったわけではなく、最初のシベリア出兵要請に対して寺内正毅(まさたけ)内閣は
「日本は常に連合国共同目的のために貢献を行う用意があるが、それは全部の連合国の全幅の支持に依存する。故に日本は米国と他の連合国間の了解が成立するまでいかなる行動をとることも差し控える」
と答えています。
「連合国すべてが『日本も出兵して』と言わない限りシベリア出兵はしないよ」
と言ってるわけ。
なので1918年の出兵に関しては、連合国の合意に従った、ということです。
しかし上記の通り、各国で思惑が異なりますので、時間の経過とともに足並みは乱れていきます。
で、アメリカは先に撤兵してしまいますが、日本は尼港事件(にこうじけん)をきっかけに、撤兵できなくなってしまいました。
これはロシアのニコラエフスクというところで、「共産パルチザン」によって、民間人その他数千人が、非常に残酷なやり方で虐殺された事件ですが、その中に日本人700人以上も含まれていました。
それで「日本人居留民の保護」が任務として加わり、シベリア出兵は長引いてしまいます。
さてでは。
第一次世界大戦中、日本国内はどうだったかと。
大戦景気
日本は戦場ではありませんので、第一次世界大戦による直接的な被害はありません。
それに、ヨーロッパが戦争で貿易どころじゃなくなりますので、それにかわって日本やアメリカが輸出を伸ばすことができました。
これによって日本国内は景気が良くなります。大戦景気といいます。
成金さんがお金を燃やしている絵が有名な、あの時代です。
日本はこの時期に債務国から債権国に変身することができました。借金暮らしから一転、お金を貸す立場になったんです。
またこの時期、急速に大きくなった会社としては鈴木商店や内田汽船、山下汽船が有名。特に海運業の会社は船成金と呼ばれたりしました。好景気によって海運需要が高まったわけです。
日本で化学工業が育ってくるのもこの頃です。化学と言えばドイツだったのですが、大戦で敵国となってしまって化学製品を輸入できなくなりましたので、日本は自前の化学工業を育てたというわけです。
水力発電も発展し、猪苗代から東京まで送電することもできるようになりました。動力源の中心が蒸気力から電力に変わったのがこの頃です。
一方。
米騒動
好景気によって物価は上昇しました。そして特に米価が上昇したことで大事件が起こります。
- 好景気で米を食べる人が増えた
- 都市に移る人が増え、米の生産は伸び悩み
- 大戦によって米の輸入は減った
以上のことが原因となり、またより高く売るために売り惜しみをする地主や商店も増えたことで米価上昇が加速します。
そこに加えてシベリア出兵。
「シベリア出兵か」
→「戦うには食料は必須だな」
→「米はもっと値上がりするな」
ということで売り惜しみが加速し、さらにさらにお米は高くなってしまいます。
そしてとうとう限界に達し、米の県外積み出し停止を要求したり、米問屋や資産家のもとに押しかけたりという米騒動が起こってしまいます。
まず富山で起こり、全国に波及します。
米騒動の責任をとって、寺内正毅内閣は総辞職。次に総理大臣になったのは「平民宰相」と呼ばれた原敬(はらたかし)です。
原敬→日本初の本格的政党内閣
「平民宰相」ですが生まれは武士の家だから平民ではなく士族です。
この原敬さんで大事なのは「日本初の本格的政党内閣」を作ったこと。軍部大臣と外務大臣以外はすべて立憲政友会の党員から選ばれました。
つまり衆議院で多数を占めた政党の党首が総理大臣になり、その政党の党員が国務大臣になったということで、選挙を通じて、国民が選んだ人が初めて総理大臣になったというのが画期的だったんです。
今ではそれが普通ですけどね。
「本格的政党内閣」というように「本格的」とつけているのは、本格的ではない政党内閣なら前にもあったということです。^^;
それはさておき。
原敬は普通選挙こそ実現できませんでしたが、選挙権の資格を「直接国税3円」に引き下げています。
優れた政治家で国民からの人気も高かったのですが、1921年、山手線の職員に東京駅で刺殺されてしまいました。
原敬を高く評価していた山縣有朋は、この事件で非常に大きなショックを受け、3ヶ月後に亡くなっています。
ここで大きな指導力を持つ政治家二人が一度にいなくなってしまいました。
これから大変な時期だというのに、日本にとっては大きな痛手です。
ヴェルサイユ条約
ではまた、国内から海外へ目を転じましょう。
はい、第一次世界大戦はどうなったのかですね。
せっかくロシアが抜けてくれたのに、アメリカを呼び込んでしまったドイツは、1918年に降伏となりました。
そして、1919年にパリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約で戦争終結となります。日本からは西園寺公望と牧野伸顕(まきののぶあき)が出席します。
ここでドイツは、過酷な負担を強いられ、それが後のヒトラーの出現につながります。
日本は連合国側、つまり戦勝国ですので、山東半島や南洋諸島など、旧ドイツ権益の継承を認められます。
このヴェルサイユ条約によって成立した国際秩序をヴェルサイユ体制と呼びます。
