明治時代のまとめ(前半)~明治維新、五箇条の御誓文から第一回帝国議会まで

次の政府でも政治の中心にいるために、徳川慶喜は大政奉還を行ったのですが、薩摩・長州は王政復古の大号令で反撃、というところまで前回お話しました。

カウンターパンチ!です。

ということで最初に今回のまとめ。

  • 1868年(明治元年) 戊辰戦争→五稜郭の戦いで終結
  • 五箇条の御誓文…明治新政府の政治方針
  • 政体書…新しい政治機構についての大綱
  • 版籍奉還→廃藩置県(1871年)→中央集権
  • 四民平等…「武士→士族」「その他→平民」
  • 士族は特権を失っていく→秩禄処分、廃刀令→不満
  • 新貨条例(円銭厘)→地租改正(1873年)→税収安定化
  • 徴兵令(1873年)…国民皆兵→血税一揆
  • 富国強兵、殖産興業
  • 国立銀行条例、郵便制度(前島密)、官営工場※富岡製糸場
  • 新橋横浜間に初の鉄道(1872年)
  • 学制(1872年)→小学校、中学校、大学校→すぐに改正
  • 文明開化…福沢諭吉→学問のすゝめ、西洋事情、慶應義塾
  • 明六社…イギリス流功利主義思想
  • 中江兆民…ルソーの天賦人権論を紹介「東洋のルソー」
  • 士族の反乱…西南戦争(1877年、最大)→武力反乱はなくなる
  • 自由民権運動…言論での反抗「藩閥政治反対」「国会開設」
  • 1881年国会開設の詔→自由党(板垣退助)、立憲改進党(大隈重信)
  • 1885年 内閣制度…伊藤博文初代首相→その後枢密院議長に
  • 1889年 大日本帝国憲法発布…欽定憲法、ドイツ憲法が手本
  • 1890年 第一回帝国議会…貴族院(皇族華族)、衆議院(選挙)
  • 選挙権…直接国税15円以上納める25歳以上の男子

王政復古カウンターをもらっても徳川慶喜は穏便に事を進めようとするのですが、薩摩からの挑発は続きます。

戊辰戦争…「錦の御旗」にショック

結局幕府側は抑えがきかなくなり、1868年、薩長軍との間で鳥羽・伏見の戦いが始まってしまいました。戊辰戦争(ぼしんせんそう)のスタートでもあります。

それでも幕府方の兵力が3倍とも言われるほどですので、当初は大いに勝算があっての開戦だったのかもしれません。

しかし、幕府にとって計算外だったことは・・・薩長軍が「錦の御旗」を掲げたことです。これ、比喩ではなく錦の御旗そのものが掲げられたんです。

これを見た幕軍は激しく動揺します。大兵力とは言え、複数の藩の寄せ集めですので一気に足並みが乱れます。

そりゃそうでしょう。まさか「賊軍」にされるとは思っていなかったでしょうから。幕府の側で戦っている自分たちこそに大義があると信じていたでしょうから。

幕府軍の形勢が不利になったところで、徳川慶喜は側近のみを連れて海路江戸へ撤退してしまいます。

その後慶喜は、江戸で態勢を立て直すでもなく、ひたすら「謹慎」して恭順の意を伝えますので、実は最初から戦う気はなかったのかもしれません。

少なくとも天皇に弓を引く気はさらさらなかったのでしょう。尊王論の強い水戸の人ですからね。

しかし悲しいことに、将軍が「一抜けた」状態なのに幕臣たちは徹底抗戦を続けます。

戦場は次第に東へ移動し、ついに江戸へ。でも江戸は西郷隆盛と勝海舟の話し合いで無血開城となります。それでもまだ旧幕府側で諦めない人たちがいました。

奥羽越列藩同盟が結成され、新政府軍に徹底抗戦。その中で会津の白虎隊の悲劇なども引き起こされました。

旧幕府軍は・・・ここまでくると旧幕府軍と呼べるものかどうかもわからない状態ですが、後退し続け、最後は北海道の箱館五稜郭(ごりょうかく)の戦いで榎本武揚(えのもとたけあき)が降伏し、やっと戊辰戦争は集結することになります。

