平安時代のまとめ(前半)~桓武天皇から摂関政治まで

最初に平安時代前半をまとめましょう。

  • 桓武天皇…平安京(794年)、勘解由使、蝦夷征討(坂上田村麻呂)
  • 平城上皇VS嵯峨天皇→薬子の変
  • 嵯峨天皇…蔵人頭(藤原冬嗣)、検非違使、弘仁格式
  • 9世紀…承和の変(伴健岑、橘逸勢)、応天門の変(伴善男)=他氏排斥
  • 藤原良房(人臣初の摂政)、藤原基経(初の関白)→摂関政治
  • 宇多天皇…菅原道真を起用して藤原氏に対抗
  • 菅原道真…遣唐使廃止、藤原氏により大宰府へ左遷(901年)
  • 10世紀…安和の変(源高明)=他氏排斥完成
  • 11世紀前半…藤原道長・頼通=藤原氏絶頂期
  • 弘仁貞観文化…最澄(天台宗、延暦寺)、空海(真言宗、金剛峯寺)、曼荼羅
  • 国風文化…かな文字、清少納言、枕草子、紀貫之、古今和歌集
  • 寝殿造、十二単
  • 末法思想→浄土教流行、空也

平安時代の始まりは、桓武(かんむ)天皇が平安遷都した794年です。

平安時代の終わりは鎌倉時代の始まりですが、最近では1185年とすることが多いようです。

今回の範囲は、桓武天皇が律令政治を立て直そうとしたにもかかわらず、藤原氏が力を強めていき、律令外の摂政、関白という立場で力を振るう摂関政治が完成し、藤原道長・頼通で絶頂に至るまでの話。

桓武天皇、平安遷都の理由

桓武天皇は奈良時代、藤原百川(ももかわ)らの働きで天皇位につきましたが、仏教勢力が強くなりすぎた平城京を離れることを決心します。

平城京は争いや疫病で人がたくさん死んだりして、良い思い出がありませんし。

長岡京の失敗

ということでまずは長岡京(京都府長岡京市)へ遷都することにします。平安遷都のちょうど10年前、784年です。ちょうど100年前の藤原京とセットで覚えておくと吉。

※藤原京→平城京→長岡京→平安京とどんどん北に移動してますね。

ところがここで、造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)=都づくりの総責任者だった藤原種継(たねつぐ)が何者かにより暗殺されてしまいます。

これに関しては、桓武天皇の弟である早良(さわら)親王が濡れ衣を着せられ、早良親王は抗議のため飲食を断って亡くなりました。

その後、九州の霧島山(鹿児島県)が噴火したり、長岡京で地震が何度も起こったり、洪水に見舞われたり、疫病が流行ったり・・・

また、桓武天皇の息子が病気になったり、妻、母親が次々と病死したりしました。

これは早良親王の祟りに違いないということで、鎮魂の儀式が行われました。

それだけではまだ桓武天皇は安心できません。

「これどう考えても縁起悪いよね」
「天皇の不徳のせいにされちゃかなわないし」

ということで桓武天皇は長岡京を諦め、和気清麻呂の進言を容れて平安京へ移ることにします。

794年 平安遷都「なくよ坊さん平安遷都」

うぐいすじゃありません。平城京に置き去りにされたお坊さんが泣くのです。

それはさておき。

和気清麻呂の進言

和気清麻呂は称徳天皇によって大隅国に流されていましたが、称徳天皇崩御の後は許されて戻ってきていました。

その和気清麻呂が「ここがいいですよ」って現在の京都の地を桓武天皇に勧めたんです。だから和気清麻呂の進言がなかったら、今の京都はなかったかもしれないというわけ。いやダジャレじゃなく。

和気清麻呂は、なんと皇居に銅像があるのですが、京都市役所前にも銅像を作るべきですね。あ、でも護王神社にすでにあるんですね。^^;

