このページの目次
では最初に鎌倉時代のまとめから。
- 1180年…以仁王の令旨→各地で挙兵
- 1181年…平清盛死去
- 源義仲…倶利伽羅峠→入京→宇治川の戦いで敗北
- 源頼朝…石橋山(敗北)→富士川→鎌倉入り
- 源義経…義仲討伐→一の谷→屋島→壇ノ浦
- 1185年…平氏滅亡→鎌倉時代スタート
- 鎌倉…侍所、政所、問注所
- 頼朝補佐…執権=北条氏
- 国ごとに守護、荘園・公領に地頭→御恩と奉公
- 1192年…源頼朝、征夷大将軍に
- 3代将軍源実朝暗殺→承久の乱(1221年)
- 朝廷の敗北、幕府の優越
- 3代執権北条泰時…執権政治確立
- 連署、評定衆、御成敗式目(1232年)
- 8代執権北条時宗…元寇=文永・弘安の役(1274年、81年)
- 得宗専制政治強まる、御家人の貧困化→不満
- 鎌倉仏教…法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)
- 東大寺南大門…大仏様、円覚寺舎利殿…唐様
- 金剛力士像…運慶
- 平家物語=軍記物
- 方丈記、徒然草…枕草子とともに日本三大随筆
- 新古今和歌集(勅撰)、金槐和歌集(源実朝)
後白河法皇との対立を深めた平清盛は、治承三年の政変で、武力を背景に後白河法皇の院政を停止したのでした。
そうして後白河法皇を幽閉します。
以仁王、平氏追討の令旨
それに対して最初に反旗を翻したのは、後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)です。
以仁王は源頼政(よりまさ)と協力し、1180年に平氏追討の令旨を各地の有力者に送ります。
しかし密告によって計画はバレてしまって、以仁王も源頼政も討ち取られてしまいます。
「なんだ頼政ってよわいのかー」
って思うかもしれませんけど、この人、鵺(ぬえ)っていうモンスターを退治した伝説がある人なので強い・・・はずなんですけど。
あと頼政さんって、源頼光(よりみつ)の子孫なんですよ。
源頼光というのは、坂田金時(銀時じゃないよ)っていう・・・あの、子供の頃「金太郎」だった人ですね、その坂田金時さんら「頼光四天王」を引き連れて、酒呑童子とかいろいろ退治している人です。
そんな伝説の勇者の子孫・源頼政さんですので、以仁王を守って、劣勢ながら奮戦しましたが、多勢に無勢、やられてしまいました。
以仁王は敗れてしまいましたがその令旨は無意味ではなく、各地で反平氏勢力が挙兵することになります。
中でも有名なのが、源頼朝、義経、義仲の源氏トリオです。頼朝から見ると、義経は弟、義仲はイトコです。
源頼朝挙兵
源頼朝は、平治の乱で敗れた後、清盛の義理の母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で殺されずにすみ、伊豆に流されていたんですが、そこで北条氏の助けを借りて挙兵します。
もちろん北条政子とも知り合っています。ラブラブです。^^
でも頼朝は挙兵していきなり大敗します。兵力の合流が間に合わなかったんですね。神奈川県小田原市の石橋山の戦いです。
負けちゃったので散り散りになって逃げ、頼朝さんも山中に身を隠しながら逃げ、やっとの思いで房総半島に逃げ延びます。
その後は兵力を集めつつ移動し、ついに鎌倉に入ります。
そして1180年のうちにもう一度戦います。今度は戦力十分。日本三急流の一つ、富士川での戦いです。
富士川の戦いで有名なのは、敵の平氏軍が、水鳥の羽ばたきを聞いて逃げたという話。
羽ばたきを頼朝軍の足音と聞き違えたのか、それとも羽ばたきで頼朝軍の接近を知ったのかはわかりませんが、相当な慌てようだったと平家物語などでは語られています。
武器や鎧を忘れて逃げ惑い、繋がれたままの馬に乗ってグルグル回ってしまったり、馬に踏み潰されたりする人もいたとのこと。
どちらにしても、二度目の戦では、源頼朝は勝利できました。その後は鎌倉にこもって、組織づくりに励みます。
その後、平清盛は病没し、戦闘では従兄弟や弟が活躍します。