徳川慶喜に戦う気がなかったとしたら、どんな気持ちでこの戦争を眺めていたんでしょうか。

さて。

明治維新の諸政策

明治政府は戊辰戦争をすすめる一方で、着々と新政策を進めていきます。

五箇条の御誓文は民主的

まずは五箇条の御誓文で政治の方針を発表。由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(たかちか)が原案を作り、木戸孝允(たかよし)が完成させ、明治天皇・公卿・諸侯が神に誓うという形で発表されました。

  • 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
  • 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
  • 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
  • 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
  • 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

この通り、明治の始めから民主的な方針が掲げられていることがわかります。

天皇中心と言っても、天皇が独裁権力を振るう国ではないということです、

一方、五箇条の御誓文布告の翌日に、庶民に対して五榜の掲示(ごぼうのけいじ)が出されています。

五榜の掲示の内容は、

  • 第一札…五倫の道を守れ、弱者に情けを、悪行はダメ絶対
  • 第二札…一揆的なことは禁止
  • 第三札…キリスト教その他邪宗門は禁止
  • 第四札…万国公法に従おう、外国人を襲うな
  • 第五札…村から離れて浮浪人になってはいけない

という感じ。

幕末から「世直し一揆」が増えていて、幕府が終わったところでそれは変わらないわけだけど、明治政府としてはこれをなんとかなくしたい。

でもまだ西洋流の新しい法律を作ることさえできない

ということで一般庶民に対しては、一般庶民が慣れ親しんでいる幕府のやり方を踏襲し、そこにちょっとだけ明治政府の考えも入れてお触れを出してみたということです。

なので五榜の掲示は暫定的なもので、1873年までにすべて廃止されます。

ちなみに「五倫」とは君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、つまり儒教の徳目です。

「万国公法」は明治政府が新たに入れてみた内容だけど、当の明治政府さえ万国公法が何なのかは、まだよくわかっていなかったかもしれません。

だから庶民に求めるのは、「外国人も我々と同じ人間なんだから、外国人だからといって殺してはダメですよ」くらいの理解でしょう。

三権分立を目指した政治機構

五箇条の御誓文は政治の方針です。では政治の組織についてまとめたものは何かというと「政体書」です。

政体書にはアメリカを倣って立法権・行政権・司法権の三権分立が取り入れられています。

中央政府の組織は律令時代からおなじみの太政官(だじょうかん)なのですが、太政官への権力集中を防ぐため、太政官を三権に分ける、という基本方針が定められています。

廃藩置県によって中央集権を

さて、日本を一つの新しい国とするには、江戸時代のように藩ごとに半独立して政治をやるという状態ではいけません。

ということで1869年、さっそく版籍奉還(はんせきほうかん)を実施します。

版籍の版は土地籍は人民という意味です。つまり大名が支配していた土地と人民を国に返しなさいというわけです。

そうして改めて、元大名をそのまま知藩事(ちはんじ)に任命して政治に当たらせました。

でもこれでは、元大名がそのまま居座るわけだから、江戸時代とそれほど状態は変わりません

といことで、中央集権化を徹底するために、元大名=知藩事を旧領の支配から完全に引き離し、代わりに中央政府が任命した府知事・県令が各地に送られます。これを廃藩置県といいます。