桓武天皇の政治

では桓武天皇は平安京に遷都して、その後何をしたのかという話。大きく分けると二つ。

  • 律令政治の立て直し
  • 蝦夷(えみし)征討

律令政治立て直し

律令政治の立て直しに関しては、勘解由使(かげゆし)の設置が有名です。国司の仕事を監視する役です。

国司が後任者に引き継ぎを行う時、解由状(げゆじょう)を後任者から受け取ります。解由状とは「国司としてちゃんと仕事をしました」と後任者が証明する文書です。

でもこれ、国司になる人同士でやっていると、審査が甘くなります。だって、厳しくしたら、次は自分が厳しくされるかもしれないし。お互い甘々審査のほうが楽に決まっています。

なので、勘解由使を置いて、解由状を厳しく審査させたということです。

班田収授も、確実に行われるよう6年に一回(六年一班)だったのを12年に一回(一紀一班)にします。

それから、農民の負担軽減と、軍の少数精鋭化のために健児制を実施します。「けんじ」じゃありませんよ! 「こんでい」と読みます。

九州、東北、佐渡以外は、農民から徴兵して作る軍=軍団をやめます。かわりに郡司の子弟などから優秀な者を集めて健児と呼ばれる軍を作りました。

少数精鋭とすることで、農民の負担は減るし、軍の維持費も節約できるし、メリットが大きいと考えられたわけです。どれくらい少数精鋭かというと「一人で100人分の戦力」が桓武天皇の理想だったようです。なんかもう、映画とか漫画の世界です。

蝦夷征討

次に蝦夷の征討について。

当時は東北やそこに住む人々を蝦夷(えみし)と呼んでいました。朝廷の支配下になかった人たちです。これ、だんだん北にずれて最終的には北海道が蝦夷(えぞ)になりますね。

この時代は、東北の蝦夷を征服するため、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として派遣されます。

征夷大将軍は後に武士の棟梁を表す称号となりますが、この時代はまだ「蝦夷を征服するための大将軍」です。

坂上田村麻呂は、鬼神や悪魔も退治したなんて伝説が残るほどの勇者で、奈良時代に作られていた多賀城(宮城県)のさらに北、今の岩手県に胆沢城(いざわじょう)、志波城(しわじょう)を築いて戦います。

とうとう蝦夷の英雄アテルイを降伏させることに成功します。アテルイを勇者だと認めた田村麻呂は、アテルイの助命を懇願しますが朝廷は認めず、アテルイは処刑されます。

仏教の新しい流れ

桓武天皇は、仏教勢力のつよい奈良を離れたくらいですので、南都六宗の寺院の封戸(ふこ、朝廷から与えられていた収入源)を没収しました。

でも仏教自体が嫌いというわけではないので、奈良仏教とは別の新しい仏教に力をもたせようとします。それで重用されたのが最澄です。

最澄は内供奉十禅師(ないぐむじゅうぜんじ)の一人として桓武天皇のそばに仕えただけでなく、南都六宗に対抗できるような仏教の新知識を学ぶため、唐に留学します。

そうして唐で学び、帰国すると比叡山延暦寺で天台宗を広めていくこととなります。死後、伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号を贈られます。日本初の大師です。