平清盛死去
1181年、清盛は謎の高熱で亡くなっていますが、どれくらいの高熱かと言うと、冷やすために水風呂に入れたら水が沸騰し始めたほどだそうです。
体温100度以上ではさすがの清盛さんも体がもちません。
まあそれは平家物語の誇張でしょうが、高熱の原因としては、マラリアやインフルエンザから仏罰、呪殺までいろいろと説があります。
何にしても、清盛を失ったことは、平氏にとって非常に大きな痛手であったことは間違いありません。
これ以後源氏の快進撃が続くことになります。
木曽義仲の失敗
まず頼朝の従兄弟、源義仲(木曽義仲)ですが、名前通り木曽谷に住んでいてそこで挙兵し、北陸で勢力を広げます。
その後、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(砺波山の戦い、現在は富山県と石川県の県境)で平維盛の大軍を破り、京都へ進軍して平氏を京都から追い出します。
しかし、義仲は、皇位継承に口出ししたり、都の治安を守れなかったり家来が略奪したりで、だんだん後白河法皇に嫌われるようになります。
一方で、源頼朝の方は後白河法皇の扱いが上手く、東海道・東山道の支配権を認めてもらったりしています。
後白河法皇が、頼朝の方を優遇し始め、義仲には「京都から出て平氏を討伐してこい」なんて命令するので、義仲としては
「えええ? 頼朝って鎌倉にずっと引きこもってるじゃん。なんで優遇されるの?」
という感じだったでしょう。そこに頼朝の弟、源義経の大軍が迫ってきますので、危機を感じ、とうとう後白河法皇を幽閉してしまいます。
その後源義経と戦いますが、人望を失った義仲のもとには兵力が集まらず惨敗(宇治川の戦い)、逃げる途中で討ち取られます。
最強の女性、巴御前
討ち取られる前に、恋人の巴御前(ともえごぜん)を逃したという話は有名ですね。
もちろん最初は認めませんでしたが「お前だけでも生き残って死んだ者を弔ってくれ」と説得されて折れました。
「それでは最後の奉公を」ということで源氏軍の武士で「武蔵国にきこえたる大力、御田八郎師重」と戦い、その八郎さんの首を素手でねじ切って倒してしまいました。
とんでもない女傑です。
その後は鎧兜を脱ぎ捨て、義仲に言われたとおり姿を消しました。まあ源氏の武士たちも、あんな戦闘シーンを見せられたのでは、巴御前に追いすがって戦おうとは思わなかったでしょう。^^;
源義経、平氏を滅ぼす
そして主役は源義経にバトンタッチ。
義経は、鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)で有名な一の谷、那須与一(なすのよいち)が扇を撃ち落としたことで有名な屋島での戦いを経て、関門海峡の壇ノ浦で平氏にとどめを刺します。
壇ノ浦の戦いについては、平家物語は平氏の方に同情的です。
なぜかと言うと、源義経は、非戦闘員である舟の漕手を射させたからです。
一方平氏の方には平教経(のりつね)というツワモノがいました。この人、源義仲の軍にも勝ってるんです。
で、その平教経さんですが、安徳天皇まで入水して、敗北が決まったにもかかわらず、一人で源氏の軍を蹴散らします。
大将の平知盛に「罪作りなことはするな」と言われたので、非戦闘員はもちろん、一応戦闘員であるはずの雑兵すら殺しません。殴ったりみね打ちしたりして海に落とすだけ。
大将の義経だけを狙って、雑兵を蹴散らしつつ迫っていきます。
それを見た義経は「もう勝負はついてるし、あんな危険なやつと戦ってられない」ということで、教経だけは徹底的に避けます。教経から逃げる途中で見せた超人的ジャンプが有名な八艘飛びです。
結局義経に追いつくことはできず、教経もあきらめて海に没することになります。
これで平氏は滅亡。
1185年 壇ノ浦の戦い
頼朝と義経の対立
その後、義経が頼朝に無断で朝廷から官位を得たことなどから、義経と頼朝の関係が悪化します。
そして、頼朝が義経討伐の部隊を送ってきたことをきっかけに、義経は後白河法皇に頼んで、頼朝討伐の院宣を出してもらいます。