国際連盟で平和を守ろうと思ったけど…
また、第一次世界大戦は多くの新兵器が導入され、その時点では史上最大の死者を出した戦争でしたので、ヴェルサイユ条約には、平和を守るための国際機関として国際連盟を設立することが盛り込まれました。
国際連盟はアメリカ大統領ウィルソンの提案で、ウィルソンの十四か条の平和原則にも入っています。
さらに、日本の提案で人種差別撤廃を盛り込もうとしました。これは過半数の賛成を得られたのですが、アメリカのウィルソン大統領が「全会一致じゃないとダメ」と言い始めて流れてしまいました。
そんなこんなで国際連盟は1920年にスタートしました。本部はスイスのジュネーブです。しかし以下のような弱点を抱えていて、第二次世界大戦を防ぐことができませんでした。
- 全会一致制=一国でもNOといえば議決できない
- 世界最強国アメリカ不参加…言い出しっぺのくせに
- 武力制裁なし…経済制裁でかえって追い詰めることに
ウィルソンの14か条には「民族自決」も盛り込まれていました。
「各民族、自分たちのことは自分たちで決めるべきだよね」
という考え方です。まあウィルソンさん、人種差別撤廃には反対してるんですが。^^;
この「民族自決」の影響を受けて、1919年には朝鮮で三・一独立運動が起こりました。また、中国では日本の権益を認めたヴェルサイユ条約に反対する五・四運動が起こりました。
ワシントン会議「現在の勢力分布を固定しちゃおう」
国際連盟が発足した次の年、1921年から22年にかけてワシントン会議が開かれます。
ワシントンだからアメリカが主催です。ハーディング大統領の呼びかけ。ワシントン会議は、世界初の軍縮会議ということになっています。
日本からは加藤友三郎(ともさぶろう)が出席。また徳川家達(いえさと)も出席しています。世が世なら、16代将軍になっていたかもしれない人。
ワシントン会議で結ばれた条約は以下の通り。
- 四カ国条約…太平洋での勢力の現状維持、日英同盟解消
- 九カ国条約…中国の領土保全、門戸開放、機会均等、日本の山東権益返還
- ワシントン海軍軍縮条約…主力艦保有比率の制限
全体として言えるのは
「今のこの状態を固定して争いを防ごう」
ということ。
四カ国というのは米英仏日、つまり第一次世界大戦の連合国です。太平洋での奪い合いはやめて、現状維持で行きましょうと約束。四カ国条約結ぶんだから日英同盟は要らないよね、ということで解消。
九カ国というのは四カ国にイタリアを加えた5大国とベルギー、オランダ、ポルトガル、中華民国。
「ベランダにいたいポチに雨」
とでも覚えておきましょう。ベルギー、オランダ、にほん、イタリア、イギリス、ポルトガル、チュウゴク、アメリカです。
で、九カ国条約は、「どこか特定の国が中国を侵略しちゃダメよ。みんなで平等に中国と交易しよう!」という内容です。それをおカタイ言葉でいうと「中国の領土保全、門戸開放、機会均等」となります。
主力艦保有比率は
英:米:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67
とされました。ちなみに「主力艦」は「1万トン以上の軍艦」と決められました。それより小さい軍艦には制限がかからないということです。
ワシントン会議でできた国際秩序をワシントン体制と言います。
- ヨーロッパ…ヴェルサイユ体制
- アジア、太平洋…ワシントン体制
ということですね。
さてではまた国内に戻ってきましょう。
大正デモクラシー
「大正デモクラシー」の動きとして、第一次護憲運動がありましたね。桂内閣が倒されました。
それから原敬の政党内閣。
で、他に何があったのか。
吉野作造の民本主義
吉野作造(よしのさくぞう)という東大の先生が主張した民本主義も多くの人に影響を与え、普通選挙運動(普選運動)が盛り上がる一因となりました。
民本主義というのは、デモクラシーを日本語にする場合、大日本帝国憲法は天皇主権だから「民主主義」という言葉は使えないので「民本主義」と言ったまでのことです。
「政治は国民のためのものでなければならない」という考え方で、日本に大昔からある「民は大御宝(おおみたから)」という考え方となじみやすいですね。
それで普通選挙運動につながります。
普通選挙法
普通選挙というのは「納税額による制限がない選挙」です。反対の言葉は制限選挙。
原敬内閣も、「直接国税3円以上」と金額を落としただけで、普通選挙にはしませんでした。
普通選挙法ができるのは、1925年、加藤高明(たかあき)内閣のときです。
同時に治安維持法も作られます。治安維持法は、国体や私有財産制を否定する運動を取り締まるものです。
国体というのは国民体育大会ではなく、要するに「天皇中心の国の仕組み」のことです。これを否定するのは日本人としてはとんでもないということ。
それから私有財産制の否定というのは、共産主義を想定しています。
ロシア帝国が滅んで、共産主義のソビエト連邦となりましたので、それが日本まで広まっては困るというわけです。
ただのちに拡大されて、どんどん自由を制限するものになっていきます。
普選はいいけど婦選は?