なんだか改新の詔で「中央で国司を任命して派遣する」と定めたのに似ていますね。

1871年 廃藩置県「はないきで藩ふっとばす」

でもただ命令しただけでは元大名=知藩事は「はいそうですか」とは言わないだろうから、中央政府はいろいろ対策を講じています。

まず、軍事的抵抗に備えて、薩摩・長州・土佐から兵力を集めておきました。

その上で、知藩事を解任して東京に集めるわけですが、収入は旧藩の収入の1割を保証します。

「1割って少なくない?」

と思うかもしれませんが、

  • 旧藩士へ家禄=給料を支給しなくても良くなる
  • 旧藩の債務も負担する必要はなくなる
  • 知藩事の仕事もしなくていい

ので、元大名としては「これ得なのでは?」となります

そして収入は確保できる。今のお金にすると、年収数億円

これなら逆らって武力衝突するより、おとなしく言うことを聞いたほうが、余生を楽しく過ごせそうですね。^^

ということで廃藩置県は目立った抵抗もなく実行されました。

これで、地域的な分断をなくし、日本を一つにまとめることができました。

四民平等→「日本=我が国」感覚を作ろう

しかしまだ身分的な分断が残っています。これもなくさないと「日本=我が国」という感覚が全国民に共有されません。

なぜなら、武士が支配している国は「武士のもの」で、庶民としては国の政治なんて「自分とは関係ないこと」になってしまうからです。

これでは新しい日本として一致団結して強く成長していくことは無理。

ということで四民平等とします。四民とは士農工商のことです。でもそれだけでなく、「穢多(えた)、非人(ひにん)」と差別された人々も平等となります。

  • 武士→士族
  • その他→平民

となりますが、士族の特権は段階を追って消滅していきます。秩禄処分(ちつろくしょぶん)によって家禄=武士の給料は廃止、廃刀令によって帯刀の特権もなくなりました。

ただ実際には全て平等ではなく、皇族は当然として、華族と呼ばれる特別身分も作られました。

ここまでで中央集権&日本を一つにまとめる政策が一段落。

地租改正→政府の収入を安定させよう

あと、政府が政策を実行していくために必要なのは「お金」ですね。

米の年貢では財政が立ち行かなくなることは過去の幕府や諸藩が証明してくれているわけです。収穫高なんて毎年変わるわけですので、そんなものに頼っていては、計画的に政策を実行していくこともできません。

まず、お金で税を取るためには当然ですがお金がないといけません。

でも、江戸時代の貨幣をそのまま使うのは・・・種類も質もいろいろありすぎて混乱します。

間に合わせとして太政官札(だじょうかんさつ)、民部省札(みんぶしょうさつ)が発行されましたが、本格的なものとして、1871年に新貨条例が制定されました。

これは1円金貨を基本とする金本位制の仕組みです。1円金貨を6分の1グラムの金で作り、あとは100銭=1円、10厘(りん)=1銭と単位を決めました。1円って、最初は大金だったんです。^^

ただ実際には金が足りなくて、しばらくは金銀複本位制でやっていきます。

そして次に、政府の収入を安定させるために、地租改正を行います。

1873年 地租改正「いやな3%」

これは、

  • 土地所有者が
  • 地価の3%を
  • 現金で納める

という税の仕組みです。

政府が地価を定め、土地所有者に「地券」という土地の権利証を発行して、地券を持っている人に地租という税を納めてもらいます。

地価は収穫高ほどコロコロ変わるものではないので、これを基礎とすれば税収は安定するというわけです。

また、生産性を上げた分、土地所有者の収入は増えるわけなので、生産性向上につながります。

年貢の時代は、収穫高を増やしても五公五民であれば必ず半分武士に取られました。

でも地租なら、収穫が2倍になっても、例えば1円だった地租が2円になることはありません。1円のまま。だから収穫を増やせばそれだけ地主の収入は増えるということで「やる気」につながります。