しかし義経に従うものは少なく、また頼朝も圧力もあって、今度は手のひらを返したように義経討伐の院宣が発せられてしまいます。
そのうえ頼朝は、「義経を捕らえる」ということを口実に、守護と地頭を設置する権限を、後白河法皇に認めさせます。
平氏が滅び、かつ、全国に守護・地頭を設置する権限を得たことによって、支配の基礎が整ったということで、最近はこの1185年を鎌倉幕府スタートの年とすることが多いです。
1185年 鎌倉幕府「いいはこでカマクラ作る」
ということで鎌倉時代スタート。
終わりの年は、新田義貞が鎌倉に攻め込んだ1333年です。
結局義経は、奥州藤原氏に保護を求めますが、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡によって討ち取られてしまいます。
その後奥州藤原氏は源頼朝に攻められて滅亡します。
鎌倉幕府の仕組み
源頼朝が鎌倉に作ったものとして3つの役所が有名です。
- 侍所(さむらいどころ)…御家人統率
- 公文所(くもんじょ)→政所(まんどころ)…一般政務
- 問注所(もんちゅうじょ)…裁判
また国ごとに守護を置いて軍事や警察(大番催促、大犯三箇条)の仕事をさせ、荘園や公領に地頭を置いて治安維持や徴税などを任せました。
「義経を捕らえる」という名目で守護・地頭を置いたので、初期は「一時的なもの」と考えられていたようです。恒久的なものになるのは1191年の建久新制から。このとき守護と地頭の区別もはっきりさせました。
最初は「一時的だからいいでしょ?」と言って後白河法皇に認めさせておいて、途中から恒久的なものに変えさせるなんて、頼朝さんはさすがです。
ちなみに守護の大番催促というのは、京都を警備する御家人を集めるお仕事です。
大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)というのは、
- 大番催促
- 謀反人の検断
- 殺害人の検断
の3つ。検断とは、捜査→逮捕→裁判→処罰することです。
守護・地頭の設置を認められたとは言え、まだまだ朝廷の力は強いので二重権力状態です。
また執権(しっけん)は、頼朝を補佐する「ナンバー2」で、北条氏がつきました。
さて。
御恩と奉公
鎌倉時代と言えば「御恩と奉公」。
頼朝様の「御恩」に対して、御家人(=将軍の家来)は命がけで「奉公」するということ。
御恩とは本領安堵(先祖伝来の土地の支配を保証する)、新恩給与(新たに土地を与える)こと。
サラリーマンは現金をもらって働きますが、御家人は土地をもらえるから命をかけて戦ったということ。
土地のために命をかけるという意味で「一所懸命」という言葉ができました。今では「一生懸命」となってますが。
こういう、「土地支配させてくれるから家来になるよ」という仕組みを封建(ほうけん)制度といいます。
征夷大将軍になるまでの経緯
そうして、1192年に後白河法皇が亡くなると、次の後鳥羽天皇から頼朝は征夷大将軍に任命されます。
朝廷「官職差し上げたいのだけど、何がいいかな?」
頼朝「大将軍的なやつがいいな」
朝廷「じゃあ、惣官、征東大将軍、征夷大将軍、上将軍から好きなの選んで」
頼朝「惣官は平宗盛、征東は義仲がなったやつだから縁起が悪い。上将軍なんて聞いたことない。やっぱ坂上田村麻呂がなった征夷大将軍がかっこいいな」
朝廷「じゃ、それで!」
という感じで決まったようです。頼朝さんがこれを選んだからこそ、これからずっと征夷大将軍は「武家の最高指導者」を表す官職となったというわけです。
1192年に、天皇から正式に「武家の最高指導者」と認められたわけだから、ここから鎌倉幕府開始だという説もいまだに有力です。
1192年 頼朝、征夷大将軍に「いいくにつくろう」
しかしこの7年後、源頼朝は謎の死を遂げます。「落馬して亡くなった」と伝えられているだけで、詳しいことはなぜか記録が残っていません。
北条氏、源頼家を排除
2代目将軍は、頼朝の子の源頼家が継ぎます。
