このページの目次
今回は帝国議会が始まって以後の話で、日清・日露戦争が中心です。
最初にまとめておきましょう。
- 【明治初期の外交】
- 1871年 日清修好条規…対等
- 1875年 江華島事件→日朝修好条規…不平等
- 1875年 樺太千島交換条約
- 琉球処分→沖縄県
- 【不平等条約改正】
- 1871年 岩倉使節団→予備交渉すら失敗
- 井上馨…欧化主義→失敗
- ノルマントン号事件
- 大隈重信…大審院判事に外国人を採用しようとして反対される
- 青木周蔵…治外法権撤廃成功しそうだったのに大津事件で頓挫
- 1894年 陸奥宗光…治外法権撤廃
- 1911年 小村寿太郎…関税自主権回復
- 【日清戦争】
- 日本→朝鮮に勢力を伸ばす→清と対立
- 東学党の乱→日清両軍が出兵、鎮圧→両軍退かず日清戦争へ(1894年)
- 1895年 下関条約…朝鮮独立、銀2億テール、台湾を日本へ
- 【日露戦争】
- 日清戦争後、列強が清に勢力を伸ばす→義和団の乱
- 8カ国軍で乱を鎮圧→ロシアはそのまま満州に勢力
- 日英同盟
- 1904年 日露戦争
- 1905年 ポーツマス条約…賠償金取れず→日比谷焼き打ち事件
- 1910年 韓国併合
- 【産業革命】
- 日清戦争のころ…第一次産業革命(軽工業、綿糸中心)※大阪紡績会社
- 日露戦争のころ…第二次産業革命※八幡製鉄所
- 【明治文化】
- お雇い外国人
- ロエスレル…憲法草案作成
- ボアソナード…刑法、民法の起草
- ナウマン…ナウマンゾウの化石発見
- モース…大森貝塚発見
- ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)…文学、「怪談」
- クラーク…札幌農学校、「少年よ大志を抱け」
- 私立大学の前身
- 福沢諭吉…慶應義塾
- 大隈重信…東京専門学校→早稲田大学
- 新島襄(にいじまじょう)…同志社
- 津田梅子…女子英学塾→津田塾大学
- 山田顕義(あきよし)…日本法律学校→日本大学
- 欧米の影響を受けた近代文学…坪内逍遥、二葉亭四迷、森鷗外、夏目漱石など
初期議会と超然主義
1890年にスタートした帝国議会ですが、第一回から第六回までは特に「初期議会」と呼ばれます。
初期議会の特徴は
- 政府と衆議院の対立
です。
そもそも帝国議会が始まる前に、2番目の内閣総理大臣、黒田清隆が超然主義演説を行います。
「政府は常に一定の方向をとり、超然として政党の外に立ち、この上なく公正でなければならない。不偏不党の心で政治にあたらなければならない」
という演説。政府が特定の政党の言うことを聞くのは「えこひいき」だからダメだよと言いたいわけです。
まあでも黒田清隆さんも開拓使官有物払下げ事件では地元の商人をひいきしていましたが。^^;
それはさておき。
この演説でもう、国会が始まる前から、政党との衝突が約束されたようなものです。わざわざ始まる前からけんか売らなくてもという気はしますが。^^;
政府に同調する政党を吏党(りとう)、そうでない政党を民党と呼びましたが、第6回帝国議会までは、政府と民党が対立するばかりで、なかなか話が進まないという状態が続きました。
その状態を打ち破ってくれたのが、皮肉な話ですが戦争、日清戦争です。
ということで明治はじめの外交に移りましょう。
明治初期の外交
まず明治のはじめ、廃藩置県も行われた1871年にははやくも日清修好条規を結びます。これは対等な条約です。つまりもう、「清に朝貢しよう」なんて気は、さらさらないわけです。
琉球処分→沖縄県
また、台湾出兵では結果的に、清が「琉球は日本領」ということを認めることになりました。その後の琉球処分によって、1879年に沖縄県となります。
日本は自国民である琉球の人が台湾で殺された、その責任を問うために台湾に出兵した、という言い分なのですが、それを清は認めたわけです。