しかし地価も地租も机上の計算ですので、当初は負担が大きすぎるものとなっていました。

それは特に、土地を持たない小作人に大きな打撃を与えます。なぜなら地主は、税負担を小作人に転嫁するからです。

ということで1876年の伊勢暴動など地租改正反対一揆が起こり、1877年には地租は2.5%に引き下げられます。

竹槍でどんと突き出す二分五厘

という川柳が有名ですね。

徴兵令によって近代的軍隊を

ついでに・・・と言っては何ですが、地租改正と同じ1873年には徴兵令も出されます。

大村益次郎(おおむらますじろう)が提唱した国民皆兵山県有朋(やまがたありとも)が継承し実現しました。ちなみに大村益次郎は緒方洪庵の適塾で塾頭をつとめた秀才です。

いや秀才にしてもさすがに額が広すぎやしませんかと思うのですが、この絵を描いた人は大村益次郎の見た目を人に聞きながら描いたのだとか。実物は見ていないんです。

それはさておき。

国民皆兵というのは、これまでのような藩兵頼りの軍隊をやめて、国民から徴兵して軍隊を作るというものです。

基本的に20歳以上の男子は徴兵されますが、免除条件もあります。

  • 一家の主人、または後を継ぐ男子、養子
  • 役人
  • 官立学校生徒
  • 第人料270円払った者
  • 病弱など身体的理由がある者

これらの人は徴兵を免除されました。なので養子になって徴兵忌避する人も多かったのだとか。

また、270円というのは、今のお金で500万円~900万円くらいになるようです。当時の兵士一人の維持費の3年分に相当する金額です。

ちなみに現在の陸上自衛官一人あたりの維持費は、3年だと3000万円くらいです。装備の違いもあるので一概には比べられませんけど。^^;

この徴兵令には士族が反発しました。一般人が兵士となると、兵士として特権を得ていた士族にはもう、特権を認められる理由がなくなるからです。

また当然ながら平民も反発します。そして血税一揆とよばれる徴兵反対一気も起きます。

徴兵令の準備として発表された徴兵告諭に

「人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之(これ)を称して血税と云ふ。」

とあったのですが、血税を比喩ではなく言葉のまま「血を抜かれる!」と解釈した人も多かったのだとか。西洋人が赤ワインを飲んでいるのを見て「あいつら俺たちの血を飲む気か!」とかね。^^;

さて。

官の側だけ変わっても意味がありませんので、民の側も変えていきましょう。

富国強兵・殖産興業

明治政府は、富国強兵をスローガンにいろいろな殖産興業政策を実施していきます。

殖産興業政策のためには工部省と内務省が作られ、これにあたります。まあ大久保利通がつくった内務省は殖産興業に限らず、内政なら何でもありのお役所ですが。

国立銀行条例…お金を印刷してください

それから、産業の発展のために資金がスムーズに流通してくれなくては困りますので国立銀行条例を公布します。

政商と呼ばれる、政府と関係の深い商人の力を利用して銀行を作り、資金供給を安定させようとしたわけです。

これによって、第百五十三国立銀行まで作られますが、のちに民間銀行へと移行します。っていうか153もできたのか。^^;

ちなみに第一国立銀行の頭取には一万円札の顔になる渋沢栄一が就任しました。第一国立銀行はのちに第一勧業銀行となり、銀行の統合によって現在はみずほ銀行となっています。

これら国立銀行は、紙幣を発行することができました。今から見ると、全国各地にある銀行が、めいめいお金を印刷しているって、「大丈夫なの?」と思えてしまいますけどね。

ヒソカさんの郵便制度

また、通信も大事ということで、廃藩置県が実行された1871年には郵便制度もスタートします。これは前島密(まえじまひそか)が中心となって作りました。

1円切手に印刷されているおじさんを見て「だれ?」と思ったことがあるかもしれませんが、あれが前島密さんです。

模範としての官営工場

近代的な工場については、明治のはじめはまだ民間にそんな工場を作る力も知識もないということで模範となるような官営工場が造られました。

たとえば群馬県の富岡製糸場とか、だいぶ後になりますが、日清戦争の賠償金の一部を使って造られた八幡製鉄所(福岡県北九州市)が有名です。

ちなみに八幡製鉄所というのは今はなくて、八幡製鉄所の跡地にスペースワールドというテーマパークが造られましたが、そのスペースワールドも今は閉鎖されています。^^;