しかし、頼家の妻は比企能員(ひきよしかず)という有力御家人の娘。このまま行くと、比企能員が将軍の外戚となります。3代将軍のお祖父ちゃんになっちゃう。
「これはまずい」と考えたのは北条氏。
「ヒキのやつに実権を奪われてしまう!」
と考えて、北条時政は、頼家が重病となったことをきっかけに頼家を将軍の座から外し、続いて比企能員一族を滅ぼします。
頼家は幽閉された挙げ句、暗殺されます。そして3代将軍には頼家の弟の源実朝(さねとも)がつきます。
これだけだと北条氏極悪に思えてしまいますが、一説によると比企能員が北条氏討伐を企てたので、北条氏は先手を打った、とも伝えられます。
どちらが先に仕掛けたのかは、今となってはわかりません。
で。
実はすごかった源実朝
3代実朝は満11歳、今でいうと小学5、6年生くらいで将軍となり、翌年には結婚させられるわけですが。^^;
最初は武士の娘と結婚させられそうだったのですが、実朝くんが「いやだー! もっと高貴な子がいい!」と駄々をこねたので、貴族の娘と結婚することになりました。
12歳なのになかなかやります。(笑)
わざわざ貴族の娘を探しだして結婚するくらいなので、実朝さんは貴族の文化にも造詣が深いです。
歌人として名を残していて、百人一首にも選ばれています。それくらいなので、後鳥羽上皇からも好かれます。
それで、ただの歌好きで政権を担当する能力なんてない人みたいに思われがちですが、最近の研究では、朝廷とも良い関係を築き、いろいろな政策を打ち出して成果を上げてきたことがわかってきています。
そんな実朝が、2代将軍頼家の息子、公暁(くぎょう)に、鎌倉の鶴岡八幡宮で殺されてしまったのは、幕府にとってはショッキングなことでした。
これも北条氏の陰謀だと言われたこともありましたが、これ以前に、実朝を殺そうとした北条時政を、息子の義時と娘の政子が全力で止め、時政を出家させています。
だから北条氏の陰謀で実朝が暗殺されたとは考えにくいのです。
実朝は「後鳥羽上皇の子を4代将軍にしよう」と考えていたので、そうなってしまうと将軍になるチャンスがなくなると思った公暁が、思い余ってやってしまった、という話が説得力があります。
真実はどうあれ。
後鳥羽上皇と承久の乱
好意を持っていた実朝が殺されたということで、朝廷の後鳥羽上皇は
「これで幕府とうまくやっていくことは難しくなった」
「源氏の将軍が途絶えた今なら、幕府側は団結しづらいだろうな」
と考え、北条義時追討の院宣(いんぜん)を出します。
「幕府を倒せ!」とかではなく、あくまで「義時追討」というところに、後鳥羽上皇の意図を感じ取れます。
「義時追討」であれば、日頃から北条氏に反感を持っている御家人が寝返って、幕府内で勝手に潰しあってくれる可能性があるからです。
こうして起こった戦いが
1221年 承久の乱(じょうきゅうのらん、承久の変)「ひとにふいうち承久の乱」
です。
もちろん、御家人たちの間には動揺が走りました。義時に味方して戦えば「賊軍」扱いです。
しかしここで、あの有名な「北条政子の演説」が炸裂します。
「平家の時代は苦しい毎日でしたよね」
「それが今のように幸せに暮らせるようになったのは誰のおかげですか」
「頼朝公でしょう? その恩を忘れて裏切るなんて恥だとは思いませんか?」
「それでも朝廷側につくというのならここではっきり言いなさい」
後鳥羽上皇のターゲットは「北条義時」だったのですが、政子さんはなんと、それを「頼朝公が築き上げたすべて」にすり替えています。すごいです。さすが尼将軍は伊達じゃない。
こう言われたら「うるせえ! 俺は朝敵になるのは嫌なんだよ! 上皇につくよ!」とは言えないでしょう。
ということで、後鳥羽上皇の目論見は外れ、ほとんど裏切りもなく、承久の乱は幕府側の大勝利となります。
初めて幕府権力が朝廷を上回る時
後鳥羽上皇は隠岐(おき、島根県隠岐諸島)に配流となります。
朝廷としては大ショックでしょう。田舎の野蛮人と見下していた武士たちの手で、朝廷の最高権力者、スーパーマンと崇めていた上皇が島流しにされたわけですから。