同じ時期にもう一人の天才がいました。それが空海です。空海も最澄とともに唐に渡りますが、最澄と違って当時は無名でした。

空海は唐で密教を学び、20年の予定だったのをたった2年で帰国してしまいます。そして、京都の東寺や高野山金剛峯寺で真言宗を広めていくことになります。

空海は弘法大師の諡号を贈られました。

ということで。

政治に話を戻しましょう。

平城上皇と嵯峨天皇の対立

桓武天皇の後は、平城(へいぜい)天皇、嵯峨(さが)天皇と続きます。

平城天皇ははじめ、律令政治立て直しに精力的に取り組みますが、弟の伊予親王が謀反の疑いをかけられ、死に追いやられてから少しずつ変わってきます。

やがて病気になってしまって、この病気の原因を

「早良親王や伊予親王の祟りなんじゃないか・・・」

と心配し始めます。それで、祟りを避けるために天皇を辞めてしまいます

でもその後静かに余生を送ったかと言えばそうではなく、上皇として権力を振るいます。

弟の嵯峨天皇と対立し、寵愛する藤原薬子(くすこ)らとともに、平城京へ移り、ここから政治を動かそうとします。この状態を二所朝廷と呼びます。

そして、一方的に平安京を廃して平城京へ遷都するとの詔勅を出してしまいます。父親の桓武天皇の考えに、完全に背いたというわけです。

これで対立は決定的となり、平城上皇は挙兵しようとしますが嵯峨天皇の対応が早く、上皇は諦めて出家、藤原薬子は服毒自殺します。

昔はこれ、藤原薬子が中心だったと考えられていて「薬子の変」と呼ぶのが普通でした。最近では平城太上天皇の変(へいぜいだいじょうてんのうのへん)と呼ぶことも多いです。太上天皇というのは上皇のことです。

嵯峨天皇の政治

ということで嵯峨天皇の政治です。

まず、平城上皇と対立している間、機密を守り、かつ天皇の命令をスムーズに伝えるため、蔵人頭(くろうどのとう)という役職を新たに作り、藤原冬嗣(ふゆつぐ)らを任命しました。平城上皇側に機密が漏れては困りますからね。

あとは、平安京の治安を守るために検非違使(けびいし)を設置しました。平安京の警備役です。「けびいし」が「けいび」なので覚えやすい。

蔵人頭も検非違使も、律令には定めがない役職なので「令外官(りょうげのかん)」と言います。

また、冬嗣に命じて弘仁格式(こうにんきゃくしき)を作らせました。格と式は、律令を補完する細かい決まりです。

貞観格式(じょうがんきゃくしき、清和天皇)、延喜格式(えんぎきゃくしき、醍醐天皇)と合わせて三代格式といいます。まとめて「こうじえん格式」と覚えます。

淳和天皇の時代

また次の淳和(じゅんな)天皇の時代には、養老令の公式の注釈書として令義解(りょうのぎげ)が作られました。ついでに私的な注釈書として令集解(りょうのしゅうげ)も作られました。

お役人が「養老令に書いてあることはこういう意味なんだよ」って解説したら、学者さんがそれに対抗して「いや、それは違う。こう解釈するのが正しい」と解説したわけです。今でもありそうな話ですね。(笑)

ここまでは天皇が主役になってあれこれやっていましたが、とうとうあの人たちが力をつけてきます。

そう、藤原氏です。

藤原良房、基経→摂関政治

まず、嵯峨天皇のもとで活躍した藤原冬嗣。彼は北家の人です。藤原房前のひ孫。藤原四子は「武智麻呂、房前、宇合、麻呂=むふウマ!」の順で南北式京でしたね。

敵だった藤原薬子は、同じ藤原氏ですが式家です。薬子の変は北家対式家でもありました。

で、勝った冬嗣は、順調に出世して、最終的には天皇の外祖父となります。朝廷で権力を握りたい人がよく使う例の作戦です。この立場が超大事です。

冬嗣の子の藤原良房(よしふさ)は、他氏排斥を精力的に進めます。

842年承和の変
伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)→謀反の罪を着せて流罪
それまでの皇太子を廃して良房の甥を皇太子に

866年応天門の変
平安京の応天門に放火し、それを左大臣・源信(みなもとのまこと)の犯行であると告発した大納言・伴善男(とものよしお)父子を流罪に。その直後、なぜか源信も死去。

この間、藤原良房は人臣として初めて摂政となります。これには858年説と866年説がありますがどっちでもいいでしょう。近いし。

良房の息子の藤原基経は、884年に実質的に関白となりますが、888年の阿衡の紛議(あこうのふんぎ)でライバル橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させ、宇多(うだ)天皇に詔勅を取り消させた上で関白となっています。

どういうことかというと、宇多天皇が基経を関白に任ずるために詔勅を出しました。その文書は橘広相、ヒロミさんが書くのですが、「関白」の代わりに、中国風に「阿衡」という言葉を使いました。