1872年セット

富岡製糸場が造られたのが1872年ですが、同じ年、新橋横浜間に日本初の鉄道も開通しています。

また同じ年に「学制」も制定されています。要するに欧米にならった学校制度です。

小学校・中学校・大学校と作る予定だったのですが、小学校だけつくったあと制度改正となりました。

ということで1872年セットとして、学制、富岡製糸場、新橋横浜間の鉄道を覚えておきます。

文明開化

明治維新と言うと文明開化についても触れておかねばなりませんね。

「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」

なんて歌もあります。散切り頭というのは「ちょんまげ」を切り落としたヘアスタイルのことです。

散切り頭以外にも、洋服、靴、ガス燈、レンガ造りの建物などが目立った変化として見られました。

暦、要するにカレンダーも、太陰暦から欧米と同じ太陽暦に改められました。いきなり一ヶ月も飛んでしまったので、当時の人は驚いたかもしれませんね。

1872年12月3日が1873年1月1日になりましたので、「今年もあと一ヶ月か・・・あれ? もう元旦?という感じだったことでしょう。

文明開化というのは、欧米風の文化が広まることをいいますが、広まると言っても大都市が中心で、農村は江戸時代と殆ど変わりありませんでした。

西洋の知識を紹介した人々

西洋の文化を日本に紹介した人としては福沢諭吉ですね。論吉って書いちゃダメでうよ。諭吉です。「学問のすゝめ」「西洋事情」「文明論之概略」などで西洋の知識を広めました。

福沢諭吉と言えば慶應義塾ですが、もともとは蘭学塾という名前で、日米修好通商条約の1858年にスタートしました。

これが1868年つまり明治最初の年に慶應義塾となり、第一回帝国議会の1890年に大学部が設置されました。現在の慶應義塾大学のもとです。

また福沢諭吉や森有礼(もりありのり)、西周(にしあまね)らによって、啓蒙団体である明六社も作られました。1873年、明治6年に作られたので明六社です。^^

明六社は主に、イギリス流の功利主義思想を紹介しました。

フランス流の天賦人権論も日本に紹介されます。中江兆民(なかえちょうみん)がルソーの「民約論」を翻訳して「民約訳解」としました。それで中江兆民は「東洋のルソー」なんて呼ばれます。

天賦人権論(てんぷじんけんろん)というのは、人権は天から与えられたものだから、国家権力と言えどこれをみだりに侵害してはいけないという考え方です。

日本には昔から「民は大御宝(おおみたから)」という考え方がありましたので、天賦人権論は理解されやすかったのではないでしょうか。

宗教政策

宗教に関しては、日本は昔から仏教、神道を中心にいろいろあって自由な感じでよかったのですが、明治の初めには神道国教化の動きもありました。

これは欧米諸国を見るとキリスト教という一つの宗教が価値観の基準とされているので、日本もそれと同じものを持たないと「文明国として認められない!」という強迫観念があったようです。

それで神道を中心に持ってきたと。

そこから神仏分離令大教宣布の詔(たいきょうせんぷのみことのり)も発令されます。

神仏分離令は、それまで神仏習合と言って仏教と神道が混ざっていたものを、混ぜるのはやめてきちんと区別しなさいというものです。

大教宣布の詔は、1870年のもので、神道を国教化するという方針を発表したものです。

ただ、これを曲解して、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を繰り広げる者も現れ、文化財である寺院や仏像が破壊されるということも起こりました。