その上、朝廷側の所領の多くは没収され、これはもちろん「御恩」として幕府側の御家人に与えられました。
ここで新たに任命された地頭を「新補地頭(しんぽじとう)」と呼びます。それ以前からの地頭は「本補地頭」です。
そして京都には、朝廷監視役として六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置しました。
こうして、承久の乱をきっかけに、幕府の勢力は東国だけでなく西国にも広がり、幕府が朝廷を圧倒するようになったのでした。
泣く子と地頭には勝てぬ
これによって地頭が力を強め
「泣く子と地頭には勝てぬ」
なんてことも言われるようになります。
「地頭が『耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼にするぞ』と脅します」なんて訴状も残されています。
荘園領主の力は弱まり下地中分(したじちゅうぶん)や地頭請(じとううけ)などが行われるようになります。
荘園領主は、地頭に利益をすべて奪われるのが嫌だから、
- 「土地を半分こしましょうね」…下地中分
- 「土地は全部任せるから、年貢だけ納めてね」…地頭請
ということをします。
北条氏の執権政治
将軍はと言うと、4代目5代目は摂関家から迎え(摂家将軍)、その後は皇族から迎えられました(皇族将軍、親王将軍)。
どちらにしても形式的なもので、実験を握ったのは執権である北条氏です。このことから、北条氏の政治を「執権政治」と呼びます。
もちろんここに来るまで、北条氏はライバル御家人を滅ぼしています。
たとえば2代目の源頼家のころ、初代執権北条時政は頼家の外戚の比企能員一族を滅ぼしました。
また、2代目執権北条義時は実朝時代、和田義盛という侍所の別当(長官)を倒し、自らが麺処別当と侍所別当を兼ねました。
北条泰時、執権政治を完成させる
そして3代目執権北条泰時(やすとき)が執権政治を完成させます。
泰時は執権補佐として連署(れんしょ)という役職を作り、自分の叔父の時房を連署に任命します。
幕府の文書に、執権に「連」なって「署」名するので連署です。
また「政治は話し合いで進めましょうね」ということで評定衆(ひょうじょうしゅう)と呼ばれる合議機関を作ります。
評定衆で有力御家人が話し合って、大事なことは決めましょうということです。
土地関係の裁判もしましたので、今で言えば「国会兼内閣兼裁判所」のようなものです。
北条氏はあくまで将軍ではありませんので、合議機関によって統率力を強めようとしたわけですね。
そして極めつけは、「武家初の成文法」である御成敗式目の制定です。
1232年 御成敗式目(ごせいばいしきもく)「違反はつみに、貞永式目」
別名「貞永式目(じょうえいしきもく)」です。
頼朝以来の先例と武家社会の道理をもとに、御家人が守るべき決まりを51か条にまとめました。以後、鎌倉時代が終わっても武家の基本法となります。
十七条憲法のちょうど3倍なんです、51か条。17というのは良い数字だと考えられていたんですよね。
女性も領地を相続することができるということで、戦国時代にルイス・フロイスが見てビックリしたようです。
北条時頼、得宗専制へ向かう
5代目執権の北条時頼も有名ですね。
諸国を旅して民衆を助けるなんて水戸黄門みたいなことをしたという伝説もあります。あ、むしろこっちが元ネタなのかもしれませんが。^^;
でも、幕府内ではかなり「怖い」存在だったようで、有力御家人を滅ぼして、北条氏による独裁を進めています。
特に、宝治合戦(ほうじがっせん)で三浦泰村(やすむら)を滅ぼしたことで、得宗専制政治に一歩踏み出したと考えられています。
「得宗(とくそう)」というのは北条氏の当主のことです。
- 3代目北条泰時「話し合いで進めていこうね」
- 5代目北条時頼「得宗である俺の言うことを聞け」
という感じですね。