その方が中国風だからかっこよくて基経も喜んでくれるだろうと思ったわけ。

ところが基経は「中国の阿衡は名誉職で、実際の権限がないんだぞ!」と怒り始めました。で、仕事は全部放棄。

宇多天皇は困り果てて、ヒロミさんをクビにし、やっとのことで基経の機嫌をとって関白になってもらいました。

つまり基経はこの事件を通じて「オレのほうが天皇より力があるんだぞ」と示したわけです。

で。

この、北家の藤原良房・基経父子が9世紀に相次いで摂政、関白となって、ここから摂関政治スタートということになります。

ちなみに摂政は成人前の天皇に代わって政治をし、関白は成人した天皇を助けて政治をするという役職ですが、似たようなものです。

宇多天皇の政治

宇多天皇はさすがにこの事件で藤原氏が鬱陶しくなって、藤原基経が亡くなると、関白は置かずに菅原道真(すがわらのみちざね)を蔵人頭にして藤原氏に対抗させます。

ここから宇多天皇は、藤原氏が突出しないよう上手くバランスを取りながら政治を進めます。これを寛平の治と呼びます。「かんぴょうのち」です。カンペイさんではありません。

菅原道真は子供の頃から優秀で、元々高い位ではなかったけど順調に出世しました。

その後、宇多天皇が困り果てていた「怒れる基経」に意見書を送って、怒りを収めさせたことで一気に宇多天皇からの評価が上がりました。

それで基経の死後、天皇側近である蔵人頭に大抜擢ということになります。

その後も遣唐使廃止などを成し遂げ、様々な政治改革にも取り組み、とうとう藤原時平とともに太政官のツートップとなります。時平が左大臣、道真が右大臣。

ただ、強力な後ろ盾だった宇多天皇が譲位して醍醐天皇にかわると雲行きが怪しくなってきます。

菅原道真、大宰府へ

そもそも学者出身で高い位ではなかった道真が右大臣にまで上り詰めたことから妬む貴族も多く、また道真の改革によって損をする貴族もいました。特に遣唐使は儲かったそうです。

それで、藤原時平によって「道真は醍醐天皇を廃位しようとしている」という誣告(ぶこく、偽りの訴え)がなされ、醍醐天皇はそれを聞いて道真を大宰府に左遷、道真の子どもたちも流罪となります。

これを昌泰の変(しょうたいのへん、901年)と言います。

宇多上皇は醍醐天皇を説得しようとしましたが、醍醐天皇は面会を拒んだとのことなので、朝廷内では菅原道真に反発する人が多かったのかもしれません。

道真が都を去る前に詠んだとされる歌がこれです。

「東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

左遷されて2年後に道真は亡くなります。

道真が亡くなった後、奇怪な事件が相次ぎます。

まず、雷に打たれて死ぬ人が増えます。

それで、藤原時平は、雷に対して太刀を抜き「生前は私のほうが位が上だったろう! もっと遠慮しろ!」と怒鳴ったそうです。そうすると雷は静まったのだとか。

でも時平は39歳の若さで病死してしまいます。

その後、時平とともに道真を陥れた源光(みなもとのひかる)が溺死。醍醐天皇の皇子と孫が病死。

また貴族が集まって朝議中の清涼殿に落雷して朝廷要人が多数死傷。

それを見ていた醍醐天皇も体調を崩して崩御・・・

さすがに朝廷の人々は怖くなって、道真の名誉回復のため次々と官位を贈り、神として祀ることまでしました。

それで京都の北野天満宮や福岡県の太宰府天満宮には、菅原道真が天神さまとして祀られています。もともと学者だったということで学問の神としても有名ですね。

ちなみに、雷よけとして「くわばら、くわばら」ということがありますが、これは菅原道真の領地、または館のあった場所が「桑原」という地名で、雷が落ちたことがなかったからなんだとか。