興福寺の五重塔が、現在の価格に直すと8万円というディスカウント価格(笑)で、売り出されてしかも売れなかったという笑えない話もあります。

さすがにこれではまずいと思ったのか、1875年には信教自由保護の通達が出され、大日本帝国憲法にも信教の自由が盛り込まれました。

ただ政府は「神社神道は宗教ではない」という解釈のもと、神社神道を日本人の道徳の基礎とする政策をとっていくこととなります。

政府への反抗~武力がダメなら言論で

明治政府は多くの政策を時には強引に押し進めてきましたし、そうなるといつも「みんな賛成」というわけにはいきません。

また当然ながら、改革によってそれまでの利益を失う人々もいます。そういう人々は不満を高めていくことになります。

征韓論を潰されて政府を離れた人たちが…

1871年に岩倉使節団が欧米に旅立ちますが、この時欧米視察に行った人と、留守政府を預かった人とで特に対立が激しくなります。

岩倉具視(ともみ)さんを団長に、大久保利通や伊藤博文、木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)など政府の重要メンバーが欧米を巡ってきます。目的の第一は不平等条約改正の交渉、第二は欧米の視察

一方、板垣退助、西郷隆盛、江藤新平、後藤象二郎らが預かる留守政府では征韓論が唱えられ、西郷さんが朝鮮へ使者として出向くことが決まっていました。

でも岩倉使節団が帰ってくるとその決定が覆されてしまいます。

それで留守政府の重要人物たちは、相次いで政府を去ってしまいます。明治六年の政変です。その時政府を去った人が反政府の中心となっていきます。

ということで、政府に反抗する人々も出てくるのですが、手段は2つ。武力と言論です。

まずは武力による反抗から。

士族の反乱

明治維新によって利益を失った人々のうち、最大勢力となるのは元武士=士族です。

彼らはそもそも兵士でもあるのだから、反抗の手段として武力を選ぶのも自然の成り行きです。

ということで各地で士族の反乱が起きます。

  • 佐賀の乱(佐賀県、江藤新平)
  • 秋月の乱(福岡県)
  • 敬神党の乱(神風連の乱、熊本県)
  • 萩の乱(山口県、前原一誠)

などがあります。萩の乱以外はみんな九州ですね。そして最大の反乱も九州です。

1877年の西南戦争です。

これは薩摩で起こった士族の反乱で、西郷隆盛は弟子たちが反乱を起こしたから仕方なくリーダーになってあげたようです。

しかし新政府軍の物量には敵わず、西郷隆盛はここで死んでしまいます。

結局、最大の士族の反乱も明治政府には歯が立たなかったわけですので、以後、武力による反抗はなくなります。

自由民権運動

自由民権運動というのは単純に言えば

「藩閥政治反対」
「国会を開設せよ」

という運動です。藩閥政治というのは特定の藩、薩摩や長州出身者だけで政治を行うことです。

始まりは、1874年、板垣退助らが愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を政府に提出したことです。

ひげのインパクト大です。昔100円札の顔だったのですね。

1874年 民撰議院設立建白書「話して決めよう」

「板垣死すとも自由は死せず」

で有名な板垣さんですが、この言葉が出てくるのは1882年岐阜で襲われたときですので、まだだいぶ先の話。

建白書提出の後、板垣は土佐で片岡健吉らと立志社、大阪で愛国社を作って自由民権運動を進めます。

そんな折、政府内部で対立が起こり、また政府を離れる人が出ました。

1874年に台湾出兵(征台の役)という事件がありました。これは台湾に漂着した日本人50人以上が斬首されるという残酷な事件に対して、責任追及のためなされたものでした。

しかし、政府内では「征韓論に反対しておいてすぐに台湾出兵では矛盾してるじゃないか」ということで反対意見もありました。台湾出兵に反対して政府を離れたのが木戸孝允です。

征韓論で板垣退助や西郷隆盛が去り、台湾出兵で木戸孝允が去って、

「有力者がこんなに下野したのでは、反抗勢力が強くなってしまう」

ということで大久保利通1875年板垣、木戸を招いて大阪会議を開き、政府復帰を求めます。

ここで板垣と木戸は

  • 元老院…立法機関
  • 大審院…最高裁判所
  • 地方官会議…府知事・県令による会議

この3つを設置することを条件に、政府に復帰しました。これらは立憲政体樹立の詔勅(立憲政体の詔書)で実現します。

これによって、独裁的な藩閥政治に対して自由民権運動の目的を一歩押し進めたことになります。

過激な運動の取り締まり

ただこれによって、板垣退助が政府に戻り、自由民権運動の勢いが弱まりますので大久保の目的も果たせたことになります。

政府は同年、新聞紙条例讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して言論に対する取り締まりを強めます。