李氏朝鮮との関係
日本は清だけでなく李氏朝鮮とも国交を結ぼうとしましたが、こちらは拒絶されました。それで日本では征韓論も出てきます。
その後、征韓論を主張した人が、反対されて政府を離れ、自由民権運動や士族の反乱に加わったことは前回お話しましたね。
でもそのすぐ後、日本の軍艦が朝鮮の江華島(こうかとう)で砲撃され、それに反撃して砲台を破壊する、という事件が起きます。1875年の江華島事件です。
朝鮮の言い分としては、「西洋の軍艦と間違えて砲撃しちゃったんだよ、日本の軍艦とわかってたら砲撃なんかしないよ」というものでしたが、日本は江華島事件をきっかけとして強い態度で交渉に臨み、結局、日朝修好条規を結ぶことになります。
日朝修好条規は、朝鮮にとって不利な「不平等条約」でした。日本がペリー来航からやられたことに似ていますね。^^;
ただ、これ以前に清と対等な条約を結んでいますので、朝鮮の立場を考えると日本と朝鮮は対等な条約は結べませんでした。
もし日本と朝鮮が対等な条約を結ぶと
清=日本=朝鮮
と三国対等となり、そうなると朝鮮としても「清に何を言われるかわからない」という懸念があったわけです。
清「朝鮮さん、キミ、うちと対等って言いたいわけ?」
なんて凄まれるとやっぱり怖い。^^;
ロシアと樺太千島交換条約を締結
北方領土に関しては、江華島事件と同じ1875年にロシアと樺太千島交換条約を結びます。これで樺太(からふと、サハリン)はすべてロシア領、千島列島はすべて日本領となります。
- 樺太→全部ロシアのもの
- 千島列島→全部日本のもの
千島列島って、歯舞・色丹・国後・択捉だけじゃありませんよ? カムチャツカ半島と北海道の間にある千島列島全部です。
北方4島すら返還してもらえない今と比べると、エライ違いですね。
これは当時はロシアはオスマントルコと険悪なムードになっていまして、日本とまで揉めるわけにはいかなかったからです。
東西に戦力を分散せねばならなくなっちゃいますから。
そこを見透かした上で、日本の榎本武揚は交渉したわけですね。
そう、榎本さん、戊辰戦争で負けたけど、その後明治政府で出世しています。^^
以上で明治新政府は、日本の近隣の国々とは「とりあえず」関係を結びました。
不平等条約改正
でも問題は、近隣の国との関係だけじゃありません。江戸幕府が欧米諸国と結んでしまった「不平等条約」をなんとかしないといけません。
岩倉使節団
その最初の動きが1871年に出発した岩倉使節団です。
不平等条約改正の予備交渉を行おうとしましたが、ほとんど相手にされませんでした。まだ近代的な法制度も整っていない国とまともな話はできないというわけです。
寺島宗則
次は1873年に外務卿(がいむきょう、外務大臣のようなもの)になった寺島宗則(てらしまむねのり)の交渉ですが、アメリカは話に乗ってくれたけどイギリスは反対、ドイツとはちょうど揉め事が起こってしまって・・・結局失敗。
井上馨…欧化政策
続いて井上馨(かおる)。有名な鹿鳴館(ろくめいかん)を造った人です。1883年に完成。
なぜ鹿鳴館を造ったのかと言うと、欧米の偉い人を招いてダンスパーティを開くためです。それで「日本もヨーロッパのようになりましたよ!」と伝えることで、不平等条約改正をうまく進めようとしたわけです。
でもこれ、「そんな、表面だけ真似されてもねぇ」なんて馬鹿にされて、うまくいきませんでした。
ノルマントン号事件
またタイミングの悪いことにノルマントン号事件が起きます。
はい、この絵のやつ。
和歌山の近くで、ノルマントン号という船が沈没したのですが、「お客さん」として乗っていた日本人25人は全員死にました。
でも「乗組員」として乗っていたイギリス人やドイツ人は救命ボートでみんな脱出しました。
「え? おかしくない?」