遣唐使廃止の理由

894年 遣唐使廃止「白紙に戻す遣唐使」

ということで菅原道真が廃止させた遣唐使ですが、その理由としては以下のようなことが言われます。

  • 学ぶべきことは学び終わった。
  • 唐はすでに衰えて争いも多く危険である。
  • 航海自体も危険である。

だから危険を冒してまで行く必要はないというわけです。

さらにもう一つ、「残酷な犯罪が増えたから」という説もあります。

唐との交流が盛んになれば、こちらから行くだけでなくあちらから渡ってくる人も増えるわけですが、良い人だけでなく犯罪者のような輩も渡ってくるというわけです。

そういう人間が渡ってきて、日本人ではまずやらないような、残酷なことをすることが増えたと。

それで、民衆の意見としても「遣唐使は廃止して!」というのが増えた、という説です。

他氏排斥完了から藤原道長・頼通の時代へ

では藤原氏の話に戻りましょう。

10世紀には昌泰の変ともう一つ、安和の変(あんなのへん、969年)という事件があります。

まあまた似たようなパターンなんですけど。^^;

密告によって左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が謀反に関係していたということになり、大宰府に左遷されてしまいました。

これによって、藤原北家のライバルはいなくなった、「他氏排斥完了」と言われています。

でも争いは終わらず、今度は藤原北家内で、だれが氏の長者=一家のリーダーになるかで争います。

藤原道長、摂政に

そして最終的に、藤原道長が勝ち残り、11世紀はじめに道長の孫が後一条天皇となり、自らも摂政となって藤原氏絶頂期を築きます。

どれくらい力があったかと言うと・・・こんな話があります。

あるとき皇居が火事にあったけど、なかなか再建されませんでした。ところがその後、藤原道長のお屋敷が火災でなくなると、全国の受領(ずりょう=国司)がこぞって私財を投じて、藤原邸再建に勤しんだそうです。

また、天皇が行事をしようとしても、道長が出席しなかったら他の貴族も出席せず、天皇の行事はたいへん寂しいものになったとのこと。

それくらい道長は力を持っていたというわけ。

最終的に4人の娘を天皇の后としていますが、3人目を結婚させた時に作ったのがこの有名な歌です。

「此の世をば我が世とぞ思ふ 望月のかけたることも無しと思へば」(小右記)

「世界は私のものだな! 私の人生は満月のように完璧で、欠けるとも思えないからね」

ちなみに、道長は「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれましたが、関白にはなっていません。^^; なぜか関白になるのは頑なに拒んだそうです。

道長の子の、藤原頼通(よりみち)も大きな権力を持っていて、50年間も摂政関白を務めました。宇治に平等院鳳凰堂を造ったので「宇治関白」と呼ばれます。

平等院鳳凰堂って、10円玉に彫ってあるやつですね。

しかし頼通には、天皇になる孫が生まれず、摂関政治は終わりに向かいます。

弘仁貞観文化

平安時代初期の文化を弘仁貞観(こうにんじょうがん)文化といいます。

主役は最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)です。

  • 最澄…天台宗、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)
  • 空海…真言宗、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)

でしたね。

ちなみに、奈良の南都六宗は、経典を研究すれば仏教の真理がわかる、という考え方で、こういうのを「顕教(けんぎょう)」と言います。仏教の真理は、お経つまり言葉で全て説明できるし理解できるというわけです。

一方、最澄や空海が唐で学ぼうとしたのは「密教(みっきょう)」と呼ばれます。こっちは真理は言葉では伝えられないという考えから、師匠から弟子に直接修行法や儀式や呪文を伝え、最終的に仏陀となることを目指します。

そして秘密の呪文を使いこなして加持祈祷を行ってくれる密教は、皇族・貴族にとっては非常に魅力的に見えました。だから「誰か唐まで行って勉強してきて!」と言いたいわけです。

それで最澄や空海が唐に行きます。

ただ、最澄が学んできたのは天台宗で、密教的要素は少ししか含まれていませんでした。

それに対して空海は密教そのものを完全に吸収して日本に帰ってきます。

それで密教に関しては、最澄は空海を師匠と仰いだそうです。

最澄のほうが大先輩で、当初は、

  • 最澄=桓武天皇の側近
  • 空海=無名の修行者

という大きな差があったのに、必要なことを教わるためには自分よりはるかに若い人の弟子にだって喜んでなる、それくらい度量の広い人間だったというわけですね。

なんかこう言うと、最澄が唐でなんにも勉強してなかったように聞こえますが、実際は多くの知識を持ち帰りましたので、最澄の延暦寺からは有名なお坊さんが数多く輩出されることになります