「讒」という漢字が絶望的に覚えにくいですが。^^; 「そしる」という意味です。

左は言偏ですね。右の部分は上から「ク、ロ、比、兔」と書きます。「免」に点を一つ加えて「兔」。「くろひ(くろい)ウサギ」とでも覚えておくといいでしょう。

「謗」「そしる」という意味。つまり讒謗律とは「あんまり人の悪口言ってると捕まえちゃうよ」という決まり。

ただこの後、大久保利通は暗殺されてしまいます。

それに対して自由民権運動の方はというと・・・

開拓使官有物払下げ事件=97%OFF?

板垣退助がいなくなった後、片岡健吉ががんばります。立志社建白明治天皇に提出したり、消滅していた愛国社を復興して国会期成同盟に発展させたりします。

それに対して政府は集会条例を作って取り締まりを強めたりします。

そんな中、開拓使官有物払下げ事件が起こります。長い名前ですね。受験生泣かせ。^^;

これは薩摩出身の黒田清隆が、北海道を開拓するために使っていたいろいろな設備や施設、例えば船舶、倉庫、農園、炭鉱、ビール・砂糖工場などを、同じ薩摩出身の政商にとんでもなく安い値段で売ってあげようとした事件です。

どれくらい安かったかと言うと、そういう設備を造るためにかかった費用の3%弱の値段です。1400万円かかったものを39万円で売ってあげようとしました。

それはもう反対運動が起こって当然です。国民の税金で作ったものを、そんなに安く自分の地元の商人に売ろうというわけですから。薩摩藩閥が薩摩の商人をえこひいきしている、不公平だというわけですね。

ということで開拓使官有物払下げ事件をきっかけに、自由民権運動も盛り上がります。藩閥政治反対!と。

国会開設の詔

これに対して政府は1881年、伊藤博文が中心となり国会開設の詔を出して、自由民権運動を鎮静化しようとします。

「あなたがたの要求を認めて、国会を開きます。遅くとも1890年には開くから、静かにして!」

というわけ。

その一方で、政府内で国会即時開設を主張していた大隈重信を罷免(ひめん=クビ)します。そうして伊藤博文を中心とする薩長藩閥政治の体制を固めます。これを明治十四年の政変といいます。明治十四年は1881年ですね。

伊藤博文としても、これで雑音を排して、国会開設までやるべきことをすべてやっていく構えです。

自由民権運動の方は、これで望みがかなったことになりますので、騒ぐ理由もなくなってしまいました

そこで国会開設に向けて、板垣退助を中心に自由党、大隈重信を中心に立憲改進党が作られました。政府に同調する立憲帝政党も福地源一郎によって作られました。

また「私擬憲法」と呼ばれる憲法案もたくさん作られています。あちこちで「こんな憲法がいい!」ということでいろんな人が憲法案を書いたわけです。すごい時代です。

農民の激化事件と自由党解散

しかしこの後、自由党は一旦解散ということになります。

何が起こったのかと言うと・・・

積極財政を進めていた大隈重信が、明治十四年の政変で失脚すると、松方正義が緊縮財政をはじめました。「松方財政」「松方デフレ」と呼ばれます。

西南戦争の戦費を賄うために紙幣を大量に発行したわけですが、それによるインフレーションを懸念したわけですね。それで松方正義は予算を縮小する一方で増税を実行しました。