ってなりますよね。普通、お客さんを優先して助けようとするはずでしょう。しかも日本人だけ全員死亡って。
それで、イギリス人船長は裁判を受けることになりますが・・・イギリス人は治外法権を認められているので、日本で裁判できません。イギリス領事が裁判することになります。
船長「助けようとしたんだけど、英語が通じなくて無理でした」
領事「それはしかたないね、無罪」
ということになりました。
これをきっかけに「治外法権を許すな!」ということで不平等条約改正の世論が燃え上がります。
大隈重信…爆弾で「失脚」
次は大隈重信です。大隈は
「大審院(最高裁判所)に外国人の裁判官を採用するから、治外法権なくしてくれません?」
と交渉します。
でもさすがにこれは、日本でも反対が出ます。最高裁判所の裁判官に、一部とは言え外国人を使うなんて・・・受け入れられない人が多いでしょう。
大隈重信は過激な「活動家」に爆弾を投げつけられ、右脚切断の重症を負って外務大臣をやめることになります。ここから「失脚」という言葉ができたなんて笑えない話もあります。
青木周蔵…不運、大津事件
次の青木周蔵は、イギリスが同意してくれたので治外法権撤廃にほぼ成功していました。
しかし間の悪いことに大津事件が起こります。大津事件というのは、来日していたロシア皇太子に日本の警官が斬りつけたという滅茶苦茶な事件です。
さすがにこれには全日本人血の気が引きました。
「やばい、絶対ロシアと戦争になる・・・」
でも、明治天皇自ら皇太子のお見舞いに行ったりして、なんとか事なきを得ました。なんかね、ロシア皇太子のニコライさん、日本が好きだったそうで助かりました。畳とか大量に買って帰ったそうです。
青木周蔵さんは責任をとって辞任。条約改正はまたもや頓挫です。
陸奥宗光…治外法権撤廃
そしてやっと治外法権撤廃に成功するのが陸奥宗光(むつむねみつ)。1894年の日英通商航海条約です。当時世界最強のイギリスが認めたので他の国もそれにならいました。
「白紙に戻す遣唐使」のちょうど1000年後に、治外法権も白紙に戻しました。
イギリスは、ロシアを敵視していたので、アジア方面でロシアに対抗できそうな国として日本に目をつけていたんです。それで条約改正も認めてくれたんですね。
小村寿太郎…関税自主権回復
残りの関税自主権の回復についてはだいぶ後になります。1911年の改正日米通商航海条約。外務大臣は小村寿太郎(こむらじゅたろう)。今度はまずアメリカが認めてくれました。
1894年治外法権撤廃、1911年関税自主権回復
「チカンやくよ、いい?」
「治外法権」と「関税自主権」ということで。頭文字をとって「チ」と「カン」です。
さて、不平等条約の話はここまでにして、ちょっと時代をさかのぼります。
日清戦争の前まで。
日本と清が朝鮮を釣り上げようとしているアレ
日本は日朝修好条規を結んだ後、朝鮮に勢力を伸ばしていきます。
李氏朝鮮、したたかな閔妃
当時、李氏朝鮮では皇后の閔妃(びんひ、みんぴ)と皇帝の父である大院君(だいいんくん)が対立していまして、閔妃暗殺未遂事件が起こりました。壬午事変(じんごじへん)です。
で、この事件に巻き込まれる形で、日本大使館が焼き討ちにされ、日本人も殺されました。これは、閔妃が親日的だったからです。
「閔妃は日本の力を利用しようとしてるらしいぜ」
「じゃあ日本も叩いておかないとな」
ということ。
日本はその責任を問う形で、済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を結びます。サイモッポです。なんか面白い響き。
済物浦条約によって、日本大使館護衛のために、日本の軍隊が朝鮮にとどまることが認められました。
その後、閔妃は親清的になり、親日的な金玉均(きんぎょくきん)と対立し、一時的に政権を奪われます。甲申事変(こうしんじへん)です。金玉均って、読み方間違えないように!