密教系の芸術としては曼荼羅(まんだら)が有名ですね。

これは言葉では表現できない密教の真理を絵で示そうとしたものです。

また空海と言うと書道も達人で、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と呼ばれます。

国風文化

次は国風文化。

国風文化が発展するきっかけは遣唐使廃止です。つまり菅原道真のおかげ。

国風とは「日本国風」ということです。つまり遣唐使廃止で唐の影響が小さくなった結果、日本独自の文化が栄えたということ。

また、藤原氏の時代と重なるので藤原文化と呼ぶこともあります。

最も有名なのは文学関係でしょう。

特に清少納言と紫式部です。

この時代は、ひらがな(漢字を崩した字)、カタカナ(漢字の一部を使った字)が発達します。

これによって表現しやすくなったわけですが、特にひらがなは女性が使うものと考えられていたので、国風文化の文学関係で有名な人も女性が多いです。

清少納言は枕草子という随筆を書きました。

紫式部は源氏物語という物語を書きました。

蜻蛉日記(かげろうにっき)や和泉式部日記(いずみしきぶにっき)も作者は女性です。

紀貫之(きのつらゆき)などは、ひらがなを使ってみたいばかりに、女性のふりをして「土佐日記」を書いています。

おじさんがJKになりきってTwitterをやるようなものです・・・ちょっとちがうか。

世界最古のSF(?)とも言われる竹取物語も有名ですね。かぐや姫のお話。でもこれは作者不詳。

そうそう、日本初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう、天皇の命で編纂された和歌集)である古今和歌集もこの時代のものです。

では次文学以外を見てみましょう。

やはり貴族の家ですね。寝殿造と呼ばれるもの。神殿ではないですよ。寝殿と呼ばれる建物を中心に、左右に建物があったり渡り廊下があったり、大きな庭に池があって、池の中に島があって橋がかかってたり、という設計。

それから貴族の服。特に男性より女性ですね。十二単(じゅうにひとえ)というやつ。着物をたくさん重ね着して、色をいろいろ組み合わせて、美しい「重ねの色目」を作るのが、当時の女性のファッションだったそうです。

気合い入れすぎていっぱい重ね着してしまって重くて歩けなくなった女性もいた、なんておっちょこちょいな話もあります。(笑)

もともとは、当時の今よりも平均気温が低く、そのうえ京都盆地ですから冬の寒さが厳しい、だから重ね着をして、そこから始まったと言われています。

そういう、貴族のはなやかな生活を描いた絵を大和絵といいます。

浄土教

仏教はどうなったのかと言うと、この時代、「末法思想」が流行ります。

  • お釈迦様が死んで1000年間を正法(しょうぼう)
  • 次の1000年間を像法(ぞうぼう)
  • それ以後の1万年を末法(まっぽう)

と呼びます。末法の世では正しい教えが消え、世の中は乱れると考えられました。

その末法が、11世紀半ばから始まると信じられていました。

それは実際、当たっていたかもしれません。これから武士の時代に入り、戦乱が長く続きますので。

そこで仏教でも新しい教えが流行します。浄土教というものです。

これは、阿弥陀如来を信じて南無阿弥陀仏と唱えれば、死んだ後に阿弥陀如来が極楽浄土へ連れて行ってくれるという教えです。

この世は末法でもう望みがないから、あの世で救われましょうというわけですね。

浄土教は特に、空也というお坊さんが広めたことで有名です。

あの、口からなんか吐いてますが、これは空也さんが「南無阿弥陀仏」と唱えると、その一文字一文字が仏様の形になったという伝説を再現したものです。

決してヨガファイアーとかではありません。あ、この像が作られたのは鎌倉時代だと言われています。

源信(げんしん)という僧侶の書いた「往生要集(おうじょうようしゅう)」という書物も有名です。これは極楽に往生するにはどうしたらいいのか説明したものです。

「ハウトゥ往生」というわけです。「誰でも簡単! 極楽への行き方」という感じでしょうか。