ただそればかりでは御家人をまとめるのは難しいので、泰時が作った評定衆の下に、さらに引付衆という合議機関を作って、評定衆の補佐としています。
北条時頼は、執権を辞めたあとも権力を持ち続けました。院政のようなことをしたわけです。
そうして時代は8代執権の北条時宗(ときむね)の頃へ。
元寇=文永の役、弘安の役とその影響
日本史上最大の危機だったのかもしれません。
世界最強のモンゴルが攻めてきます。
チンギスハン指導のもと、東は中国から西は東ヨーロッパまで、世界史上最大の征服を成し遂げた帝国です。
モンゴルに支配された中国は元(げん)という名前になり、チンギスハンの孫フビライが皇帝となります。
エビフライとか言ってはいけません。
フビライはまず、8代執権北条時宗のところに使者を送ってきます。手紙をもたせて。
「日本はモンゴルに朝貢しなさい」
「要するに服属しろってことだけど…」
「高麗(朝鮮)も朝貢してきたよ?」
「日本だって昔から中国に朝貢してきたよね」
「それなのに、僕のところに挨拶もないっておかしくない?」
「仲良くしたいよねぇ、僕はそう思ってるんだよ」
「僕だって武力は使いたくないけど、理解してくれないなら…」
という内容。
北条トキムネはこれを見て、ドキがムネムネどころではありません。
「うっさいわ!」
ということで拒否します。この後何度か手紙が来ますが一切無視。九州に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を置いて防備を固めます。
文永の役
フビライは約束通り、手紙の次に軍隊を送ってきます。その数3万。
対馬、壱岐で住民を虐殺したあと、博多湾に押し寄せます。
1274年 文永の役
元軍の集団戦法や「てつはう」という火薬を使った武器には苦しめられましたが、なんとか上陸を阻止。
有名な蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)。戦っているのは竹崎季長(たけさきすえなが)です。自らの奮戦を幕府に知らせるために自ら描かせたとも言われています。
それはさておき。
そうこうしているうちに元軍は撤退していきます。
これには暴風雨(=神風)のせいとか、最初から偵察気分だったとか、いろいろ説があります。
モンゴル軍とは言え、中身はほとんど高麗兵ですので、「命をかけるなんてバカバカしい」と思っていたことは確実でしょう。
それに対して日本側は決死の覚悟ですので、モンゴル軍(中身高麗軍=やる気なし)が早々に引き上げてもおかしくはありません。
文永の役のあと、幕府は博多湾沿岸に20キロにもわたる石塁を造るなど、防備をさらに強化します。元に関する情報収集も余念ありません。
今度は準備バッチリというところです。
弘安の役
そんな中、2度目のモンゴル襲来となります。
1281年 弘安の役
今度は14万の大軍でしたが、例によってやる気のない兵士も多く、疫病まで発生してしまう始末。
一方日本側は準備万端の上、国家存亡をかけた決死の覚悟です。
その上、今回は7月、長々と戦っていてはそのうち台風だって来ます。
ということで元軍は14万の大軍をもってしても日本に敗北することになります。
1274年、1281年「ふなよいモンゴル、はいぼく」
文永の役、弘安の役を合わせて元寇(げんこう)と呼びます。
結局のところ、当時世界最強だったモンゴルとは言え、こと元寇に関しては、最初から勝ち目はなかったという説も有力です。
いくら数が多くても、やる気のない兵では役に立ちません。
その上、日本側は自国なのでいくらでも補給できますが、元軍は海を越えてやってきていますので、日がたつにつれて、兵士も武器も食料も減っていきます。
また、元軍の短弓では日本の甲冑を貫くことが難しいですが、日本の矢は元軍の革鎧を簡単に貫き、日本刀の斬撃に対しては革鎧など気休めにもなりません。
ということで、フビライは勝てない戦を仕掛けてしまったのかもしれません。
元寇の影響
さて、その後の日本ですね。
日本側は勝利したものの、
「また来るんじゃないの?」