閔妃は清の力を借りて政権を取り戻し、その後、金玉均も暗殺します。
これでまた日本人が被害にあったので、日本は朝鮮と漢城条約(かんじょうじょうやく)を結びます。これも朝鮮に対して様々な賠償を求めるものです。
日本と清→天津条約
また、閔妃が清の力を借りたために、日本と清との間にも緊張が高まりましたので、これについては天津条約(てんしんじょうやく)で話をつけます。
これによって、「日本も清も朝鮮半島から撤兵し、出兵する場合はお互いに知らせること」と決められました。
東学党の乱→日本と清が出兵・鎮圧→日清戦争
その後、1894年に朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争、こうごのうみんせんそう)が起こります。
東学というのは19世紀に朝鮮で生まれた宗教で、朝鮮独自の思想を重視するものです。
甲午農民戦争には、東学信者も加わっていたということで、東学党の乱とも呼ばれますが、実質は農民反乱です。
朝鮮政府にはこれを鎮める力がなかったので、清に援軍を要請します。それで清の軍隊が出てくるわけですが、天津条約に基づいて、日本軍も朝鮮に出兵してきます。
清と日本の軍隊が来たわけだから農民反乱はひとたまりもなく鎮圧されますが、日清両軍はこのあとも兵を引きません。
「おまえが先に帰れ」
「いやおまえが先だろ」
「よしじゃあ、1,2,3で同時に帰ろう」
「おう、じゃあ数えるぞ、1,2,3・・・」
「って、帰ってないじゃないか裏切り者!」
「って、おまえこそ帰ってないじゃないか!」
なんて話はなかったでしょうけど。^^;
ということでお互い引かず、戦争を始めてしまいます。1894年の日清戦争です。
戦う前は「眠れる獅子(=目を覚ますと危険)」と恐れられていた清ですが、いざ戦ってみると
- 国としてのまとまりに欠け
- 軍隊の近代化も日本より遅れ
- 兵士の練度も低い
ものでした。
一方日本は、対立ばかりしていた初期議会も、日清戦争が始まると挙国一致体制となり、全国力を傾けて戦争にあたりました。そりゃそうでしょう、「清は強い、勝てるかどうかわからない」と思っているわけだから。
下関条約
ということで日本は勝利し、はやくも翌1895年には下関条約を結んで戦争を終わらせます。
日本全権は伊藤博文と陸奥宗光、清は李鴻章(りこうしょう)。清が以下のことを認めました。
- 朝鮮は独立国
- 台湾、澎湖諸島(ほうこしょとう)、遼東半島(りゃおとんはんとう)を日本へ
- 賠償金として銀2億テールを日本へ
「朝鮮は独立国」というのはつまり清の属国ではないのだから日本が手を出しても文句言わないでねということです。
遼東半島はここです。後で問題になります。
銀2億テールというのは当時の日本の国家予算の3倍というとんでもない大金です。ちなみに現在の日本の国家予算は100兆円くらい。その3倍というと・・・まあすごい大金です。^^;
さて。
日清戦争の有名な絵ですが。
魚は朝鮮です。それを日本と清が釣り上げようとしています。
そして橋から見ているのが・・・ロシアです。何かを狙っています。
三国干渉…3人でにっぽん君を脅しちゃうよ
このロシアが、下関条約の内容を見ていちゃもんつけてきます。しかも、一人で来るのではなくドイツとフランスを誘って、日本を脅してきます。
「ちょっとぉ、日本くん欲張りすぎなんちゃうの?」
「遼東半島くらい清くんに返してあげなよ~」
ロシアだけでも怖いのにドイツとフランスもいるわけですから、日本は悔し涙にくれながらも認めざるを得ませんでした。この事件を三国干渉といいます。
その後ロシアはちゃっかり遼東半島に勢力を伸ばします。結局、自分が欲しかったから日本を脅して返させたわけですね。^^;
さて。
日露戦争への道
日清戦争で清が敗れたのを見た列強諸国は、
「なんだ、清って眠れる獅子じゃなくて、死せる豚だったんだ」
と確信し、その後は遠慮なく、清の領土を切り取っていくようになります。
義和団「死せる豚だなんて言わせないぞ!」
それを見た清の一部の人達が義和団という拳法家の集団を中心に大きな組織となり、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を合言葉に外国人を襲うようになります。「尊皇攘夷」みたいなものですね。
ついに清の最高権力者西太后(せいたいごう)もこれを認めて諸外国に宣戦布告までしたため義和団は勢いづき、日本も含めた諸外国の公使館を大軍で包囲し、殲滅しようとします。
これを義和団の乱または北清事変といいます。1900年、19世紀最後の年です。世紀末です。
ちなみに義和団の中には「神拳」という拳法の使い手もいました。「神拳」で「世紀末」・・・もしや・・・!
まあ北○神拳が相手では8カ国連合軍も勝ち目はありませんので違うでしょう。^^;
それはさておき。
これで公使館区域は、清の中にあって大軍に包囲され孤立、公使館側はすべての国の兵力を合わせても500人もいませんでした。
それを指揮して、8カ国の軍隊がやってくるまでの100日間、籠城戦で居留民を守りきったのが日本人の中佐、柴五郎です。
柴五郎さんはその後、ロンドン・タイムスでも
「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」
なんて讃えられ、各国から勲章も授与されています。
また柴五郎の奮戦ぶりをずっとそばで見ていたイギリス公使が積極的にイギリス首相に働きかけ、日英同盟成立の一助になったと言われています。
8カ国の軍隊がやってくると、もともと正規軍でもない義和団の乱はひとたまりもなく鎮圧されます。神に憑依されることで銃弾をも弾き返すと言われた義和団の拳士でしたが、さすがに銃弾は防げなかったようです。
清は責任を問われ、北京議定書で賠償金の支払いと、北京その他への外国軍の駐留を認めることになります。
これによって、ロシアは中国の東北地方、満州に大きく勢力を広げることになりました。
日本では危機感が高まります。
満州からさらに朝鮮半島にロシアが勢力を伸ばしてくれば、朝鮮半島は日本侵攻のために丁度いい「架け橋」となってしまいます。
どうするべきか?