ここで。
「普通選挙って、税金の制限がなくなるだけなの?」
って思ったかもしれません。
そうなんです。年齢制限と性別制限はあるんです。
だから普通選挙と言っても選挙権が認められるのは
「25歳以上のすべての男子」
ということになります。
これを見て
「いやいやいや、それはおかしいでしょ」
と思う女性がいるのは当然です。
平塚らいてう(らいちょう)は青鞜社(せいとうしゃ)を作って婦人運動を繰り広げます。
「元始、女性は実に太陽であった」
という言葉は有名ですね。
天照大神(あまてらすおおみかみ)は女神ですし、邪馬台国は女王でもってましたし。^^
また平塚らいてうは市川房枝とともに新婦人協会を作り、男女平等や婦人参政権を求めていきます。
そうそう。
天皇機関説ってわかりにくくない?
この時期の政治思想として美濃部達吉(みのべたつきち)が主張した「天皇機関説」という考え方があり、多くの人に支持されていました。他でもない、裕仁親王(後の昭和天皇)もこの考え方を支持していました。
天皇機関説というのは、「天皇は国の最高機関」という考え方です。
もちろん、天皇は主権を持っていますが、その主権とは「国の政治に関しての最高の決定権」ということで、それはもちろん「国のため」になる決定でなくてはなりません。
つまり天皇機関説は簡単に言ってしまえば
「天皇陛下も国のために働いてらっしゃるんだよ」
「国のために働く人々の中でも最高の力を持つのが天皇陛下なんだよ」
という考え方です。
それに反対したのが穂積八束(ほづみやつか)の「天皇主権説」です。
こっちも天皇が主権を持っているという考え方は同じですが、その主権の中身が違います。こちらの主権は「絶対的な力」です。
だから「天皇も国のために働く」ではなく「天皇=国」ということになります。ルイ14世の「朕は国家なり」ということばがピッタリです。
大正デモクラシーの時代は、天皇機関説のほうが通説となっていました。
以上のように。
大正デモクラシーの動きは活気があってよかったのですが、大正時代の終わりには、暗雲が立ち込めてきます。
戦後恐慌…成金「百円燃やすんじゃなかった(泣)」
まず、大戦景気が終わります。そりゃそうでしょう、第一次世界大戦のおかげで景気が良くなっていたのだから、大戦が終わるとやばいです。
ヴェルサイユ条約の1919年には早くも輸入超過となります。「輸入>輸出」となったということ。そして次の1920年には株価も物価も暴落します。
これを戦後恐慌、反動恐慌と言います。まあバブル崩壊みたいなものです。
これだけならまだ立ち直れたかもしれませんが、さらに追い打ちがかかります。
関東大震災でさらに追い打ち
1923年の関東大震災です。これによって14万人の死者行方不明者が出て、経済的にも大きなダメージを被ってしまいます。
このときちょうど総理大臣になったのが山本権兵衛さん、2回目ですね。
1回目は第一次護憲運動の直後だったので「なんで俺ばっかり大変な仕事が回ってくるんだ…」という気持ちだったかもしれません。^^;
山本内閣は全力で復興にあたりますが、さらにさらに追い打ちをかけるように虎の門事件が起こります。
これは摂政宮裕仁親王(せっしょうのみやひろひとしんのう、後の昭和天皇)が狙撃されるというとんでもない事件で、山本内閣は責任をとって総辞職します。
このあとさらなる追い打ちがやってきますが、それは昭和に入ってからのお話。