それによってデフレーション、つまり物価が下がり、農産物の価格も下がって、農民の収入が減ってしまいました

収入は減る、税金は増える、ということで、貧しい農民は限界に達して、各地で「激化事件」と呼ばれる武装蜂起が起きます。

福島事件秩父事件が有名です。

1884年 秩父事件「秩父のはやしで農民反乱」

こういう農民の武装蜂起にどう対応するかで自由党内でも分裂が起こり、結局解散してしまいます。

大日本帝国憲法=アジア初の近代憲法

一方、1890年まで時間を稼いだ政府は、着々と計画を進めていきます。

伊藤博文、ドイツ憲法を手本にする

国会を開くためには、国の基本を定める憲法を作らねばなりません。

それはやはり欧米流の近代憲法でなければならないということで、伊藤博文は自ら渡欧して憲法調査にあたり、

プロシア(ドイツ)の憲法って日本にピッタリだよね、君主権強いし」

と結論します。

そうしてドイツ人学者ロエスレルを顧問とし、制度取調局で井上毅(こわし)、金子堅太郎、伊東巳代治(みよじ)らとともに憲法を作成していきます。

公侯伯子男、華族を作る

一方で華族令を制定して「華族」という身分をつくります。公侯伯子男5階級の爵位を作り、国会で作る予定の「貴族院」の準備とします。

上から

  • 公爵
  • 侯爵
  • 伯爵
  • 子爵
  • 男爵

ですね。^^

内閣制度

そして1885年には内閣制度を作って、伊藤自ら初代内閣総理大臣となります。国会より先に内閣ができたわけです。

これで一応、律令以来ずっとお世話になっていた太政官制とはおさらばということになります。

1888年には、憲法草案審議のため、天皇の諮問機関として枢密院(すうみついん)ができます。そして伊藤博文は総理大臣を辞めて初代枢密院議長となります

制度取調局で伊藤が作った憲法草案を、枢密院でまた自ら完成させようというわけです。

大日本帝国憲法発布

そうしてついに、1889年2月11日、大日本帝国憲法発布となります。

1889年 大日本帝国憲法発布「はやくできたね明治憲法」

これはアジア初の近代憲法となります。

※トルコのミドハト憲法のほうが先じゃないかという話もありますが、トルコは「うちはヨーロッパだ」と自ら言っていますので。^^;

大日本帝国憲法は欽定憲法です。つまり形式上は天皇が定めた憲法です。

また多くの天皇大権が定められていますが、これは天皇が独裁的に権力を振るうのではなく、各部門の責任者が責任を持って任務遂行していくことになります。

国民の権利は、現在の憲法のような「基本的人権」ではなく「臣民の権利」です。つまり天皇の臣下たる民としての権利で、これは「法律の範囲内」とされています。法律によって制限される可能性があるということ。

憲法以外で大事な法としてはまず皇室典範。皇室関係の法規ですが、この時代は最高法規の憲法と同格です。

あと民法と刑法は、フランス人のボアソナードが起草しましたが、のちに「フランス流は日本にはあわないな」ということでドイツ流に改められます。ボアソナードさんはさぞかしがっかりしたことでしょう。

さて、ここまでで準備万端ということで。

第一回帝国議会はおじさんばかり

1890年、第一回帝国議会となりました。約束通り。

二院制ですが、現在と違って貴族院と衆議院です。参議院なんてなかった。

で、選挙で選ぶのは衆議院議員だけです。貴族院議員は皇族や華族が任命されます。

選挙権については衆議院議員選挙法に定めました。

被選挙権を持つ、つまり立候補できるのは30歳以上の男子。

選挙権を持つ、つまり投票できるのは直接国税15円以上納める25歳以上の男子です。女性には選挙権も被選挙権もなかったということですね。

つまり国会はおじさんだらけです。^^;

ちなみに、この選挙権の条件に当てはまるのは日本人の約1%しかいませんでした。15円というのはそれくらい大金だったわけです。

この条件に当てはまる人は地主、つまり地租を多く納めている人が多かったので、当選者も地主が多いという結果になりました。