と思っていますので、防備のために引き続き御家人は負担を強いられることになります。
でも、「撃退しただけ」で土地を奪ったわけではないので、御家人たちへ「御恩」を与えることが難しいです。
その上、分割相続を繰り返したこともあって、御家人一人が持つ土地は昔より狭くなっています。
ということで、貧困化する御家人が増えます。
一方、北条氏は得宗専制政治を強めていきます。
「いつまた元が攻めてくるかもしれない非常時だからグズグズ言わずに北条氏の命令に従うべきだろう」
というのもありますし、元寇の影響で北条氏以外の御家人がダメージを受け、相対的に弱くなってしまったこともあるでしょう。
1285年の霜月騒動では、内管領(うちかんれい)の平頼綱(よりつな)が有力御家人の安達泰盛を滅ぼします。
内管領とは得宗家の家来=御内人(みうちびと)の代表です。つまり北条氏当主=得宗自身ではなく、その家来でも有力御家人を倒せるほどになってしまっているということです。
- 多くの御家人が貧困化
- 得宗専制強化
これではどう考えても、不満を強める御家人が増えていくでしょう。
そこで幕府は永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)を出します。
- 御家人が御家人に売った土地…20年以内なら取り返してOK
- 御家人が御家人以外に売った土地…無制限に取り返してOK
これで御家人を救おうとしましたが、救えるはずもありません。
幕府への不満は日に日に高まります。
こんな状況を見て立ち上がるのが、後醍醐天皇です。
鎌倉時代の生活
武士は平時は自分の領地に住み、人を使って農業経営をしています。
自分は何をしているかと言うと、武芸の腕を磨いたりしています。そして「いざ鎌倉」に備えます。
弓が主武器ですので「騎射三物(きしゃみつもの)」が有名です。笠懸(かさがけ)、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)ですね。
家は「武家造(ぶけづくり)」と呼ばれる、防備を意識した造りです。
一家の当主は惣領(そうりょう)と呼ばれ、一家を統率したり氏神を祀ったりします。
相続は惣領だけでなく均等分割相続でしたが、それがだんだん無理になってきたので、鎌倉時代末期には惣領単独相続となります。
それで一家の血縁的なつながりは薄れます。長男はいいけど、次男三男は土地ももらえないし、好きなところへ行ってしまうということです。
そして、自分の住む土地で、気に入った仲間と団結します。血縁より地縁というわけです。
それが御家人たちの団結を崩したとも言われています。
鎌倉時代の産業
農業生産力も大きく上がります。
刈敷(かりしき、草を敷き詰める)、草木灰(そうもくかい、灰を敷き詰める)という肥料が広まりましたし、牛馬耕と言って、牛や馬に犂を引かせて田を耕す方法も普及したからです。
鉄製農具や日用品、武器なども作る専門の鍛冶屋も現れます。
刀鍛冶で有名な岡崎正宗も鎌倉時代末に現れます。ファイナルファンタジーとかでおなじみ「正宗」という刀を作った人ですね。
平清盛が盛んに輸入した宋銭も流通し、各地で定期市が開かれます。月3回の定期市を三斎市と呼びます。
商業が発達すると、運送の受容も増えますので問丸(といまる)と呼ばれる運送業者が増えます。
問丸は運送業だけでなく、倉庫業や委託販売もするようになり、室町時代には問屋(といや)となって運送業者と言うより商人と化します。
鎌倉文化
鎌倉文化の代表といえばまず第一に仏教です。
それから武士の気風を反映した作品も作られます。
鎌倉仏教
まず仏教。
末法思想の予言通り、争いの多かった時代なので、多くの人が仏教による救いを求めるのは当然の成り行きです。
そのうえこの時代は、一般人でも取り組みやすい仏教が多数現れました。奈良の仏教のように学問的でもないし、平安密教のように秘密めいてもいない。
以下の3つの特徴があります。
- 易行(いぎょう)…誰でも簡単にできるよ!