日英同盟
伊藤博文や井上馨は日露協商論=満韓交換論を主張しました。満韓交換論というのは、樺太千島交換条約と同じ発想です。
でも、約束したからと言って、ロシアがその約束を守るかどうかは甚だ怪しい・・・
ということで桂太郎首相はイギリスと手を結ぶことを選択しました。1902年、日英同盟の成立です。敵の敵は味方というわけですね。
当時世界最強国だったイギリスと対等な同盟が組めたことで、日本でも主戦論が盛り上がってきます。
日露戦争
そうして1904年、日露戦争開戦となります。
まあ世界の誰も、日本が勝つとは思っていなかったでしょう。外国では、こんな感じで見られていました。
これではイギリスの「パシリ」ですね。^^;
こんな絵も。
巨人ロシアに子供のような日本が挑んで・・・「勝てるわきゃねーだろ」と思われていたんですね。
他でもない日本人も、
「お互い全力でやったら勝てる気しないな・・・」
なんて思っていたのか、「最高のタイミング」で戦争をやめるために、前もってアメリカに仲介を頼んでおきました。
旅順攻囲戦や奉天会戦など陸上の戦闘では、多数の戦死者を出しながらなんとか勝利しました。
海上での戦い、日本海海戦は、最新鋭の戦艦4隻を含むバルチック大艦隊を、東郷平八郎率いる連合艦隊が、自軍には殆ど被害を出さず、ほぼ全滅に追い込みました。
戦争をやめるための「最高のタイミング」はここ以外考えられません。
ということで日本海海戦のあと、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で、戦争終結となります。
ポーツマス条約
その後、アメリカのポーツマスで講和条約を結ぶことになります。1905年のポーツマス条約です。日本の全権は小村寿太郎(こむらじゅたろう)。
以下のことをロシアに認めさせます。
- 朝鮮半島での日本の優越権
- 日露両軍の満州からの撤退
- 北緯50度以南の樺太を日本へ永久譲渡
- 南満州の鉄道の租借権、遼東半島南端の租借権を日本へ譲渡
など。
しかし、日清戦争のときと違って賠償金は取れませんでした。つまりロシアもそれほど弱気にはなっていないということです。
戦争のために日本国民の負担はもちろんのこと、外国に莫大な借金までして戦ったのに賠償金が取れなかったということで、納得しない人も多く、
「講和反対!」
なんて、今の日本人からは考えられないようなことを言う人もいっぱいいて、日比谷焼き打ち事件まで起こってしまいました。
小村寿太郎さんは自宅に投石なんかされて、奥さんが精神的に追い込まれてしまって別居、という悲しいことになっています。
韓国併合へ
ポーツマス条約以降、日本は韓国に対して影響力を強めていくことになります。
李氏朝鮮(りしちょうせん)が韓国に変わりましたが、王朝が変わったわけではありません。李氏朝鮮の国王だった高宗が、自ら皇帝に即位して国名も「大韓帝国」と変えたんです。
これは韓国としてはすごいことです。だって長年「中国皇帝の臣下です!」という立場をとっていたのが、自称とは言え、中国皇帝と対等になったということだから。
ただ日本はそんなことは構わず影響力を強めていきます。
まず日露戦争の最中に日韓議定書を締結します。
これは、日本が韓国の独立や領土を保障し、防衛義務も負うという内容でした。
続いて第一次日韓協約。これもまだ日露戦争中ですが、韓国の財政顧問と外交顧問に日本が推薦した人を置くことを約束しました。
1905年の第二次日韓協約では、韓国は外交権を日本に渡してしまいました。もう韓国は、自分では外国となんの取り決めもできなくなったわけです。
日本はこれに基づき、韓国統監府を設置。伊藤博文が初代統監となります。伊藤さん初代が好きなんですね。
1907年、韓国皇帝がオランダのハーグで開かれていた平和会議に密使を送り、外交権の回復を図りましたが欧米諸国には認めてもらえませんでした。ハーグ密使事件といいます。
この責任を追及されて韓国皇帝高宗は退位。
そして第三次日韓協約が結ばれ、韓国の高級官吏(官僚)は韓国統監が推薦した日本人を採用することとなりました。つまり外交だけでなく内政にも日本が口出ししますよということです。
- 日韓議定書…日本が韓国を外敵から守るよ
- 第一次日韓協約…財政と外交の顧問に日本人を置くよ
- 第二次日韓協約…韓国の外交権は日本がもらうよ
- 第三次日韓協約…韓国の高級官吏に日本人を採用するよ
その後、韓国統監であった伊藤博文が安重根によって殺されたことをきっかけに、1910年、とうとう韓国併合となりました。韓国は日本の一部となったわけです。
産業革命
産業革命というのはそれまでの手工業から、機械による大量生産に変わることです。
イギリスが世界で初めて産業革命を成し遂げ「世界の工場」と呼ばれるようになり、かつ世界最強国にもなります。
日本はイギリスよりも100年以上遅れて産業革命を成し遂げることになります。
- 日清戦争のころ…第一次産業革命=軽工業
- 日露戦争のころ…第二次産業革命=重工業
第一次産業革命のさきがけとなったのは、1882年に渋沢栄一・・・あの1万円札の人ですね・・・が設立した大阪紡績会社です。大阪紡績会社はイギリスの技術を導入、それまでにない大規模な近代的紡績工場でした。
この10年前、1872年の富岡製糸場とゴッチャになりそうですが、製糸は生糸を作ります。
それに対して紡績は綿糸を作ります。
日清戦争後の1897年には、綿糸の輸出が輸入を上回るようになりました。綿花を輸入し、それを加工して綿糸を輸出するという繊維中心の「加工貿易」が可能になったということです。
続いて、第二次産業革命のさきがけですが、これは20世紀最初の年、1901年に操業開始した官営の八幡製鉄所です。
当時は中国から鉄鉱石を輸入しましたが、八幡は北九州ですので近いですね。しかも洞海湾(どうかいわん)は天然の良港ですので便利です。
また製鉄には石炭も必要ですが、これは同じ九州の筑豊炭田(ちくほうたんでん)から遠賀川(おんががわ)を使って運ぶことができました。これまた便利。
ということで八幡製鉄所を中心に重工業が発展し、北九州工業地帯と呼ばれるようになっていきます。
明治文化
文明開化でも少し触れましたが、明治時代は、とにかく「欧米の文化を取り入れよう!」という時代です。偉い人はみんな欧米かぶれです。「欧米か!」です。
で、高い高い給料を払って、外国人を雇います。有名な人を挙げてみましょう。
- ロエスレル…憲法草案作成
- ボアソナード…刑法、民法の起草
- ナウマン…ナウマンゾウの化石発見
- モース…大森貝塚発見
- ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)…文学、「怪談」
- クラーク…札幌農学校、「少年よ大志を抱け」
また、最新の知識を教えるための学校も数多く設立され、今では有名な大学になっているものも多いです。
- 福沢諭吉…慶應義塾
- 大隈重信…東京専門学校→早稲田大学
- 新島襄(にいじまじょう)…同志社
- 津田梅子…女子英学塾→津田塾大学
- 山田顕義(あきよし)…日本法律学校→日本大学
文学も欧米の影響を強く受けて、明治時代には有名な小説家が爆発的に出現します。
「小説神髄」で写実主義を説いた坪内逍遥(つぼうちしょうよう)と言文一致を進めた二葉亭四迷から日本の近代文学は始まります。
言文一致(げんぶんいっち)というのは「話し言葉と書き言葉を同じにしようよ」という考え方です。古文漢文で書くのはやめようよ、わかりづらいし、という感じ。
その他、有名な作家を挙げてみると、
- 尾崎紅葉…「金色夜叉」
- 幸田露伴…「五重塔」
- 森鷗外…「舞姫」
- 樋口一葉…「たけくらべ」
- 泉鏡花…「高野聖」
- 国木田独歩…「武蔵野」
- 与謝野晶子…「みだれ髪」
- 島崎藤村…「破戒」
など。
そして日本史上最大の小説家とも言うべき夏目漱石が明治時代の最後を飾ります。