- 選択(せんじゃく)…好きな方法を選んでいいよ!
- 専修(せんじゅ)…そればっかりやってればいいよ!
で、有名な6つの宗派が出てきます。
【念仏チーム=念仏を唱えて極楽往生】
法然(ほうねん)…浄土宗
「南無阿弥陀仏ってひたすら唱えれば極楽へ行けるよ」
親鸞(しんらん)…浄土真宗(一向宗)
「南無阿弥陀仏って心を込めて1回でも唱えれば救われるよ」
「悪人こそ仏様は気を使ってくれてる、悪人正機(あくにんしょうき)だよ」
一遍(いっぺん)…時宗(じしゅう)
「踊りながら南無阿弥陀仏って唱えるとチョーキモチイイ!」
【座禅チーム=座禅で悟りを開く】
栄西(えいさい)…臨済宗(りんざいしゅう)
「公案ってクイズを考えながら座禅するといいよ」
道元(どうげん)…曹洞宗(そうとうしゅう)
「ただただ座禅だよ。只管打坐(しかんたざ)だよ」
【題目チーム…南無妙法蓮華経】
日蓮…日蓮宗(法華宗、ほっけしゅう)
「南無妙法蓮華経って唱えると絶対救われるよ」
以上、3チーム6人のお坊さんを紹介しました。
この中から一つを選んで(選択)、そればかりやればいい(専修)というわけです。
まあ、座禅は易行とは思えないですけどね。^^; 現在有名な仏教宗派はすべて、鎌倉仏教ですのでそれほど影響力が大きかったということですね。
南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか唱えることを迷信だとバカにする人もいるかも知れませんが、これを唱え続ければ雑念だって消えますし、瞑想効果があることは確かです。
踊りながらやるとなおさら没入できていいのかもしれません。
そう考えると、どれも禅宗と考え方は似ているのかもしれませんね。
仏教建築、彫刻
次に仏教建築では、東大寺南大門や円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)が有名です。
写真の東大寺南大門は大仏様(天竺様、てんじくよう)と呼ばれる雄大なつくり、円覚寺舎利殿は唐様(からよう、禅宗様)と呼ばれる細やかなつくりとなっています。
東大寺南大門には金剛力士像(仁王像)があります。運慶の作ったものですね。ようするにマッチョな神様の像で、武士の気風にあった力強いものです。
鎌倉文学
文学では琵琶法師が語った平家物語が有名です。「ひらやものがたり」ではなく「へいけものがたり」。戦を扱った軍記物です。
琵琶法師って人名ではなくて、語った人々がそう呼ばれたということです。吟遊詩人みたいなもの。
また平安時代の枕草子と並んで日本三大随筆と呼ばれるもののうち、2つは鎌倉時代です。
- 方丈記(ほうじょうき)…鴨長明(かものちょうめい)
- 徒然草(つれづれぐさ)…吉田兼好(よしだけんこう)
源実朝は歌人でもあると言いましたが「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)」を編纂しています。
朝廷では後鳥羽上皇の時代に勅撰の新古今和歌集が編纂されています。